今年は、桶狭間の合戦から450年。記念のイベントが
桶狭間の合戦ゆかりの各地で行われました。
鳴海町の「中島砦」跡地では、碑を管理する伊藤氏や
隣地の近藤氏が中心となって、琵琶の『桶狭間』を
聴く会が開催されました。ここは「信長が兵を終結させ、
桶狭間への号令を下した“出世成功の足懸かりの地”」
というわけです。
従来の定説では、「信長は激しい雷雨の中、迂回して、
太子が根の山頂から、窪地で休息していた義元を襲った」
というのですが、近年、この「奇襲説」は否定されつつ
あります。
「信長は敵中深く、中島砦まで兵を進め、雨が上がって
から、桶狭間に向かって正面攻撃で突き進んだ」という
のです。
その異説を唱えたのは藤本正行氏。なんと慶応の史学科で
私と同期でした。彼は「長篠の合戦の鉄砲三千丁」も否定し、
今や“知る人ぞ知る”の歴史学者となっています。
彼は「女武者」のイラストも上手で、私も「武者絵」をよく
描いていましたので、意気投合し、家に遊びに行ったこと
など、昨日のように思い出されます。彼は覚えてないかな?
私も「尺八と虚無僧の歴史」の定説に異論を唱えているの
ですが、どうもマイナーで、“まぁいいなぁ”でござりまするか。
ザンネン。
桶狭間の合戦ゆかりの各地で行われました。
鳴海町の「中島砦」跡地では、碑を管理する伊藤氏や
隣地の近藤氏が中心となって、琵琶の『桶狭間』を
聴く会が開催されました。ここは「信長が兵を終結させ、
桶狭間への号令を下した“出世成功の足懸かりの地”」
というわけです。
従来の定説では、「信長は激しい雷雨の中、迂回して、
太子が根の山頂から、窪地で休息していた義元を襲った」
というのですが、近年、この「奇襲説」は否定されつつ
あります。
「信長は敵中深く、中島砦まで兵を進め、雨が上がって
から、桶狭間に向かって正面攻撃で突き進んだ」という
のです。
その異説を唱えたのは藤本正行氏。なんと慶応の史学科で
私と同期でした。彼は「長篠の合戦の鉄砲三千丁」も否定し、
今や“知る人ぞ知る”の歴史学者となっています。
彼は「女武者」のイラストも上手で、私も「武者絵」をよく
描いていましたので、意気投合し、家に遊びに行ったこと
など、昨日のように思い出されます。彼は覚えてないかな?
私も「尺八と虚無僧の歴史」の定説に異論を唱えているの
ですが、どうもマイナーで、“まぁいいなぁ”でござりまするか。
ザンネン。