日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「五月雨緊急事態宣言」は、止めて欲しい

2021-01-12 22:10:20 | 徒然

東京と近隣3県に「緊急事態宣言」が出された。
そして今度は、大阪・京都・兵庫の3県を対象に「緊急事態宣言」が出る。
その次に予定されているのが、愛知・岐阜のようだ。
このように「緊急事態宣言」の対象となる都道府県が、五月雨的に増えていく状況は生活者にとってプラスなのだろうか?と、考えてしまうのだ。

日本のように中央集権国家の場合、個々の自治体の状況に合わせた「緊急事態宣言」を出すことは難しい。
逆に言えば、一気に感染症を封じ込める手段を持っている可能性が高い、ということにもなる。
この方法で見事「新型コロナウイルス」の封じ込めに成功したのが、台湾ということになるかもしれない。

台湾と日本とでは、人口も国土面積、産業構造やGDP等経済の部分でも大きく違う。
台湾だからできたが、日本でもできると言い切れる訳ではないが、少なくとも参考になる点は多々あったのではないだろうか?
しかも台湾が封じ込めに成功してから約1年が経つ。
この1年間、日本は何をしてきたのだろう?ということにもなる。

この間「経済を動かす」という名目で、「新型コロナウイルス」封じ込めに成功したとは思えない状況で、「Go Toキャンペーン」等を展開し、海外からの入国も緩和したりした。
「経済を動かす」という視点は間違ってはいないと思うのだが、「今その政策をする?」と疑問に感じた生活者も多かったはずだ。
次々と発表される政策にしても「緊急事態宣言」にしても、上滑りをした言葉だけでその内容や目的となることになると、しっかりとしたビジョンと具体的な「新型コロナ対応策」については、全くといって良いほど説明されてこなかったように感じるのだ。

確かに日本の政治家の多くが、「説明が不得意」という部分はあるとは思う。
何故なら、選挙戦で見られるのは「政策論争や政治ビジョン」ではなく、「候補者の名前連呼と土下座のお願い」だからだ。
平時であれば、このような情緒で選ばれた政治家でも、政治は何とかできるだろう。
しかし今のような地殻変動のような、大きく緊急性が高い危機的状況になると、「責任を全て負う」という覚悟を持った政治的発言が求められる。
「責任を負う」という点では、誰もそのような発言をしていないし、政治家自身にその覚悟も感じられない。
このような状況だからこそ、国民の不安は高まるばかりなのだ。

今の社会的不安を解消するためには、感染者数・重症者数・死亡者数とその推移比較と対PCR検査からの割合等、具体的目標となる減数値を示しながら、国の対策方針と医療崩壊を立て直す方策を出す必要があると思うのだ。
以前、拙ブログでも書かせていただいたが「がんばれ、我慢しろ」だけでは、国民の心も体も疲弊してしまう。
疲弊する前に「ガス抜き」のような、開放的行動をしてしまう人も少なくないはずだ。
そのような生活者・国民の「行動や気持ち、不安」を、政策に反映するためには「五月雨緊急事態宣言」よりも、「具体的対策と%による数値目標」を示す必要があるのではないだろうか?


SNSというコミュニティー

2021-01-11 18:55:44 | アラカルト

トランプ氏のTwitterアカウントが永久停止した、とTwitter社が発表した。
これを受け、米国のトランプ支持者はTwitterと同じようなネットサービス、「パーラー」へと移行しようとした。
ところが、「パーラー」のアプリをダウンロードしようとしても、Gogle、Apple、Amazon等が次々とサービスを停止したため、実質使えないという状態になっている。

このような状況になり、「言論の自由の侵害ではないか?」という指摘も出てきているようだ。
確かに、企業が個人の発言を勝手に削除したりアカウント使用を停止したりする、ということはある意味企業による言論統制のようにも思える。
今回のトランプ氏とTwitter社との間では、トランプ氏のtweetに対して、Twitter社は何度か警告を発している。
その警告に従わなかった為、Twitter社がトランプ氏のアカウントの永久停止に踏み切った、というのが一連の流れだ。
Twitter社が警告をしているにもかかわらず、扇動的なtweetを繰り返すトランプ氏に非は無いのだろうか?という、事にもなる。
「警告そのものが言論統制である」という考え方もあるかもしれない。
しかし考える必要があるのは、トランプ氏の社会的立場とネット社会における倫理と秩序という問題なのでは?という気がしている。

