日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

企業CMの目的は?

2018-01-15 22:07:28 | CMウォッチ

日経新聞のWEBサイトを見ていたら、とても懐かしいコピーを見た。
日経新聞:「やわらか頭」再び? オリンパスなど企業CMに女優

「やわらか頭」と言われても、バブル経済を知らない世代にとっては「一体何を言っているの?」というコピーだろう。
バブル経済真っ盛りの頃、一般生活者にはあまりなじみの無い「重化学工業」の企業を中心に、積極的にテレビCMが制作された。
その時「重化学工業」というイメージとは似ても似つかない(と言っては失礼だが)女優さんやタレントさんたちが、積極的に起用され、リクルートに一役買ったといわれている。
その代表的なキャッチコピーが住友金属の「やわらか頭」だったのだ。
youtube:住友金属CM 1990年 山瀬まみ
他にも、新日鉄は映画・「エイリアン」の大ヒットで一躍有名になった?シガニー・ウィーバーを起用していた。
youtube:新日鉄CMシガニー・ウィーバー
紹介をした新日鉄のCMは、皮肉にも昨年暮れに閉園した「スペース・ワールド」のCMだが、住友金属にしても新日鉄にしても、それまでの基幹産業の一つとしての「重厚感さ」ではなく、軽やかなイメージをCMを通して伝えたい、という姿勢が見える内容になっていた。
特に山瀬まみさんを起用した住友金属の「やわらか頭」というキャッチコピーは、そのままリクルートでも使われ、住友金属が求める(新入)社員像となった、と言われた。
それから30年近く経ち、再び「やわらか頭」を企業が求めている、ということなのだろうか?

おそらく半分は当たっていると思うが、もう半分は違うのでは?という気がしている。
というのも、この30年の間で理工系学部に進学する女子学生は、随分と増えている。
「リケジョ」という言葉も、もはや一般的になりつつある。
オリンパスが宮崎あおいさんを起用したからと言って、一眼レフカメラで写真を撮る「カメラ女子」が普通になった今では、1990年の頃のような違和感や驚きはない。
採用される新卒者についても、かつてのような男女差は無くなりつつあるのではないだろうか?
もちろん、「総合職・一般職」という振り分けでの男女比は明らかにあるとは思うが、それでも随分差はなくなってきているのでは?と想像する。

何よりも今回の記事に書かれている企業は、いわゆる「基幹産業」と呼ばれる企業の中でも、比較的女性が活躍しやすい分野なのではないだろうか。
そう考えると、今の若手女優を積極的に企業がCMに起用する理由は、むしろ企業側の「やわらかさ」を生活者に訴えたいからでは?
言い換えれば、「親しみ度を上げたい」ということになるのではないだろうか?



日本の企業にありがちな失敗ー女性の管理職の登用ー

2018-01-14 18:06:50 | アラカルト

昨日のYahoo!トピックスに、女性の管理職登用に企業の反省という内容の記事が、取り上げられていた。
元となった記事は、日刊工業新聞の「ニュースイッチ」の記事だ。
ニュースイッチ:イオン、「とにかく女性管理職を!」の反省

イオンだけではなく、女性管理職を増やしたい!という企業は多いと思う。
昨年秋に話題になった「ジェンダーギャップ指数」などを見れば、欧州諸国に比べれば「女性の活躍」の道のりは、まだまだ遠い、と実感せざる得ない。
安倍さんが、「女性の活躍」とか「女性が輝く社会」などと選挙で言ってはいるが、安倍さん自身はそのようなことは思っていないのでは?と、感じることが多々ある。
安倍さんだけではない、日本の男性企業経営者の多くも「これからは、女性も活躍してもらう時代」と言っていても、本音はどうなのだろう?と、感じることが多い。

だからと言って、日本の男性経営者ばかりを非難する気はない。
何故なら、女性側も「管理職になりたくない」と思っているのでは?と、感じることがあるからだ。
私が社会に出た頃(今から35年以上前)と、今とでは社会制度という面では整っているはずだが、今の女性のほうが「寿退社(あるいは「おめでた退社」)」を願っているのでは?という気がしている。
その背景にあるのは、今の社会が女性が働きにくいと感じているからだ。

