現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

4/25(金)夜「みやこ」で尺八ライブ

2014-04-13 18:47:52 | 虚無僧日記
加藤護さんの尽力で、下記で「ライブ演奏」をすることになりました。

◆日時:4月25日(金)夜6時30分~
◆場所:和風ラーメン処「みやこ」
    名古屋市東区東桜2-11-14
℡ 052-931-9622
◆申込:4/22までに加藤護まで 
    ℡ 052-802-2081 
      090-8473-7866
◆会費:2,000円。飲み代は別、

    私「一路」には、虚無僧ですので、志を喜捨して
    いただくという算段。


「みやこ」のオーナー「小木曽誠」さんは、尺八の名手です。
何百曲という演歌のカラオケを作り、そのカラオケ伴奏に
合わせて尺八を吹く練習指導をしています。

実は、今回企画された経緯は、

翌日4月26日、岡崎で「岸本寿男(尺八)とギター」の
コンサートがあります。

◆愛知県岡崎市シビックセンター 4F コロネット
◆出演:岸本寿男(尺八)蓮見昭夫(ギター)
◆開場:18:30 開演19:00
◆チケット:一般前売3000円 当日3500円

◆問合わせ:岡崎市シビックセンターコロネット 0564-72-5111


岸本寿男」氏は、YouTubeでみましたら、ジャズ尺八の
すごい方ですね。

その岸本氏のライブを聞きに「横山横山(おうざん)」氏、
ポップス尺八の「昌平」氏が、名古屋にみえることになり、
前泊されるので、その歓迎の会です。
岸本氏も後から来られるとか。歓迎の前夜祭です。

この御三方、すべて加藤護氏がネットを通じてのご縁です。



「(自動車)教習所」、名古屋では「車校」

2014-04-13 17:31:50 | 虚無僧日記
「私は○○の校長です。ぜひ、講演に来てください」と
言われて、てっきり「○○小学校」か「中学校」かと
思っていたら、なんと「自動車学校」。その「教官に
ぜひ尺八とお話を」というのでした。

「草の名も所によりて変わるなり、難波の葦も伊勢の浜荻」
ですな。

ネットでも、「地域で違う“自動車学校、教習所”」と
いうサイトがありました。

東京と大阪では「教習所」。「教習所」は 東北から中国・
四国にかけて広く分布。

ところが、愛知県は「自動車学校」を略して「車校」。
隣りの岐阜、三重、静岡は「教習所」なのに である。
愛知県(名古屋)は、独自の文化圏を築こうとする
習性があることは、こんなことでも判ります。


独自の呼称は、青森県「自車校」。秋田県では「自車学」。
読みは「じしゃが」とのこと。新潟県では「車学」。
隣り合う山形、富山などでは 使われていない。

北海道の一部で「自学」。富山と静岡では「自校」。
岡山県では、「教習所」ならぬ「教習」。

沖縄県は「自練」。これは、かつて沖縄では、免許試験は
試験場で受けており、教習所は「自主練習」をするところ
だったことによるものとのこと。


というわけで、私。東京から名古屋に移り住んで、つい
「教習所」と口にしてしまうと、「よそ者」というのが
バレてしまうことたびたびでした。そのたびに笑われます。


「虚無僧」が幕府の隠密なら、たしかに、言葉を発すれば、
よそ者とバレる。いついかなる時も 言葉を発せず、ただ
「尺八」を吹いて応ずる。これは、隠密としては良い流儀
だったかもね。




「樋口恵子」さん81歳で現役復帰

2014-04-13 08:19:30 | テレビ・映画・芸能人
毎日新聞4/8に「樋口恵子」さん。「『人生100年の計』のススメ」と
題して、「超長寿社会、100歳まで生きる生活設計を立て、女性も働く
覚悟を」と。

30年ほど前、千代田生命で「樋口恵子」さんに講演していただいた。
女性営業職員の募集のイベントで、「これからは人生80年時代。女性も
家庭から社会に出て働かねば」という内容でした。