ここ数年、日本でもSNSによる特定の人物への根拠のない誹謗中傷により、ターゲットにされた方が自死を選ぶことが問題になりつつある。
誹謗中傷を繰り返す人達の中には、「正義感を持って、相手を正すべきだと考えていた」という人達もいるようだが、そもそも当事者でもない人たちが「正義感を持って」というのは、ある種の「野次馬」的な感覚の上にある「正義感」なのように思える。
何より、世界中に繋がるサービスでありながら、SNSの世界は、ある種のコミュニティー社会なのではないだろうか?

「コミュニティー」に参加するためには、そのコミュニティーにおける倫理と秩序が求められるのでは?と、考えている。
SNSの問題点として「匿名性」が挙げられることが多いが、匿名であってもコミュニティーを乱す人は、退場してもらわなくてはならないだろう。
そうしなくては、コミュニティーとしての秩序が守れないし、自由で活発な議論もできないからだ。

自己主張ばかりをして、自分の気に入らないことに対し「正義」を振りかざし、攻撃的な言葉を繰り返すというのは、果たしてコミュニティーの秩序を守る努力をしている行為なのだろうか?
少なくともトランプ氏のtweetは、コミュニティーの秩序を守るという内容ではないことが、多々あったように思う。
そして、政治家として公の場での議論を避け続けていたのではないだろうか?
昨年の大統領選期間中の討論会でも、一方的に話をし、時には相手候補者であったバイデン氏の話はもちろん、進行役の司会者の話さえも遮って、自分の主張ばかりをしていた。
この時は、トランプ氏支持の保守系のFOXであったにもかかわらず、このような姿を自ら晒、Twitterで自分の都合の良いことばかりを発信する、ということは「言論の自由」以前の問題なのではないだろうか?

「企業が言論統制を始めた」のではなく、「コミュニティーの秩序と倫理を壊す人に、退場してもらった」と考えるべきなのではないだろうか?
もちろん、トランプ氏の支持者の持っている不満や不安は、聞く必要があると思う。
単にトランプ氏の発言に煽られているだけなのか?それとも、今の米国社会に対して何らかの不満を持って、SNSで発信しているのとでは、全く違うからだ。

SNSというサービスそのものは、誕生して20年も満たない成長途中のサービスだ。
だからこそ、そのサービスをより豊かなものにするために、利用者自身にも「倫理観や秩序(時には自省)」が必要なのだと思うのだ。


一体いつまで、我慢をすれば良いのだろう

2021-01-08 20:21:14 | 徒然

昨日やっと「新型コロナ対策」として、「緊急事態宣言」が1都3県に発令された。
昨日の「緊急事態宣言」を受け、関西の3府県+愛知県なども「緊急事態宣言」の検討に入ったようだ。

これまでの政府の行ってきた「新型コロナ対策」を振り返ってみた時、「国民一致団結をしてがんばれ」というメッセージがほとんどだったような気がする。
これでは、第二次世界大戦下での「竹槍訓練」のようなものではないだろうか?
「竹槍訓練」は対人であったので、多少なりとも効果はあるという想定だったかもしれないが、「精神論と良心的行動」に頼った「竹槍」では、ウイルスと闘うことはできない。
にもかかわらず、政府は国民の多くに「精神論と良心的行動」に、頼ってきたような気がしている。
それでいて「ステーキ店では食事はしていない。会合をしていただけ」という言い訳を、堂々とされると多くの国民は脱力するしかない。
「一体これまで、様々な努力と我慢をしてきた自分たちの生活は何だったのか?」と。

