勧請縄は村の入口や鎮守の神社の参道に吊るして、村に悪霊や疫病が入ってこないように結界の役割を果たし、同時に五穀豊穣や子孫繁栄の祈りを込めたものとされます。
滋賀県では湖東・湖南地方に多く見られ、湖北地方ではほぼ見られませんが、湖北地方にはオコナイ神事や村の外れの野神さん(巨樹)を祀る信仰があり、どこかで共通するものがあるのかもしれません。
勧請縄は年を追うごとに失われつつある民俗行事であり、勧請縄を探し始めたこの3年程度の短い期間でも中絶してしまった場所があります。
コロナ渦の影響が大きかったとは思いますが、世代交代や世帯の高齢化など様々な要因があると思われ、簡略化してでも継続して行って欲しい行事だと思います。
「新川神社」は天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際に、勝利祈願をされ成就し即位されたことにより686年に造営にされたと伝わります。
御祭神は須佐之男命、配祀神は大物主命 奇稲田媛姫を祀り、度々の野洲川の氾濫により被害を受け荒廃したものの、その度ごとに再興してきたといいます。
新川神社の勧請縄は、鳥居をくぐった先の参道に吊るされていますが、参道の幅いっぱいに吊るされた小縄は地面スレスレのところまで長く、さてどこを通ったらいいのか迷ってしまいます。
丸十のトリクグラズが4つもあり、それぞれ3本づつの小縄があるため、悪いものはここで完全に行き止まりとするような意思を感じます。
小縄の先にはサカキの枝葉、小縄は各トリクグラズに3本と間及び両端に下げられた合計17本となる。
主縄の上には12本の小幣が挿し込まれ、割竹で作られたトリクグラス4つというのは滋賀県では他に類を見ない。(3個のケースは能登川の長勝寺町にあり)
先に参拝した行事神社でも祭礼の準備をされていましたが、ここ新川神社でも祭礼の準備をされており、この日は何か特別な日だったのでしょう。
新川神社の御神木は巨樹とまではいきませんが、ゴツゴツとした根っこを持ち、拝殿横に祀られています。
池の奥に厳島神社が祀られていますが、この池は暗闇のように水中が暗く底が見えない。
大きく黒々とした鯉が何匹も泳いでいましたが、水底の黒さは引き込まれそうになる不気味さを感じてしまう池です。
次に訪れた辻町には「三上神社」の勧請縄と「山之神」の勧請縄があります。
辻町は三上山山系の麓に広がる集落ですので、三上神社とは読んで字のごとく三上山や御上神社との関係は深いと考えられます。
しかし、社伝では御上神社を氏神と仰いで来たが、相論が起きて同社から離れ、篠原神社の氏子となったものの、再び相論が起きて958年に現在地に社殿を建立したとされる。
三上神社の勧請縄は、かつては参道のスギに掛けられていたようですが、現在は鳥居に吊るされています。
主縄は既製品となっていて、その下に樫の葉を付けた小縄を12本下げています。
トリクグラズはスギの枝葉で輪を作り、中央に配しています。
鳥居の奥には注連縄を巻かれた神木があり、本殿や境内社へは拝殿の横のスローブを登っていくことになる。
本殿の前には立派な石灯籠があり、紅白の布と共に注連縄が取り付けられています。
拝所の内側には三上神社本殿と境内社の春日神社・篠原神社が並んで祀られ、ややこじんまりとした感じを受けます。
本殿の横には野神社が祀られていましたが、神社と勧請縄・野神さん・山之神(後述)と複数の信仰が残るのは山麓の集落などでは時々遭遇する信仰の姿です。
ハッと目を引いたのはシダの群生でした。
野洲や栗東辺りでは、環境的にシダの群生が育ちやすいのか、大きな群生を目にすることがあります。
さて、辻町のもうひとつの勧請縄は、「銅鐸博物館(弥生の森歴史公園)」の敷地内にある山之神の祭場に掛けられています。
駐車場から弥生時代の竪穴式住居や高床倉庫、大賀ハスやスイレンの池を越えて進んで行き、石舞台の奥までいくと木製の鳥居が出てきます。
山之神の石碑の前には極端なまでに太い主縄が吊るされ、圧倒的な迫力があります。
この山之神は先程の三上神社の山之神とされ、“子孫繁栄 五穀豊穣 山の神のベンベラコロ”と刻まれている。
小縄は12本下げられ、小縄の真ん中と下部にカシの葉が付けられている。
山之神をお祀りする縄ですから、実際は勧請縄というより注連縄といった方が正確かもしれませんが、小縄が下げられており、勧請縄と酷似しています。
勧請縄の奥に祀られている山之神の石碑には、一般的な注連縄が巻かれていますが、石碑が大きく周囲が祭場になっている緊張感のある場所です。
辻町は町の中央を旧中山道が通り、4車線の県道324号が通っているため気付きにくいが、山之神のある場所は町の端の山麓近くで家棟川を挟んで吉祥寺山がある村外れ。
石碑の下にはオッタイ(男)とメッタイ(女)の股木が祀られており、古い股木は過去に訪れた時にも置かれていましたが、今年の1月に祀られたと思われる新しい股木が祀られていました。
妙なリアルさのあるこの股木は、年初に新しい勧請縄を吊るす際にオッタイとメッタイを合体させて模擬性交儀礼をしてから祀られるのだという。
山之神や野神さん、勧請縄やオコナイ神事などは五穀豊穣・村内安全・子孫繁栄など地域独特の信仰(行事)が今も残っており、古くからの祈りの姿を伝えています。
神道・仏教・修験道などの影響も強く受けてきたとは思いますが、根っこにあるのは平安を求める素朴な人々の願いなのかと思います。