まず、開口一番。「白雪姫、シンデレラ姫・・・・。 中世の女性の平均寿命は
何歳ぐらいだったと思いますか?」

みな「はてな?」。そこで「37歳だったんですよォ」に、どよめきの声。
「そう、楊貴妃もクレオパトラも、美人はみな37、8歳で死んでいます。
ダイアナ妃だって38歳。“美人薄命”といいますが、女性は、16、7歳で
結婚して、子供を生んで、その子が成長して結婚すれば、もう役目を終えて、
(命が)おしまいだったんです」と。

衝撃的でした。「だから“おとぎ話”は皆、結婚してハッピーエンド
だったんです」とも。

なるほど「ハッピーエンド」か。幸せなのは結婚まで。そこから
夫婦、親子の地獄が始まると、私は勝手に理解たものでした。

樋口恵子さんの話は、「子供と一緒に過ごせるのは、中学ぐらいまで、
わずか、15年そこらです。今は、中世の人の倍 生きられる。二度の
人生を楽しみましょう」という内容でした。

あれから30年。今や「人生100年」。20歳も伸びた。
樋口恵子さんも御歳81歳。最近、引退されたか、お顔を見ないなと
思っていたら、『人生100年時代への船出』『おひとりシニアの
よろず人生相談』という本を出し、「女性未来研究所」の所長に
就任されたとのこと。

「81歳の現役復帰って面白いじゃない!だから引き受けたの」と、
そのお顔は、若々しく美しい。
30年前、初めてお会いした時は、オムスビのような顔で、目もきつく、
“おんな”を感じさせない○○○(失礼!)と思ったのですが、今
81歳で、円満な美しい顔になられた。


「健康診断」の結果は

2014-04-12 21:28:16 | 虚無僧日記
母譲りで、私も医者嫌い。健康診断なんか受けたことがない。
いや“なかった”のだが、先日 受けた。

鈴花が、会社の健康診断で「要再検査」とされ、K病院で
いろいろ検査を受けることになった。この機会にと、
私も胃カメラと血液検査を受けた。結果はすべて“標準値”。
どこも悪い所なし。彼女も すべて異常なし。

さて、こんな話を聞いた。町医者から「癌の疑いがあるから」と、
大病院を紹介されて、検査を受けた御仁。結果は「異常なし」。
普通なら「良かった」と喜ぶまでのことだが、その御仁、
先の医院に怒鳴り込んできた。「一日、検査に時間と金を
費やして、無駄に終わった。かかった費用と慰謝料を払え」と
いうのだ。

逆のケースもある。医師が検診で見落としたために、病状が悪化。
死に至った場合などは、“訴えてやるー”がお決まりの世の中に
なってきたそうな。こういう訴えが 今 激増。
医者も大変。それがし、医者にならんで良か~った。


「医者嫌いの医師」久坂部羊

2014-04-12 16:15:56 | 虚無僧日記
4/12NHK「ラジオ深夜便」は、作家で医師の「久坂部 羊」氏。
「医者の父がめざした”明るい最期」と題して、「医者嫌いで、
自然死を貫いた父親」のことを語っていた。

父親も医師。国立病院に勤務していた麻酔科医。

自分が「作家になりたい」と言うと、「いいだろう。でも
最初は食えないから、まずは医者になったらどうだ。
医者になっても小説は書ける」と。なんでも、まず
「よし」と肯定して、受け入れてくれる父だった。 

父は医師でありながら、近代医療に批判的だった。
「医者は、自分が治してやったと思っているが、あれは患者が
勝手に治ったんだ」とか、「外科医がいらんことをするから、
患者を死なせよった」などと言っていた。

「人間には 自然に病気を治す力が備わっているので、
医療がよけいな手出しをしないほうがいい」という考えの
持ち主だった。

その父は、30代の半ばで 糖尿病と診断され、専門医の指示通りに
食事療法をはじめたのに、いっこうに血糖値が下がらなかった。
それで、「原因は食べたいものが食べられないストレスのせいだ」と、
食事療法をやめてしまった。