もちろん「ワクチンの確保」などはあったが、「ワクチン接種」そのものはまだ始まってはいない。
「始まっていない」どころか、日本人には「ワクチンに対する抵抗感」が、諸外国よりも強い。
その背景にあるのは、日本人独特の「リスク対応」に対する「0認識」が、強いからかもしれない。
「リスクに対する0認識」というのは、「子宮頸がん予防ワクチン」に対する「副反応」騒動を見てもわかることだと思う。
「子宮頸がんワクチン」は、10代前半から接種し始め、18歳くらいまでに3回接種する必要がある。
当初は強制力のある「ワクチン接種」だったのだが、その後様々な副反応が報告され「自由接種」になった。
その後、名古屋市立大学が行った大規模調査「名古屋スタディ」では、その因果関係が認められないという報告が出たのだが、「ワクチン反対」の声に押され、一般に知られることなく埋もれてしまった。
時事メディカル:子宮頸がんと副反応、埋もれた調査「名古屋スタディ」監修教授に聞く

結果、日本は諸外国よりも多くの女性が、「子宮頸がん」で亡くなっている、という現実がある。
まして「新型コロナ」は、変異し続けているウイルスであり、「ワクチン」に対してネガティブなイメージを強く持つ日本人にとっては、「できれば接種したくない」という気持ちの方が強いのでは?と、想像している。

そのような国民感情を踏まえて考えれば、「ワクチンの確保」は安心材料にはなっても、感染拡大防止策としては難しいのでは?
とすれば「ワクチンの確保」は当然のこととしても、具体的な数値目標と目標達成のための具体策と支援策を提示する必要があるのではないだろうか?

情緒性の高い日本人なので、感情に訴えることは、ある程度有効な方法だ。
だがいつまで感情に訴えるだけでは、心も体も疲弊してしまう。
何より飲食業やサービス業などを含めた中小企業支援策を提示しなくては、非正規雇用者は生活ができなくなってしまう。
「非正規雇用」であることを「自己責任」と突き放すことは、これまで「雇用調整策」のように扱ってきた企業にも国の政策にも問題がある、ということにもなる。
そのような視点を持った具体策を示す時期に、来ているのではないだろうか?


宝島社の新年企業広告に見る「皮肉と批判」

2021-01-07 19:03:59 | CMウォッチ

出版社・宝島社のお正月広告は、元旦から三が日の間ではない。
いわゆる「松の内」と言われる、今日位までの間に新聞掲載される。
それだけではなく、他社の企業広告のような明るさや未来感などは無く、どこかシニカルで社会を批判するような内容が入っている。
それが、宝島社の「企業メッセージ」ということになる。
今年は例年に比べ、ダイレクトな批判要素が感じられた広告だったように感じている。
宝島社:企業広告2021年

上は昨日1月6日に朝日新聞に掲載された広告。
左下に広告に使用した浮世絵が、葛飾北斎の「北斎漫画」からのものである、ということがわかる。
キャッチコピーとして使われている「ねちょりんこ、ダメ。」の「ねちょりんこ」というのは、この広告の為に作った造語のようだ。
ただ「北斎漫画」の図柄と一緒にキャッチコピーを見ると、「のんびり家族で過ごしちゃダメなの?」という、ほのぼの感のあるキャッチコピーとは別に、今の世知辛さを皮肉っているようにも思える。
それを気づかせるのが、右下にある「濃厚接触による感染拡大は、個人の責任だそうです」という、コピーだ。
江戸時代の長屋で生活していた人たちが、「ソーシャルディスタンス」などという、距離で生活すること自体、難しかったはずだ。
何故なら、6畳くらいの部屋に家族で生活をしていたからだ。
当然昼寝をするにしても「ソーシャルディスタンス」を保って、昼寝などできるはずもない。

そして今日7日に掲載された広告が、昭和20年代頃の小学校での写真だ。
女子児童が一生懸命に机を拭いている、何気ない1枚の写真だ。
裸足であることから、日本が第2次世界大戦後まだまだ復興途中の頃だろう、と想像できる。
そしてキャッチコピーとして使われているのが「言われなくても、やってます。」だ。
写真だけを見ると、戦後間もない日本のありふれた光景のように見える。
そこに「言われなくても、やってます。」というキャッチコピーが入ると、それは一転して今の不甲斐ない(?)政府の「新型コロナ対策」に対する批判のように思えてくるし、昨年打ち出した「新しい生活様式」に対しての、生活者からの皮肉のようにも感じられるキャッチコピーだと思う。