「男女雇用機会均等法」によって、「性別による仕事や待遇の差をつけない」ということになった。
その結果、女性に男性と同じような働き方を企業側が要求するようになった、という気がすることが多々ある。
本来であれば、女性のような「ライフイベント」に合わせた柔軟な働き方を男性もできるように、という発想が必要だったのに、「企業戦士」のような馬車馬のような働き方を女性にも求めてしまったのが「男女雇用機会均等法」だったように思うのだ。
そうなると、結婚→出産→育児という女性にとっての重要な「ライフイベント」を諦めるか、仕事を諦めるのかという選択をせざる得ない。
もちろん、どちらも諦めたくない!という女性は多いし、実際孤軍奮闘している女性も数多くいらっしゃる。
そのような「孤軍奮闘している女性の姿」を見て、「仕事を続けることの難しさ」を感じる女性もまた多いのではないだろうか?

元々女性を管理職へ登用をしてこなかった企業にとって、「クォーター制」のような足かせは無いにしても、「女性が輝く企業」というイメージアップの為には、ある程度の人数の登用が必要になる。
仕事を長い間してきたから、キャリアがある、と考えるのは早計過ぎる。
仕事の経験と管理者としての経験は、同じではない。
女性の場合、同じ仕事を長期的にしていることはあっても、管理者としての経験は皆無に近い。
何故なら、今まで企業がそのような処遇をしてこなかったからだ。
それをいきなり「管理職に」と言っても、言われた女性は戸惑うばかりだろう。
職務年数に似合った職責を与えてこなかったのだから、仕方ない。
そのコトに、企業側は気づく必要がある。

このことは、決してイオンだけの問題ではない。
今多くの企業が考えなくてはならない、「キャリアパス」の問題なのだと思う。


「ことば」を探しに、まちへ出よう

2018-01-12 18:30:16 | マーケティング

今年、岩波書店の元旦広告は「広辞苑 第七版」と今月発刊される新書だった。
視覚的に訴える内容ではなく、「対話」をキーワードにした今の社会情勢などを絡めた、読ませる広告だった。
活字媒体の中心である、新聞向きの広告だったと思う。



その「広辞苑」が1週間の書籍の予約ランキングで1位となっているらしい。
リポビタンD TREND EYES:「広辞苑」の最新版発売!

私が学生だった頃は、「広辞苑」が家庭にあるのが当たり前のような感じであった。
「広辞苑」でないが「国語辞典」は、一家に1冊以上あったのではないだろうか?
それが今では、スマホの検索あるいは電子辞書に取って代わられ、一般家庭が購入するというイメージはなかった。
まして「広辞苑」は、決して安くはない。
それが予約(販売は、本日12日から)で、1位になるとは思ってもみなかった。
このトレンドランキングで、注目したいのは今回の「広辞苑」の編集を指揮した編集長さんのインタビューだ。

「ことば」は生き物だと思う。
時代によって、そのことばの持つ意味が大きく変わることさえある。
その中で、日本語として定着をしていくことばを選びだし、他のことばと関連づけていくという作業は、地味で途方もなく時間のかかる仕事だろう。
だからこそ、「ことば」を探すために、ニュースやネットの記事などを日ごろからチェックをするだけではなく、街中の看板や電車の中吊り広告などで使われている「ことば」をメモったりするのだろう。

このような「探す」方法は、実はマーケティングでも同じだ。
むしろ「ことば」を探すために、街中を歩き何気ない電車の中吊り広告に目をやり、ニュースやインターネットの記事などに目を通すのだ。
もちろん、ことばの意味の確認をするために「広辞苑」や「国語辞典」、時には英和辞典などを使うことも多々ある。
そのようにして、「集められたことば」から今の生活者の気分のようなものがつかむのが、マーケターの仕事の一つだと思っている。
様々な人たちが発することばを探すことは、その時々の時代感を探すということのような気がしている。




















口説く自由と断る自由

2018-01-10 21:54:06 | 徒然

先日、アカデミー賞の前哨戦とも言われる「ゴールデングローブ賞」の授賞式があった。
事前に、招待された女優さんたちは「黒のドレスで出席する」と言われていた。
そしてその通り、皆さん黒のドレスで出席をされた。
BBCJapan:ゴールデングローブ賞でスターの衣装は黒、黒、黒 性的暴力に抗議
確かに、黒のドレスばかりだが、決して華やかさに欠けたドレスではない。
むしろ、黒という色だからこそ表現できる、華やかさを感じるドレスばかりだ。
これが、ハリウッドらしい抗議の仕方なのかもしれない。