「食べたいものを食べ、ストレスのない状態にしたほうが、身体に
良い。検査なんかするから、一喜一憂してストレスになる」と、
血糖値の検査もやめてしまった。

以来、父は三十年以上、好き放題に食べて、コーヒーも砂糖を
3杯、タバコも制限なく吸った。

69歳の時、体重が20キロも減り、咳が出て、胸の奥が痛いと
言う。ついに入院して、検査の結果は、血糖値が700を超えていた。

それでも、その後も、父の療養態度はめちゃくちゃだった。
相変わらずコーヒーには砂糖を3杯入れ、ケーキやまんじゅうを
食べたい放題食べ、タバコもいっこうに減らさない。血糖値の
チェックさえしなかった。

82歳の時、ついに左足の中指と薬指が壊死して、足の裏側が
真っ黒になってしまった。糖尿病の合併症で末梢循環不全が起こり、
組織が死んで腐るのである。

壊死が広がると切断の範囲も広がるので、できるだけ早く切るのが
望ましい。ところが、父は「もうしばらく様子を見る」だった。

父は、この姿勢を生涯貫いた。死の床についた際も「もう充分
生きた」と、延命治療を拒み、点滴や栄養補給も受けず、死を
受け入れ、最期は意識がなくなり安らかに亡くなった。

死ぬことは苦しくない。治療は反って苦しみが増し、医療は
死に対して無力である。無欲になり執着心を捨てることで、
上手に死に、死の恐怖心を弱めることを父から教わった。

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私の母も全く同じ。90歳になって、体はだいぶ弱ってきた
ようだが、医者に行かない。

私はそれに甘えて、ほったらかしだが、「久坂部」氏も言って
いた。「必要な医療を受けさせなかったことで、親を虐待した」と、
刑事事件になるのだそうだ。くわばらくわばら。



「BIG ISSUE」の販売員「ヒロキ」さん。

2014-04-08 20:27:59 | 虚無僧日記
「THE BIG ISSUE」233号(2014.2.15)「今月の人」欄で
紹介されている「ヒロキ」さん(57歳)。

真新しい黄色の帽子に、明るいオレンジ色のジャンパー。
顔もいきいき、はつらつとしていて、とても感じがいい。

「ISSUE」の販売員は皆、服装はきちんとしている。
清潔感があって、とてもホームレスには見えない。


「ヒロキ」さんは、ホームレス歴20年。「BIG ISSUE」の
チラシを見て、販売員となって半年。NHKの取材も受けた。

ホームレスになる前は、いくつか仕事も変わったが、
自動車部品を作る会社を立ち上げ、月収70万ほどにはなり、
結婚もし、子供もできた。でも遊びに費やす金も増え、
気づいたら借金が数百万円。返済できなくなり、妻子を
残して家を出た・・・・。

私と同じだ。「貧乏人が、必ずしも破産するわけではない。
誰にでもホームレスになる落とし穴がある」そして
「ホームレスは一時期」という言葉が目を引く。

「ヒロキ」さんは、今、「支援してくれている人々に感謝。
妻子には心から謝りたい」と懺悔。「お金に余裕ができたら、
みなさんがくれた優しさを、今度は僕が他の困っている
人たちに向けていきたい」と。

私も、今は「年金」が はいるようになったので、生活は
安定してきた。わずかなお金を、ささやかながら
彼らの支援に廻せるようになりました。感謝です。拝(はい)。

ホームレスの自立支援「BIG ISSUE」

2014-04-08 19:48:15 | 虚無僧日記
最近、名古屋駅前の歩道で、本を高くかざしている男性を
よく見かける。聞けば、ホームレスの自立支援として、
「THE BIG ISSUE」という雑誌が 月2回発行され、それを
ホームレスが路上で売って、収入にするという試み。

3月までは、一冊300円で、内160円が、4月からは
値上がりして、一冊350円。内180円が、販売者の
収入となる。

この支援組織は、イギリスで始まり、日本では 2003年から
スタート。かれこれ10年を過ぎ、少しずつ認知されてきて、
一日20冊前後、3,000円ほどの収入になるという。

