今日、実家のある米子から名古屋に帰ってきた。
実家で過ごす時間は、独居老人の父の世間話を聞き、時折相槌を打つという、ビジネスとは全く関係のない時間だ。
その父が寝静まった後、ミヒャエル・エンディの「モモ」を読んでいた。
ご存じの方も多い、児童文学の名著だ。
残念ながら、子どもの頃「モモ」を読んだ記憶がない。
もちろん、ミヒャエル・エンディも「モモ」が児童文学の名著であることも知ってはいるのだが、なんとなく手が出なかった本の一つだった。
その「モモ」を読む切っ掛けとなったのは、いろいろな理由があるのだが、実際に読んでみるとある種の「生々しさ」を感じたのだ。
実は、読んでいる途中で、気分が悪くなったこともあった。
その「生々しさ」というのは、おそらく私が長い間ビジネスという世界に身を置いてきたからだろう、ということは暗に想像がつく。
というのも、「モモ」で描かれる「灰色の男たち=時間貯蓄銀行のセールスマン」がつくりだした世界は、今の私たちのビジネスでは「当たり前」とされていることに近いだからだ。
「モモ」に登場する「時間貯蓄銀行」が勧めているのは、「時間を切り詰める合理性」だ。
そこには、人としての感情は一切排除され、効率と合理性ばかりを求めるある種の「エゴ(あるいは自己益)」だ。
「自分にとってビジネス(というよりも「儲け」だろうか?)にプラスになるのなら、相手のことなどお構いなし。判断基準は、自分にとってどれだけ利益になるのか?」という点だ。
それを、ミヒャエル・エンディは「時間」という物差しで、表現をしている。
しかし、ビジネスキャリアを積んできた人たちの中には、「モモ」で描かれているような社会になっていることに気づいていない人たちも数多くいるのではないだろうか?
それは「マニュアル通り。How toに従い、疑問を持つこともなく、自分で考えることを止めている人たち」が、増えているということを実感するからだ。
この「疑問を持たない、自分で考えることを止める」ということは、実はとても「ラク」な方法であり、自分で責任を負う必要が無い、ということでもある。
社会を見渡すと、そのような自分で責任を負う覚悟の無い大人たちの一人や二人、思い浮かぶのでは?
それが今の社会だとすると「モモ」で描かれた「時間貯蓄銀行」に「時間を奪われた人達の姿」と、重なるように感じるのだ。
主人公の少女・モモは灰色の男たちと、相対するキャラクターということになる。
そして最後はモモが、街の人たちの「時間を取り戻す」ことに成功するのだが、今の社会ではモモのような人たちは瞬く間に社会から追い払われてしまうだろう。
ただそのような「自己益追求型のビジネスで良いのか?」という疑問を、持ち始めている人たちもいることは確かだろう。
もし、近い人物がいるとすればグレタ・トゥーンベリさんかもしれない。
だからこそ、彼女の発する一言一言に世界の政治家や経済人が、眉を顰め攻撃的な言葉を繰り返すのだろう。
本来であれば、主人公・モモの役割はビジネスや政治に関わる、大人たちの仕事なのではないだろうか?
と同時に、「疑問を持たない。自分で考えない」ことで起きる社会は、ハンナ・アーレントが指摘した「全体主義」の誕生でもあると感じるのだ。