このハリウッド俳優さんたちの「性的暴力に対する抗議」の発端となったのは、名プロデューサーと呼ばれる人物が長年にわたって、プロデューサーという立場を利用して?俳優に性的関係を持ってきた、ということが表面化したコトだった。
その動きは「ME TO」と共に、広がりを見せ、今回の黒いドレスにつながった、ということはご存じの通りだと思う。

その「ME TO」に対して、異論を唱える人が出てきた。
フランスの大女優・カトリーヌ・ドヌーヴだ。
彼女の言う通り「(相手を)口説く自由」は、あると思う。
「口説く自由」があるのなら、「断る自由」もある。
ハリウッドで起きた「ME TO」は、プロデューサーという映画製作において力のある人物であったコトが、問題の発端となっていることを考えれば、カトリーヌ・ドヌーヴの発言はやや的外れな印象を持たれても仕方ないだろう。
まして、口説いた相手が新人俳優などであれば、力関係は圧倒的にプロデューサーが強い。
そしてこのようなセクシャルハラスメントをする人物の多くは、そのコトを十二分に理解をしている場合が多い、と言われている。

ただ、カトリーヌ・ドヌーヴの発言もある意味真を突いているのでは?という、気がしている。
「口説く自由」があるのなら「断る自由」もある、という点だ。
これは極普通の対等な関係において、成立する話だと思う。
何故か?日本の女性は「口説かれる」と「断りにくい」と思う傾向があるのでは?と、感じることがある。
それがこのお正月話題になった、ブルゾンちえみさんの新しいネタ「女のイヤは、イヤじゃない」だろう。
Huffpost:ブルゾンちえみの新ネタ「女のイヤは、イヤじゃない」に反発する声も
おそらくブルゾンさんの新ネタは、昔からよく言われてた「嫌よ嫌よも、好きのうち」という言葉から、きているのだろう。
このような言葉の意味が通じる時代は、随分前に終わっていると思うのだが、この言葉に縛られている女性も男性も本当は、まだまだ多いのかもしれない。
何故なら、そのような態度を示すことが「(女性として)可愛らしい」と思われ、そのように刷り込まれてきたのでは?と、感じることもあるからだ。
あるいは、その場の雰囲気を読んで付き合うことぐらいしたら?という、事なのかもしれない。
でもそれは、昭和以前の感覚だと思う。

「口説く自由」があるなら、「断る自由」もある。
それが対等な関係だと思うし、そのような関係からは差別も生まれないのではないだろうか?


色々な意味で、残念な商品

2018-01-09 19:37:34 | マーケティング

このところ、日テレ系の年末番組の「黒塗り」が、何かと話題というか問題になっている。
確かに、欧米では社会的批判を受けての仕方のないことだと思う。
日本国内における「黒人」に対してのイメージが、欧米とはずいぶん違うということも、考える必要があるようにも思う。
要は、どの立ち位置でこの問題を考えるのか?ということなのかもしれない。
一つ言えることは、以前は問題視されなかったコトが、今では欧米を中心に問題視される、ということだろう。
それがたとえ、日本国内向けのテレビ番組であったとしてもだ。

そのような問題が起きている最中に、「これはダメでしょう」という広告があった。
H&Mの子供向けのトレーナーの広告だ。
Huffpostに写真とともに、記事が掲載されている。
Huffpost:H&M、「人種差別」との批判を受け謝罪 ゛猿”と書かれたパーカーに黒人少年を起用

問題を整理する必要があると思うのだが、「人種差別」と指摘された理由は見出しにある通りだろう。
しかし、例えば白人の少年がこのパーカーを着ていたら、「人種差別」とならなかったのか?というと、それもまた疑問な気がする。
今度は「子ども」に「猿と書いたパーカーを着せるのか?」という、指摘がされるのではないだろうか?
そう考えると、このパーカーの一番の問題は、胸に書いてある「ことば」なのでは?ということになる。