ホームレスとはいっても、身なりは清潔で、きちんとしている。
今日見かけた人も、顔が にこやかで とても感じが いい男性
だった。思わず、有り金 全部はたいて4冊、買ってあげた私。

一日 立って、本を買ってくれる善意者を待つ。その行為は、
虚無僧と同じだ。つい同情してしまう。


さて また 同じような宗教団体がある。「エホバ、ものみの塔」。
時々、歩道に数人ずつ並んで立っている。無言で立っているだけ。
「ものみの塔」の冊子を手にしているので、「エホバ」と判る。
ひたすら、近寄ってきてくれる人を待つだけ。本をもらって
あげるような危篤な人は私ぐらいだ。

なんか「虚無僧」の私が 先輩格に思えてきて、つい支援して
あげたくなってしまうのであります。


「サザエさん」一筋の声優って?

2014-04-08 05:50:54 | 虚無僧日記
4/8 早朝のラジオ深夜瓶便、ゲストは「加藤みどり」さん。
明るく若々しい声。「加藤みどり」と聞いて「誰?」。
判りませんでした。なんと「サザエさん」の声役で45年。

1939年生まれというので74歳。で、あの若々しい声、驚きました。
「カツオ君」役の「高橋和枝」さんは、結構知られていて、
私もビデオの仕事をしていた時に、ナレーターとしてお願いし、
お会いしたことがあります。しかし、「サザエさん」の声優は
ついぞ知りませんでした。「加藤みどり」さんの本名は、
「伊藤みどり」。スケーターの「伊藤みどり」さんと間違えられ
かねない。

ラジオで話しをうかがうと。

「松竹歌劇団」の13期生で、「倍賞知恵子」と同期。
「オーディションを受けて来い」と言われて、受けにいったものの、
一言二言で「もういい、帰れ!」と。それで素直に「はい」と
帰ってきたら、後で「決まった」との連絡。「帰れ!と言われて、
素直に帰った、その帰りぎわが、明るくてよかった」という。

しかし、そこで提示された条件は、「他の番組には、一切出演しては
いけない。毎週木曜日、収録の日は、絶対休んではいけない」と
厳しいもの。

当時は ギャラも安い。(私の生活どうなるの?)と不安が
よぎったが、「君は、家族があるからいいよね」と言われて
「はい」。番組の収録の時も、すべてお任せで「はい」「はい」。
それで、「サザエさん」一筋に45年。それもすごいことだ。

74歳になっても、あの若々しい声を維持していることもすごい。

ところで、原作者の「長谷川町子」さんの家は、私の妻の家の
近く。世田谷区桜新町には「サザエさん通り」もできている。
私は、妻の家にころがりこんでいましたので、当時「マスオ」さん
と呼ばれてました。

「サザエさん」のことは、なんでも知っているつもりでしたが、
「サザエさん」の姓は「磯野」と思ってました。結婚して
「フグタ」でした。「フグタ サザエ」なんか変。

両親も「カツオ君」も「タラちゃん」も「磯野」。
その「磯野波平」役の「永井一郎」さんが、今年1月、亡くなられました。
後任に「茶風林」を起用して、50周年まで続けるとのこと。
「明治、大正、昭和、そして平成」の4世代が見ている長寿番組。
視聴率も高く、国民的アイドル。ギネスものでは?

「悪口への対応法」

2014-04-07 17:36:43 | 虚無僧日記
職場での悪口…「どう思う?」と聞かれた時に使える対応法(nanapi) - goo ニュース

【悪口への対応法】です。実行してみましょう。

1:曖昧に返答する
   同意はせずに、主語は「あなた」になるように注意。
   「(あなたは)そう思ってたんですね~」
   「(あなたに)そんなことがあったんですね~」

   「まあ、いろいろあるよね」と曖昧に返して、話題を終わらせる。
  
2:話題を変える
   「そういえば」とか、「あっ!」と、突然思い出したようにして、
    仕事のこと、テレビで見た話しなど、話題を変える。

3:とぼける
   遠くを見ながら、聞こえないふりをする。
   「話し ちゃんと聞いてる?」と振られたときは、
   「ごめん、ぼうっとしてた!ところで…」
   「ごめん、眠気が…!そういえば…」と、話題を変える。