何よりも「皮肉だな~」と感じられるのは、この日にちを変えて掲載した二つの広告の右下には「個人の責任だそうです」というコピーだ。
使われている写真や浮世絵は、ほのぼのとしているのに、キャッチコピーを読むと今の政府に対する批判とも皮肉とも捉えられるような内容になっている。

もう一つ感じたことは、共通して使われている「個人の責任」という言葉だ。
ここ20年くらいの間で、日本で頻繁に聞かれるようになった「自己責任」という言葉。
今回のような「感染症」の場合、個人の努力では限界があり、個人の責任を問うようなものではない。
もちろん、個人として様々な予防策を取ることはできても、個人の努力で予防・感染拡大防止をすること自体、無理があり過ぎる。
にもかかわらず「新型コロナ」の感染者が判明してから約1年経っても、日本の政府は「緊急事態宣言」をする・しないの検討会をして何日に出します、というような悠長なことしかしてきていないのが現状だ。
「アベノマスク」にしても、官邸付き官僚が「マスクを配布すれば、国民の不安なんて、パァ~と無くなります」という、戯言のような一言で、500億近い税金が投入されるという結果になった。
どこかこの国の政治家は「他人事のような感覚」で、生活者を見ているようなのだ。

だからこそ、今回の宝島社の広告はとても強いメッセージとなって伝わるのでは?と、感じている。
まぁ、感じているのが生活者ではなく、政治家であって欲しいとは願ってはいるのだが…。


状況分析の大切さ

2021-01-06 11:20:04 | アラカルト

明日「緊急事態宣言」をするかどうかを判断する、と発表した菅政権。
「緊急事態宣言」は、緊急にするから「緊急事態宣言だろう」という指摘がされている。
「ご指摘の通り」であることには違い無いのだが、安倍前首相の頃から「対新型コロナ対策」のタイミングを考えれば、このようなものかもしれない。

この「緊急事態宣言」を前に、「Go Toキャンペーン」の見直しが決まった。
「Go Toトラベル」に関しては、一旦中止。
「Go Toイート」は、中止というわけではないようだが、飲食店に対して営業時間の短縮要請が出ている。
拙ブログでも「Go Toキャンペーン」、特に「Go Toトラベル」に関しては「感染拡大の要因になったのでは?」という指摘を再三してきたので、「Go Toトラベル」の一旦中止は現状を考えれば必要だと考えている。
その一方で、飲食店に対する営業時間の短縮要請はどうなのだろうか?という、疑問もあるのだ。

というのも、昨年の春~夏の頃のような飲食店でのクラスター発生よりも、高齢者施設や病院でクラスターが発生しているというニュースが多くなってきているからだ。
高齢者施設や病院でクラスターが発生すると、収拾がつかなくなる可能性が高くなるのでは?と、考えるからだ。

高齢者施設であれば、入所している方そのものがリスクの高い高齢者ということになる。
「重症化しやすい環境」という視点で考えれば、飲食店よりもそのリスクは高いはずだ。
一人重症者が出てしまえば、あっという間に施設そのものが「重症者病棟」のような状況になりかねないのが「高齢者施設」である、と考える必要があるのではないだろうか?

同様に病院でのクラスター発生も、「重症化しやすい環境」にあるのでは、ないだろうか?
病院などでクラスターが発生してしまえば、その病院そのものを一時閉鎖をする必要があるだろうし、そのような状況になれば逼迫した医療体制そのものが、崩壊の要因となってしまう。

ニュースで取り上げられる内容は、全国で発生しているクラスターの一部だと思う。
そもそも「感染ルートが追跡ができない」という場合のほうが、遥かに多くなってきている。
とすれば、飲食店だけを対象に営業時間の短縮要請をするのではなく、「現在の感染者がどの場所で多くいるのか?」という、発生場所などの分析を進め、集中的な対策を取るという発想も必要なのだと思う。
逆に感染拡大防止策を徹底している飲食店や小売店に対しては、通常通りの営業を認めるなど、柔軟な対応策が経済を動かすという点では、検討する必要があると思う。

そしてそのような場所に対して、日本の大学や企業が研究を進めている「ウイルスの不活性化システム」を、実証実験を兼ね導入する、ということも必要なのだと思うのだ。
実際、ノーベル物理学賞を受賞した名大の天野教授のチームと民間企業が共同で「新型コロナ感染力抑制ロボ」の商品化を目指している。
中日新聞:ゆけ!感染力抑制ロボ 名大・天野教授チームなど 今春商品化

「新型コロナ」に限らず、状況分析をし・分析結果から考えられる施策は、どのような場面でも必要だろう。
そのような「状況分析力・分析結果を活かす多角的発想」は、これからますます必要とされるのではないだろうか?