例えば「猿」ではなく、「ライオン」だったら?「トラ(タイガー)」だったら?他の動物だったら、どうなのか?
おそらく「猿」は、人間と近い動物であるがために、このような批判が起こりやすいのだと思う。
「ライオン」や「トラ」のような、強く人間と遠い動物であれば、このような問題は起こりにくいと思うのだ。
言葉から想像されるその動物のイメージが、強いとかカッコ良い、あるいは可愛らしい、愛嬌があるなどのイメージの良い動物で、人とは遠い存在であることが、このような場合重要なのだと思う。
できれば、可愛らしいイラストなどがあれば、よりパーカーを着ているモデルの少年とは、無関係な印象が持てたと思うのだ。

そう考えると、今回のH&Mの商品カタログの写真だけではなく、商品企画そのもの(マーケティング)が、残念なものだったのではないだろうか?

ただ個人的には、胸の猿と言う言葉とモデルの黒人少年は結びつかない。
むしろ、胸の「猿」と言う言葉と黒人の少年を結びつける潜在意識の中に「差別」があるのでは?という、気もしている。


展示型から体験型へ・・・文化庁メディア芸術祭

2018-01-08 20:21:32 | アラカルト

今日、文化庁主催の「メディア芸術祭 愛知展」へ出かけてきた。
なかなか興味ある内容のモノもあり、それなりに楽しめる芸術祭だったと思う。
思うのだが、「で、この芸術祭は何がしたかったの?」という、疑問が残る内容でもあった。
文化庁の公式サイトを見てみると「メディアとアート、エンターテイメント、アニメーション、マンガの4部門において、優秀な作品を顕彰するとともに、受賞作品の鑑賞機会を提供する、メディア芸術の総合フェスティバル」ということらしい。

確かに、過去の受賞作品の展示や映像鑑賞などの内容になっていたのだが、なんとなくスッキリしない。
何故なら、マンガの部門で受賞した作品、例えば高橋しんさんの「最終兵器彼女」などのスチール展示がされているだけで、マンガそのものが読めるわけではないからだ。
マンガの表紙だけを見ても、その面白さは伝わってはこない。
同様に、過去話題になり人気となったゲームなどもエンターテイメント部門として展示されているのだが、これも展示されているだけで、実際にゲームができるわけではない。
エンターテイメント部門で2005年に受賞した「ニンテンドウドッグス」や1997年のソニー。インタラクティブエンターテイメントの「I.Q~インテリジェント・キューブ」などは、実際にプレーしてみないと、その面白さはわからないのではないだろうか?

なんとなくだが、この「メディア芸術祭」の趣旨の基となったのは、「クールジャパン」の一つであった「マンガ文化」などを国内外にアピールする、ということなのではないか?。
日本の伝統的な文化ではなく、新しい文化発信をするための一環としての芸術祭ということだ。
そしてそのモデルとなったのは、ヨーロッパの小国・オーストリアのリンツ市全地域で開催されている「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」のような気がしている。

「アルスエレクトロニカ・フェステバル」というのは、芸術(=アート)と最新技術(=テクノロジー)を融合させた作品を展示する、という内容なのだが、大きな特徴は作品に触ることができる、という点にある。
市民(もちろん、観光客も)が作品に触れ、感想を述べることで、その作品そのものがバージョンアップしていく、という仕組みもあるのだ。
結果、バージョンアップした作品は商品化されることもあるようだ。
このような市民が作品に触れる、という場を一つの実験場として活用したドイツの自動車メーカーもある。
一般道での「自動運転車」を、モーターショーではなくこの「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」で、初披露したのだ。

リンツ市のような取り組みは、日本では難しいとは思う。
ただ「メディア芸術祭」というのであれば、市民がもっと自由に作品に触れたり、3DやCG映像のレクチャープログラムなど、体験型のプログラムがあっても良かったのではないだろうか?
過去の受賞作品を展示、あるいは映像鑑賞をするだけでは、実際の作品の魅力は伝わらないような気がするのだ。


「人権」の前に考えてみたい「人種」のこと

2018-01-05 21:18:23 | 徒然

Huffpostに、年末に放送されたある番組につい記事があった。
Huffpost:「笑ってはいけない」浜田の黒塗りメイクが物議 黒人作家が語った不安

この番組を見ていないので、タレントの浜田さんが黒塗り以外ではどのようなコントをされたのか、知る由もない。
ただ、日本人が思っている以上に海外では「肌の色」が、社会的問題になりやすい、ということだと思う。
「肌の色」=「人種」ということにもつながっていく問題でもあるのだが、そもその「人種による優越」というものはあるのだろうか?