滋賀県では湖東・湖南地方に多く見られ、湖北地方ではほぼ見られませんが、湖北地方にはオコナイ神事や村の外れの野神さん(巨樹)を祀る信仰があり、どこかで共通するものがあるのかもしれません。
勧請縄は年を追うごとに失われつつある民俗行事であり、勧請縄を探し始めたこの3年程度の短い期間でも中絶してしまった場所があります。
コロナ渦の影響が大きかったとは思いますが、世代交代や世帯の高齢化など様々な要因があると思われ、簡略化してでも継続して行って欲しい行事だと思います。
「新川神社」は天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際に、勝利祈願をされ成就し即位されたことにより686年に造営にされたと伝わります。
御祭神は須佐之男命、配祀神は大物主命 奇稲田媛姫を祀り、度々の野洲川の氾濫により被害を受け荒廃したものの、その度ごとに再興してきたといいます。
新川神社の勧請縄は、鳥居をくぐった先の参道に吊るされていますが、参道の幅いっぱいに吊るされた小縄は地面スレスレのところまで長く、さてどこを通ったらいいのか迷ってしまいます。
丸十のトリクグラズが4つもあり、それぞれ3本づつの小縄があるため、悪いものはここで完全に行き止まりとするような意思を感じます。
小縄の先にはサカキの枝葉、小縄は各トリクグラズに3本と間及び両端に下げられた合計17本となる。
主縄の上には12本の小幣が挿し込まれ、割竹で作られたトリクグラス4つというのは滋賀県では他に類を見ない。(3個のケースは能登川の長勝寺町にあり)
先に参拝した行事神社でも祭礼の準備をされていましたが、ここ新川神社でも祭礼の準備をされており、この日は何か特別な日だったのでしょう。
新川神社の御神木は巨樹とまではいきませんが、ゴツゴツとした根っこを持ち、拝殿横に祀られています。
池の奥に厳島神社が祀られていますが、この池は暗闇のように水中が暗く底が見えない。
大きく黒々とした鯉が何匹も泳いでいましたが、水底の黒さは引き込まれそうになる不気味さを感じてしまう池です。
次に訪れた辻町には「三上神社」の勧請縄と「山之神」の勧請縄があります。
辻町は三上山山系の麓に広がる集落ですので、三上神社とは読んで字のごとく三上山や御上神社との関係は深いと考えられます。
しかし、社伝では御上神社を氏神と仰いで来たが、相論が起きて同社から離れ、篠原神社の氏子となったものの、再び相論が起きて958年に現在地に社殿を建立したとされる。
三上神社の勧請縄は、かつては参道のスギに掛けられていたようですが、現在は鳥居に吊るされています。
主縄は既製品となっていて、その下に樫の葉を付けた小縄を12本下げています。
トリクグラズはスギの枝葉で輪を作り、中央に配しています。
鳥居の奥には注連縄を巻かれた神木があり、本殿や境内社へは拝殿の横のスローブを登っていくことになる。
本殿の前には立派な石灯籠があり、紅白の布と共に注連縄が取り付けられています。
拝所の内側には三上神社本殿と境内社の春日神社・篠原神社が並んで祀られ、ややこじんまりとした感じを受けます。
本殿の横には野神社が祀られていましたが、神社と勧請縄・野神さん・山之神(後述)と複数の信仰が残るのは山麓の集落などでは時々遭遇する信仰の姿です。
ハッと目を引いたのはシダの群生でした。
野洲や栗東辺りでは、環境的にシダの群生が育ちやすいのか、大きな群生を目にすることがあります。
さて、辻町のもうひとつの勧請縄は、「銅鐸博物館(弥生の森歴史公園)」の敷地内にある山之神の祭場に掛けられています。
駐車場から弥生時代の竪穴式住居や高床倉庫、大賀ハスやスイレンの池を越えて進んで行き、石舞台の奥までいくと木製の鳥居が出てきます。
山之神の石碑の前には極端なまでに太い主縄が吊るされ、圧倒的な迫力があります。
この山之神は先程の三上神社の山之神とされ、“子孫繁栄 五穀豊穣 山の神のベンベラコロ”と刻まれている。
小縄は12本下げられ、小縄の真ん中と下部にカシの葉が付けられている。
山之神をお祀りする縄ですから、実際は勧請縄というより注連縄といった方が正確かもしれませんが、小縄が下げられており、勧請縄と酷似しています。
勧請縄の奥に祀られている山之神の石碑には、一般的な注連縄が巻かれていますが、石碑が大きく周囲が祭場になっている緊張感のある場所です。
辻町は町の中央を旧中山道が通り、4車線の県道324号が通っているため気付きにくいが、山之神のある場所は町の端の山麓近くで家棟川を挟んで吉祥寺山がある村外れ。
石碑の下にはオッタイ(男)とメッタイ(女)の股木が祀られており、古い股木は過去に訪れた時にも置かれていましたが、今年の1月に祀られたと思われる新しい股木が祀られていました。
妙なリアルさのあるこの股木は、年初に新しい勧請縄を吊るす際にオッタイとメッタイを合体させて模擬性交儀礼をしてから祀られるのだという。
山之神や野神さん、勧請縄やオコナイ神事などは五穀豊穣・村内安全・子孫繁栄など地域独特の信仰(行事)が今も残っており、古くからの祈りの姿を伝えています。
神道・仏教・修験道などの影響も強く受けてきたとは思いますが、根っこにあるのは平安を求める素朴な人々の願いなのかと思います。
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