「緊急事態宣言」と一緒に「収束工程」も提示して欲しい

2021-01-05 18:44:01 | 徒然

年が明けても「新型コロナウイルス」の感染拡大、という状況が改善するどころか増加の一途をたどっている、という状況になっている。
政府が年末に行っていた「勝負の3週間」前には、これと言った政策などは発表されず、ただ時間だけ過ぎて行ってしまった感がある。
とはいっても、過去の時間が戻るわけではない。
これから先のことを考えるためにも、政府としてどのような対策をするのか?ということに注目したいところなのだが、その見解が菅さんから発表されるのは7日らしい。

日経新聞:緊急事態宣言を7日決定方針、首相表明 1ヵ月程度想定 1都3県対象「コロナ優先」

記事をよく読むと、7日に「緊急事態宣言を宣言する」のではなく、「緊急事態宣言をするのか決定する」というのが、ポイントだろう。
今の時点では「緊急事態宣言をするかもしれないし、しないかもしれない」という、状況のようだ。
何ともイラつきそうな対応のような気がする。
とは言っても、「緊急事態宣言をする・しない」を決めるのは菅総理なので、こちらが何を言っても仕方ない。

ただ「緊急事態宣言」を1ヵ月間対象に発令しても、本当に「新型コロナウイルス」が収束するとは思えない。
1カ月後、今の状況から大きく改善されていなければ、「緊急事態宣言の延長」を繰り返すのだろうか?
「新型コロナウイルス」の世界的感染拡大が判明したのが、昨年の2月ごろ。
それから「不要不急の外出は自粛しましょう」と言われるようになって、約11カ月経過している。
この間に「上手くいけば、案外早く収束するかも?」という期待があったが、「Go Toキャンペーン」の実施に伴い感染地域が急激に増えこれまで感染者数が少なかった地域での感感染者数が急激に増えた。
もちろん、東京など首都圏や大都市圏での感染者数は増加の一途をたどっている。
むしろ、4月に出された「緊急事態宣言」の時よりも、状況は悪化しているという印象のほうが強い。
だからこそ「緊急事態宣言」を早く出してほしい、という声が多かったのだ。

約1年の間、「新しい生活様式」なる提案はあったが、具体的に感染者数・重症患者数・死亡者数がそれぞれどのくらいになったら「自粛要請が解かれるのか?」と言った、「数値目標」のようなものが示されていない。
このような「数値目標」が示されることなく、感染者数や死亡者数、重症患者数などばかりが新聞やテレビなどのメディアで報道されるだけになっていることも、大きな問題なのではないだろうか?
感染者数や重症患者数、死亡者数などがどのくらいになれば、「自粛生活がどの程度解除されるのか?」ということが分かれば、一つの「行動目標」になってくる。

これまで政府のやってきたことは「自粛をお願いする」ということだけで、後は国民一人ひとりの良心的行動に任せる、という曖昧な態度ばかりだった。
そのため「GO Toキャンペーン」実施の時も、「収束とは程遠い状況なのでは?」という指摘があり、「実施すれば、これまで感染者数が少なかった地域に飛び火し、全国的な感染拡大になる」という結果になってしまったのではないだろうか?
「目標設定」が具体的にされることで、「我慢の目安」のようなものもはっきりしてくる。
闇雲に「(個人の良心的行動に頼った)自粛要請」をするよりも、効果があるのではないだろうか?