このお正月休みに、遺伝子医療に関する本を読んだ。

    

今や様々な病気の治療、予防の基となるのが「遺伝子=ゲノム」である、と昨年から盛んに言われ始めたことなどがあり、読んでみたのだった。
その中に「人種とゲノム」という章があった。

ご存じの方も多いと思うのだが、人類の始まりはアフリカという説がある。
これは「ミトコンドリア」をたどっていった結果として、学術的にも支持されていることだ。
そう考えると、アフリカという大地に住んでいる人たちを祖先として、ヨーロッパやアジア、北南米大陸へと移動していく中で、自然環境に合わせて「肌の色」も変わっていった、ということになる。
事実、白人に比較的多い「黒色メラノーマ」という悪性度の高い皮膚がんは、肌の色が黒いアフリカの人たちにはほぼ関係が無い。
日本人にもこの「黒色メラノーマ」という皮膚がんの罹患者は、とても少ないのが現状だ。
寄り道になるが、3年ほど前に高額ながんの治療薬として話題になった「オプジーボ」という、「免疫チェックポイント阻害剤」は、この「黒色メラノーマ」の治療薬として承認された為、年間で家1軒分くらいの高額な薬価設定がされたのだった。

では、この「人種」という概念が出来上がったのは、いつの頃からなのか?というと、18世紀のカール・フォン・リンネが、4つの「アメリカヌス、エウロペウス、アジアティクス、アフリカヌス」というタイプ分けをしたのが始まりだという。そのタイプをその当時(=18世紀)の感覚と偏見で特徴づけた考えが今でも、そのままの「人種のイメージ」になっている、というのだ。
その頃は、横並びの偏見であったのが、ヨハン・ブーメンバッハという医師が、縦並び(=優劣をつける)ように組み替えたことで、「人種差別」の基をつくったという。
そもそも「人種」という概念は、17世紀ごろからの「分類学」的な考えでつくられ、その当時の偏見をそのまま今に至るまで受け継いでいる、ということのようだ。

そもそも「遺伝子」というレベルで人を見た時、完全な人はいないという。
人はだれしも、「(細胞分裂の時に、)コピーミスをした遺伝子」を持っており、それが人の進化にもつながっている。
上述した「肌の色」にしても、白人が「黒色メラノーマ」に罹患しやすいのは、アフリカから北ヨーロッパへ移動していく際に、遺伝子がその環境に合うようにコピーミスをしたために起きた遺伝子の異常なのだ。

そう考えると、「人種」による差別そのものが、ナンセンスなことになる。
「人権」は人が生きる為の権利だが、その前に「人権」を阻害している問題を考えることも、大切なのではないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 


マーケティングを難しくしているモノ・コトとは

2018-01-03 17:25:17 | ビジネス

明日から仕事始め、という方も多いかもしれない。
最近は、4日か5日くらいまでお休みということろもあり、松の内を過ぎるまではお正月という気分かもしれない。

今朝、FMを聞いていたら「(商品やサービスの)ヒットについて」という話があった。
商品やサービスがヒットする為の重要なことは、マーケティングということには変わりない。
残念なことに、「マーケティング」そのものがビジネスという場面だけではなく、社会でも十分理解されているとは思えない。
マーケティングに携わる私としては、残念でもあり反省すべき点でもある。

何故「マーケティングはなかなか理解されないのか?」と考えると、マーケティングで使われる言葉の多くが「カタカナ」が多いということがあるだろう。
暮れに↓のようなCMをWEBで見かけた。
アサヒ食品:ミンティア CM
このCMの中にある「カタカナ会議」というCMを見た時、「さもありなん」という気がしたのだ。

マーケティングの会議というのは、実にカタカナの言葉が飛び交うことが多い。
最近では、経産省などが募集する「民間新規事業支援説明会」でも、アジェンダとかスタートアップとか、市場のペインなど、英語やフランス語が飛び交うことがある。
ちなみにこのような説明会の名前は、「スタートアップ支援プログラム」という名前で開催されることが多い。
出席する側にとって、分かり易い説明会なのか?と、疑問に感じる場面も多々あるのが現状だ。