4:空気を変える
   「あれ、口に何かついてるよ」
   「顔にまつげついてるよ」
   「目にまつ毛入った…!」
   「くしゃみ出そう…」
   「ちょっとトイレに行ってくるね!」と言って立ち去る。

5:相手を褒める
   「あなたはとても人望が厚くて、信頼もあって羨ましい!」
   「○○さん(悪口を言われている相手)が、あなたのことを優しいって言っていましたよ」

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ふむふむ。「朝起会」で毎朝「人の悪を言わず」とお誓いしていながら、
会場を出たとたんに、「ねぇねえ、今朝の○○さんの態度、何よ!」と
悪口が出る。人の悪口、愚痴を避けるのは、なかなか難しい。

「実践倫理」では、他人が「悪口を聞いてほしい」と 寄ってこないような、
「(あの人には、人の悪口や愚痴は言えない)と思われる自分になりなさい」と
学びます。「悪を呼ぶのも、すべては自分」ということです。


私の最初の尺八の師、「山室重遠」叔父

2014-04-07 03:06:06 | わが家のこと
以前、私の母方の叔父「山室重遠」について書きましたら、
コメント欄に、こんなうれしいメールがはいりました。
転載させていただきます。

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初めまして、○○と申します。
会津若松出身で、現在東京で働いております。
幼少時代、中耳炎もちだった私は、父に連れられて
よく山室医院に行きました。父は、当時医薬品卸で
働いていました。

看護師さんの方にも面倒を見てもらい、よく奥の座敷?
冬になるとコタツの部屋で お菓子を食べました。

そんなことを思い出していたらこのブログを見つけました。
今でも、山室医院にあった白い棚、医薬品が入っていた瓶など、
実家に飾られています。

私の父は、山室先生に「本当にお世話になった、ああいう
先生は今いないんだよ」と昔懐かしく話していました。
また、父はよく山室先生に「お前も尺八をやれ」と言われて
いたようです。(笑)

このブログのおかげで、こんなことを家族で話すことが
できました。感謝しています。

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うれしいですね。山室医院に来られていた「医薬品卸」の方なら、
私もニ三度お会いしています。思い出しました。

白黒テレビが出始めの頃、医薬品の卸会社から、テレビが
届けられました。そして、カラーテレビが50万円もした頃、
カラーテレビが。

白黒時代の「力道山」の空手チョップや相撲見たさに、大勢の
患者さんがテレビを観に押しかけていました。患者さんの
待合室では入りきらないので、奥の座敷の縁側にテレビを置き、
100坪ほどの庭は、患者さんがあふれていました。テレビは
すごい宣伝効果だったのです。


重遠叔父は 私の最初の尺八の師です。豪放磊落で、お箏の
先生の演奏会などが終わったあと、東山温泉の「ホテル東鳳」に
出演者一同を招待して宴会を開いたりしていました。

そう、昔は、尺八家は地元の名士、篤志家で、お筝のお師匠さんの
スポンサー、パトロンでした。今は、尺八家が、お筝の先生から
謝礼をいただく。立場が逆転です。


ある年「山口五郎」氏が会津に来られた時、伯父が宴席を設け、
親しく歓談。酔っ払って「ゴロちゃん」と呼んでいました。
(私の父も「五郎」で「ゴロちゃん」です。

後に人間国宝になられた山口五郎師です。「ゴロちゃん」なんて
呼ばれてどう思ったでしょうか。後日、山口五郎師から、ご丁寧に
お礼状が届きました。さすが、五郎師です。いや、奥様の筆の
ようです。地方公演の後では、奥様が必ず、関係者にお礼状を
出されるとか。奥様の内助の功、すばらしいですね。

そして、山口五郎師から「印伝の尺八袋」を記念にいただき、
それが今、私の手元にあります。