2021年のお正月広告

2021-01-04 13:03:38 | マーケティング

今日から仕事始め、という方も多かったのではないだろうか?
とはいっても、今年のお正月は例年とは違い帰省することもなく、百貨店などの福袋を買いに行列に並ぶことも無い「無い無い尽くしのお正月」を過ごされた方も多かったのでは?と、思っている。

例年通り?今年のお正月広告を見ていて感じたことがあった。
それは「広告も時代を表すものである」ということだ。
1月1日の新聞は複数の特別版に分かれている。
新聞休刊日+3日までのテレビ番組刷りであったり、お正月恒例のスポーツの特集であったりするのが恒例だ。
そしてこのような「別刷り版」には、普段目にすることが無い企業の広告が掲載される。

例年通りの掲載があったのが、出版社の広告だ。
それぞれの出版社が工夫をし、人気のマンガキャラクターを起用した広告などが多い中、文藝春秋の広告はひときわ目を引く内容だったように思う。
創業者・菊池寛が黒いマスクしたたずむ写真と共に、菊池寛の著書「マスク スペイン風邪をめぐる小説集」の一文を引用していたからだ。

2021年 文藝春秋 新聞全五段広告

心臓疾患を患っている菊池寛は、スペイン風邪が流行していた頃はマスクが手放せなかった。
スペイン風邪が収まりつつある中で、野球を観戦に行ったとき、一人の青年がマスクをしている姿に違和感を覚えた、という内容の文なのだが、この文章が書かれた100年前と今の状況はよく似ている。
そしてマスクをしていることが当たり前になった生活ではあるが、「新型コロナ」が収まりマスクをすることから解放された時、それまで「当たり前」であった光景に「違和感を感じる」ようになることは、今から想像できる「人の気持ち」だろう。

文藝春秋の広告は「ジャーナリズム」という視点で、文藝春秋という企業の在り方を「当たり前と違和感」という二つの視点で報じていきたい、という考えが創業者・菊池寛から引き継がれている、ということを訴えている広告だということがわかる。
それは「例年とは違う時間がたっぷりあるお正月」だからこそ、読者に菊池寛の言葉を読ませたかったのだろう、という印象を受ける。

そして、今年のお正月広告で一番目立っていたのは、Netflixだったように思う。
というのも、他の広告とは出稿量も広告を掲載する場所も、各段にお金をかけている!と、感じたからだ。
Netflixの広告は、暮れのクリスマスの頃から始まり「巣ごもり正月」を意識した広告だった。
これもまた「新型コロナ」の感染拡大により、例年とは違うお正月を過ごす人を意識した、お正月広告だったように感じている。
Netflixだけではなく、スカパーなどもお正月広告を出していたことを考えると、今年のメディアを引っ張っていくのはNetflixやスカパーなど地上波以外の企業かもしれない、という印象もあった。
話はズレるが、このような民放ではないメディア企業の力が強まっていくのでは?と感じさせる広告を眺めながら、NHKは一体どこを見ているのだろう?ライバルは民放では無くなりつつある、という意識に変わらなければ、受信料などNHKの根幹にかかわる問題そのものを見誤ってしまうだろうな~という、気がしたのだった。

最後に今年見ることが無かった「お正月広告」だが、これまでどのような時代であろうと「女性の美と生き方」という点にフォーカスしてお正月広告を出してきた「資生堂」が、お正月広告を新聞に掲載していなかった。
私のチェックが足りず、見逃しているのであれば教えていただきたいのだが、何度見ても「資生堂」の広告が定番の場所に掲載されていなかったのだ。

確かに、「コロナ禍」によって化粧品の売り上げは、良かったとは言えない。
「マスク生活」をするために、お化粧そのものを止めたという女性も多かったはずだ。
とはいっても「女性の美意識」の一つとしての化粧の提案や、生き方を反映させてきた資生堂が、お正月広告を掲載しなかった、ということはある意味衝撃的だった。
何より、資生堂がこれまで提案してきた「美意識と個性」は、「コロナ禍」だからこそ必要な提案ではないだろうか?と、感じていた。
それだけ「コロナ禍」は、企業に与えた影響が大きかった、ということなのだろう。

「お正月広告」は、企業から生活者に対しての「ご挨拶」という意味だけではなく、これから先「どのような企業を目指していくのか?どのような商品・サービスを提供していきたいのか?」というビジョンを、伝える役割りがあったはずだ。
そのようなメッセージが減り、「売る」ことが中心になった広告には「広告としての魅力」が亡くなってしまったようで、とても残念な気がしたお正月広告だった。