柴田 錬三郎を知ってますか。
今では、本屋にも図書館にも置いてない。『眠狂四郎』といえばわかりますか?
1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)の歴史小説家。その他『赤い影法師』『水滸伝』『徳川太平記』など多くあり、剣客ブームを巻き起こした作家です。
50年ほど前、私が中学1年の時(昭和36年)、会津の伯父(父の兄)牧原源一郎氏から一本の電話がはいった。父が電話に出、「小説中央公論(S36秋季号)」に我が家の先祖のことが書かれている」とのこと。P.210柴田錬三郎著『妬心(としん)』に「側室の恨みをかって牧原家は断絶した」と書かれているという。
その後の伯父の話では、「牧原家は養子、養子で家系をつなぎ、断絶せずに子孫が今に残っている。その旨、柴田錬三郎に手紙を送ったがナシのつぶてだった」とのこと。
その後、他の短編と合わせて『妬心』というタイ単行本トルでが出た。その時買わずにいて、その本を私は30年探し続けた。古本屋を見ると探しに入ったものである。父の七回忌の墓参りをしての帰り、今日こそ見つかるのではとの気がして神田の古本屋に立ち寄った。「アッタ!」感動で打ち震えた。仇(かたき)を 探しあてたようなものである。
会津藩三代目藩主正容の時、側室を家臣に払い下げるという事件が二度あった。一度目が「上意討ち」の笹原伊三郎の倅へである。二度目が神尾八兵衛に下げ渡された「おもん」であった。おもんは気性が激しく殿の嫌気をかって、国元へ帰されたのであるが、その時の側用人が、当家の祖牧原只右衛門であった。おもんは差配の権限を持つ側用人牧原只右衛門を恨んで呪詛した。そして『妬心』の最後は「牧原只右衛門の家は次の代になってつぶれた」となっている。
柴田錬三郎はこの話をどこから調べたのか。その後、会津藩の公用記録『家世実紀』に事実関係だけは書かれていることがわかったが、そこから肉付けして小説にしてしまう作家の能力には感心する。
伯父から聞いた話では、「側室の呪詛によって、七代に亘って男児は長生きしない」という言い伝えは、わが家にあったという。子供の頃それを聞いて、自分も長生きはできないかという思いがずっとつきまとっていた。
もう七代は過ぎたのか、叔父も父も80過ぎまで長生きした。“若死にする危険”には、生命保険で備えてきたが、“長生きする危険”には備えてこなかった。これからまだ生き続けることに不安を感じる。