今、世情でかしましく、場合により極論が、声だかに横行する皇位継承問題の根本を知ってみたいと読んでみた。著者は筑波大教授などを歴任した歴史学者井上辰雄氏であるが、平易で冷静な語り口で、考古学や文学など幅広い資料を用いて、天皇家の誕生から、古代天皇継承の実情を探求し、解説している。260ページほどで、丁寧な解説があり知識のないものにも容易に読め、いかに天皇家が誕生し、その後多くの皇統継承の危機があったが理解できる。
内容を語る前に、終章の皇室継承に関する著者の考えを紹介する。
天皇家は幾度かの継承の危機を日本独特な方法、政治的解決で乗り切って、世界史でも珍しい1,500年以上にもわたる継承を続けてきた。これは、天皇家が政治の主催者としてではなく、日本文化発信の中心として日本人の精神の源泉であったためである。過去、天皇が政治の前面に出たり、政治家の野心に利用されたりしたときに皇統の危機に見舞われてきた、との著者の意見は説得力がある。なお、著者は女帝の夫君の実家の影響力を懸念して現状で男系での継承を考慮するよう提案している。この点には私は異論がある。現在では諸外国の王家を見ても、外戚の問題より、心配すべきは週刊誌などによるスキャンダル報道での国民の敬意喪失であろう。
以下、内容を皇位継承の部分を主に要約するが、卑弥呼や大和朝廷誕生の話も面白い。
弥生時代、西暦1世紀に既に日本には、王、官僚、軍事力と徴税体系を持つ百あまりの国があった。3世紀中ごろ、邪馬台連合国が強国に対抗するために利害が対立する男王でなく宗教的カリスマである霊媒者卑弥呼を統合者として担ぎ上げた。卑弥呼は祭り(マツリ)を行い、男弟が執政官として政(マツリゴト)を行った。政治上、外交上の失敗があれば、執政官が辞職する。これが古代日本の統治の原型になった。
天皇家の祖先は、北九州の勢力や朝鮮の騎馬民族による征服王朝ではなく、大和の豪族達に擁立された宗教的な王であると、著者はさまざまな間接的事柄から推測する。そして、宗教的王という性格が一貫して天皇家を規制していった。天皇家誕生時期は、文献史料からは4世紀末から5世紀にかけてで、考古学では3世紀中葉と分かれているが、著者は4世紀初頭と推定している
5世紀の中国の宋書には倭の5王が使節を派遣したことが書かれている。現在では、この5王は16代仁徳天皇から21代雄略天皇までであろうとされている。倭国、ヤマト王権は大陸の先進文化を独占的に手に入れ、利用して国内支配を進めていった。5世紀後半、雄略天皇の時代には北は北武蔵から南は肥後北部まで支配下におさめていた。
皇統継承の危機は何度となくあった。
22代清寧天皇は病弱で子がなく、父雄略天皇が3人の皇子を殺して天皇になったため有力な皇位継承者がいなかった。しかし、隠されていた2人の皇子が見つかり、23代顯宗天皇、24代仁賢天皇となる。
25代武烈天皇は女性不信、暴虐で皇子を持たなかった。既に57歳になっていた15代応神天皇の5代孫を連れ出し仁賢天皇の皇女を皇后に迎え26代継体天皇となった。
31代用明天皇崩御後、蘇我馬子が穴穂部皇子、さらには32代崇峻天皇まで殺し、天皇空位という事態になった。この時代の皇后は天皇とともに共治しており、先代天皇の皇后が一時的に即位し推古女帝となった。
外戚の地位を得ようとする蘇我氏の強行策で35代、37代の皇極(斉明)女帝が即位した。
40代天武天皇が崩御されると、皇后は謀反を口実に大津皇子を殺した。しかし、息子は病弱であるため、自ら持統女帝となり、孫が42代文武天皇となるまで在位した。
42代文武天皇崩御時に首皇子(おびとのみこ、後の45代聖武天皇)はまだ7歳だった。そこで、皇子の祖母にあたる43代元明女帝から伯母にあたる44代元正女帝と引継いだ。
藤原氏の圧力で聖武天皇の娘安倍内親王がはじめて女性で皇太子となる。46代孝謙女帝となるが、47代淳仁天皇に実権を譲らず孝謙上皇となり僧道鏡を法王に任ずるなど寵愛した。さらに淳仁天皇を廃し、自ら称徳女帝となり、皇統の危機をもたらした。結果的には藤原氏の逆襲もあって、称徳女帝崩御後は志貴皇子の子が49代光仁天皇となり、皇統は天武系から天智系へ移行した。
