日曜日、天皇家の長女・敬宮愛子殿下の「成年式」が、行われた。
お誕生日から数日遅れの「成年式」だったが、一番格の高い「ローブデコルテ」に「ティアラ」を身に着けた敬宮様は、初々しさがありながらも、美しくその佇まいは凛として「流石、天皇家のお嬢様」という印象があった。
この映像を見ながら、「人は、身に着ける衣装やジュエリーの豪華さを凌駕するほどの品格を持たないと、その衣装もジュエリーも輝かないのだな~」という、印象を持った。
と同時に、敬宮様が示したのは「贅沢」の本質だったのでは?と、感じたのだ。
第二次世界大戦後、日本の「贅沢=お金があり、高級なモノ・コトを好きなだけ得られること」と、思い込んでいたような気がする。
かつては「成金趣味」と、眉を顰めるようなモノ・コトであっても、それは「高価なモノ・コトを享受できる財力の象徴」であり、それが「贅沢」だと思われていた、ということなのだ。
それが「新型コロナ」の世界的流行によって、「お金ではどうしようもできない」ということも、分かってきた人たちがいるのではないだろうか?
それは「伝統」であったり「文化」など、目に見えない、手に取って触ることができないものへの「価値」を知る事で得られる、心や精神的満足のような気がしている。
生活をするためには、お金は必要だ。
成金趣味的なお金の使い方をしようとすれば、際限のない「お金が湧く泉」のようなモノを持たない限り無理だろう。
しかし、それで人の心は満足するのだろうか?
様々な知識を得る事はもちろんだが、教養と呼ばれる芸術や文化などに触れる事。
自然の豊かさを感じる感性、それらの中から「自分を見つける」という力。
そのようなモノを通して、人は「心の充足感」という「贅沢さ」を感じる事ができるのでは?ということなのだ。
それを実感させたのが、上述したように「新型コロナ」の世界的流行だったような気がする。
「感染症」は、お金のある・無しに関係なく、人に襲い掛かる。
確かに100年前に大流行をした「スペイン風邪」では、富裕層の人たちは「スペイン風邪」が大流行する前に、安全な地方にある自分の領地や別荘へと逃げることで感染せず、結果として、衛生環境の劣悪な貧困層の人たちが、命を落としたという事実はある。
しかしその当時の富裕層にとって、都市部であれば華やかなパーティーをしたり、着飾って劇を観に行くようなことぐらいしか、楽しみが無かった事を考えると、地方に逃げることは、その楽しみもまた我慢をせざる得ない、という状況だったような気がするのだ。
そのような状況下の生活を「味気ないもの」にするのが「豊かなもの」にするのかは、それぞれの人の「価値観」によるところが多い。
金銭的価値に縛られていれば、お金で得られる満足が無ければ、とてもわびしく感じるだろう。
逆に、金銭的価値以外に価値を見出せる人であれば、自然の美しさなどの感性の満足が「心の充足感」となり、「心の贅沢」を堪能することができるのでは?
「コロナ禍」で得られたモノ・コトの一つは、「金銭的価値」による満足ではない、「心が求める贅沢」という存在だったような気がしている。