確かに、マーケティングという実学は、アメリカ生まれのアメリカ育ちだ。
そのため、マーケティングで使われる言葉の多くは、英語だ。
和訳しようとしても、なかなか訳すことができない言葉が多いのも事実だ。
だからと言って、紹介したCMのような会議では、出席者の意思疎通が十分に図られたとは言えないだろう。
その言葉を使っている人たちの自己満足な会議と言ってしまっても良いと思う。

今朝のFMで取り上げられていた言葉は「インサイト」だった。
そしてこれからは「市場のインサイトに注目する必要がある」という、話だったのだ。
話をされた方は、「インサイト」を「洞察」と説明をしていたが、違う言葉でいうなら「内在(あるいは潜在化)している需要」ということになるのかもしれない。
その「洞察(力)がこれから求められる」、という話だったのだが、一事が万事(?)このように日本語に置き換えることなく、カタカナ語だけが頻繁に使われ、雰囲気で納得してしまう実学がマーケティングなのかもしれない、と思ったのだ。

マーケティングと言う言葉を和訳することは、とても難しい。
マーケティングの大家と言われるP・コトラーは「マーケティングは市場の輪郭を創るモノ・コトだ」と説明をしている。
そのために、調査(=市場調査)や広告などの企業活動が必要である、ということなのだ。
市場調査だけでもマーケティングではないし、広告だけでもマーケティングではない。
市場の輪郭を創り、より多くの人たちがその市場に参加することで、社会活動が活発になっていくことを創っていくことが、マーケティングに携わるということなのでは?と、仕事はじめを前に考えたのだった。

 


今年のお正月広告 「がんばれ、山中先生!」

2018-01-01 17:59:43 | アラカルト

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

一年で一番厚い新聞と言えば、おそらく今日の朝刊だろう。
ご存じの通り、複数に分かれた編集となっている。
当然、掲載されるお正月広告も違うのだが、本紙と呼ばれる紙面に掲載される広告は、出版社の広告が多い。
その中で、目を引いたのが講談社の広告だった。
講談社:2018年元旦広告
iPS細胞の山中教授が、一面に掲載されている。
そしてコピーは、元旦らしくない内容になっている。
社会に衝撃を与え、ノーベル賞受賞という華やかな話題とは別に、今のiPS細胞研究の厳しい現実が、書かれているのだ。

確かに、米国では前大統領のオバマさんが「精密化治療(=ゲノムレベルでの個別化治療)」の推進を発表し、それなりの予算も投入されているだろう。
そう考えると、iPS細胞の研究やそれに伴う創薬、治療のライバル国は、米国ということになるのかもしれない。
日本でも、京都大学を中心に様々な大学が共同でiPS細胞の研究を進めているが、資金面で厳しいという状況には、変わりないだろう。
そのような状況を伝え、寄付をお願いしたいというのが、今回の元旦広告なのだ。

そしてこの広告を見ながら、本の価格に寄付金をプラスする、という方法は無いものだろうか?と、思ったのだ。
全ての本は無理だろうが、山中教授の著書はもちろん、科学系の新書など出版社が横断的協力の基「ドネーション・ブック」という、新しい寄付のカタチはできないものだろうか?ということなのだ。
多くの本が、委託販売であるという問題もあるだろうし、中古本という市場もあるので、難しい問題かもしれないが、広く継続的な寄付ということを考えた時、すべての本とは言わないまでも、著作者が了解した本について何%とかの寄付(=ドネーション)ができる、という仕組みであれば、寄付という行為そのものの気分的ハードルが、少し下がるのではないだろうか?

iPS細胞が、社会的話題となって10年。
ノーベル賞受賞から6年が経過している。
その研究が、今どれだけ進んでいるのか?という、興味や関心は10年前、6年前よりも無くなり始めていると思う。
しかし、医療の世界では「遺伝子レベルでの個別化治療」へと進んでいる。
その時、カギとなるのが「遺伝子(=ゲノム)研究」であり、その一端を担っているのがiPS細胞でもあるはずだ。
山中先生をはじめとするiPS細胞の研究が、この分野でのフロントランナーになっているのだ。
支援の方法も、いろいろと考えることが大切なのでは?と、考えさせれた元旦広告だ。