このように女帝の歴史は皇統の断絶を回避するためでもあるが、同時に女帝の恣意があらわになると、皇統が他家に移行する可能性もはらむものである。
以上
内容を語る前に、終章の皇室継承に関する著者の考えを紹介する。
天皇家は幾度かの継承の危機を日本独特な方法、政治的解決で乗り切って、世界史でも珍しい1,500年以上にもわたる継承を続けてきた。これは、天皇家が政治の主催者としてではなく、日本文化発信の中心として日本人の精神の源泉であったためである。過去、天皇が政治の前面に出たり、政治家の野心に利用されたりしたときに皇統の危機に見舞われてきた、との著者の意見は説得力がある。なお、著者は女帝の夫君の実家の影響力を懸念して現状で男系での継承を考慮するよう提案している。この点には私は異論がある。現在では諸外国の王家を見ても、外戚の問題より、心配すべきは週刊誌などによるスキャンダル報道での国民の敬意喪失であろう。
以下、内容を皇位継承の部分を主に要約するが、卑弥呼や大和朝廷誕生の話も面白い。
弥生時代、西暦1世紀に既に日本には、王、官僚、軍事力と徴税体系を持つ百あまりの国があった。3世紀中ごろ、邪馬台連合国が強国に対抗するために利害が対立する男王でなく宗教的カリスマである霊媒者卑弥呼を統合者として担ぎ上げた。卑弥呼は祭り(マツリ)を行い、男弟が執政官として政(マツリゴト)を行った。政治上、外交上の失敗があれば、執政官が辞職する。これが古代日本の統治の原型になった。
天皇家の祖先は、北九州の勢力や朝鮮の騎馬民族による征服王朝ではなく、大和の豪族達に擁立された宗教的な王であると、著者はさまざまな間接的事柄から推測する。そして、宗教的王という性格が一貫して天皇家を規制していった。天皇家誕生時期は、文献史料からは4世紀末から5世紀にかけてで、考古学では3世紀中葉と分かれているが、著者は4世紀初頭と推定している
5世紀の中国の宋書には倭の5王が使節を派遣したことが書かれている。現在では、この5王は16代仁徳天皇から21代雄略天皇までであろうとされている。倭国、ヤマト王権は大陸の先進文化を独占的に手に入れ、利用して国内支配を進めていった。5世紀後半、雄略天皇の時代には北は北武蔵から南は肥後北部まで支配下におさめていた。
皇統継承の危機は何度となくあった。
22代清寧天皇は病弱で子がなく、父雄略天皇が3人の皇子を殺して天皇になったため有力な皇位継承者がいなかった。しかし、隠されていた2人の皇子が見つかり、23代顯宗天皇、24代仁賢天皇となる。
25代武烈天皇は女性不信、暴虐で皇子を持たなかった。既に57歳になっていた15代応神天皇の5代孫を連れ出し仁賢天皇の皇女を皇后に迎え26代継体天皇となった。
31代用明天皇崩御後、蘇我馬子が穴穂部皇子、さらには32代崇峻天皇まで殺し、天皇空位という事態になった。この時代の皇后は天皇とともに共治しており、先代天皇の皇后が一時的に即位し推古女帝となった。
外戚の地位を得ようとする蘇我氏の強行策で35代、37代の皇極(斉明)女帝が即位した。
40代天武天皇が崩御されると、皇后は謀反を口実に大津皇子を殺した。しかし、息子は病弱であるため、自ら持統女帝となり、孫が42代文武天皇となるまで在位した。
42代文武天皇崩御時に首皇子(おびとのみこ、後の45代聖武天皇)はまだ7歳だった。そこで、皇子の祖母にあたる43代元明女帝から伯母にあたる44代元正女帝と引継いだ。
藤原氏の圧力で聖武天皇の娘安倍内親王がはじめて女性で皇太子となる。46代孝謙女帝となるが、47代淳仁天皇に実権を譲らず孝謙上皇となり僧道鏡を法王に任ずるなど寵愛した。さらに淳仁天皇を廃し、自ら称徳女帝となり、皇統の危機をもたらした。結果的には藤原氏の逆襲もあって、称徳女帝崩御後は志貴皇子の子が49代光仁天皇となり、皇統は天武系から天智系へ移行した。
このように女帝の歴史は皇統の断絶を回避するためでもあるが、同時に女帝の恣意があらわになると、皇統が他家に移行する可能性もはらむものである。
以上