hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

葉山へ

2007年03月13日 | 観光
9日は鎌倉のお寺めぐりに引き続き、葉山の日影茶屋、しおさい公園を回り、帰宅した。

葉山の日影茶屋は350年前の江戸中期創業の老舗料理屋だ。今は宿屋はやっていないが、庭も趣がある。大逆事件で知られるアナーキストの大杉栄が妻の堀保子がいるにもかかわらず、愛人伊藤野枝と後の衆議院議員神近市子と四角関係になり、1916年11月、日影茶屋で神近市子に刺された(日影茶屋事件)。重傷を負った大杉はこの後伊藤野枝と結婚し、1923年に甘粕憲兵大尉に伊藤野枝と共に惨殺される。

   

店内は老舗料理店の雰囲気そのもので、お座敷に上がると値段も上がるが、椅子席ならそこそこの金額で食べられる。我々は当然、一番安いランチの日影弁当3,670円なり。エビとソラマメの白和えの先付け、刺身が家で食べるものとは別物と思える弁当、アンズの水菓子のデザートだ。

      

たまにはこの程度のプチ贅沢も良いものだ。
思い出すのは、今から30年以上前、安月給で毎日出てくる西友豆腐に悩まされていたころ(失礼、やりくりに悩んでいたのは奥様でした)、ローストビーフで有名なレストラン鎌倉山に行った。高いから入るなと友人に忠告されていたにもかかわらず、庭みたさについ入ってテーブルについて、メニューを見てびっくり。最低でも一人6,000円!30年前の6,000円はきつい。二人で顔見合わせて、「どうする?ある?」「一応あるけど?」 パニックのまま味もわからずコースを食べてしまい、庭を見るのを忘れて、ボーとしたまま出てきてしまった。「ああ!今夜からのおかずが恐い!」

そのまま海岸沿いの細い道を進み、葉山御用邸の手前の葉山しおさい公園に車を止めた。入園料300円なり。ここはもと葉山御用邸附属邸だったところで、日本庭園、お茶がいただける潮見亭、1000本あまりの黒松林などがある。松くい虫対策だろうか、何本もの松が注射に耐えていた。

      

博物館には、膨大な数の貝の標本、魚の剥製?が展示されていて、生物学者でもあった昭和天皇の御下賜標本もある。葉山の海岸に流れ着いた漂着物が展示してあり、眼鏡や大量のBB弾はともかくとして、入れ歯があり、「海水浴で誤って落としたか?船酔いで落としたか?古いものを清めのために投げ捨てたか?それとも?(骸骨マーク)」(入れ歯だけが流れ着き、他は?)との表示があった。

帰りは、長柄から、逗葉新道を通り逗子インターから横横に入り、帰宅した。
せっかくETCをつけたのに逗葉新道は料金手払いだった。料金100円では装置設置もできないだろうが、料金所の人件費を考えると無料にした方が互いに幸せと思った。ところが調べてみると、これが収支率約200%の全国トップレベルの超優良有料道路だった。これまた、失礼 いたしました。


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いざ鎌倉(2)

2007年03月12日 | 観光

3月9日は、美術館から銭洗弁財天、寿福寺と美しいものと出会える日になるはずだったが、メインはお墓めぐりになってしまった。

まず、デュフィのコレクションが多く、ローランサン展が開かれる鎌倉大谷美術館へ行ったが、26日まで閉館で、そのまま銭洗弁財天へ向かう。途中の民家で夏みかん?の山なりや、鳥が止まるカンヒザクラを眺め、急坂を登って銭洗弁財天の入口に着く。いかにも鎌倉の切通しといった風景だ。

      

プラスチック製のオーストラリアの紙幣と違い日本のお札は濡れるとあとが困るので、ざるには硬貨だけを入れてしっかり洗った。このあと硬貨はお賽銭などで次々出て行ってしまったが、増えて戻ってくるとの話を信じよう。



すこし登って鎌倉を見下ろす頼朝の像を見てから、化粧坂を下る。けっこうきつい山道で一部濡れて滑るところもあった。

   

ようやく下に下りて、「鎌倉を代表する花の寺で一年中花が絶えない」と案内にあった海蔵寺へ向かう。山門の右側に鎌倉十井の一つ 「底脱の井」(そこぬけのい)がある。桶の底がよくぬけたためとの説もあるが、底がぬけたように悟りを開いたとの意との説明があった。
境内にあったのは和紙の原料で知られる三叉の黄色い花のみ。枝が3つに分かれている。

   

境内の外れに十六井戸なるものがあるとの看板があり、大枚100円支払う。薄暗い洞くつの中をのぞくと、正面に観音菩薩像、その下に弘法大師像があり、手前に16の穴が開いていて、水がたまっているだけ。



「鎌倉唯一の尼寺で花の寺としても有名」とある英勝寺の入口をのぞくと、300円とあり、ちょうど出てきた人が首を振って「花はありませんよ」と言ったので、そのままパス。すぐ先の寿福寺へ。

寿福寺の総門から山門までまっすぐ続く石畳が絵になっている。総門を入った左側に俳句を読んで投稿する俳句ポストがある。このポストはいろいろなところで見かけた。境内は非公開だが、左手から裏山に回りこむと有名人の墓がある。

   

奥のやぐら(横穴式墓地)の中に北条正子と源実朝の五輪塔(実際は墓ではなく供養塔らしい)がある。

   

有名人として、鞍馬天狗・帰郷・パリ燃ゆの作家大仏次郎、俳句の高浜虚子、銭形平次の作家野村胡堂の墓がある。高浜虚子の子供にも孫にも星野立子など有名な俳人が多いが、いずれもここにお墓がある。

      

ビルマの竪琴の主人公のモデル水島上等兵の墓だと教えられた墓石の頭部は四角錐になっていて神道のものだという。右側にはおさかきが備えられていた。その他、十字架のクリスチャンの墓や、愛犬の墓もあった。

      

宿に車を取りに行き、光明寺で降りてから、逗子マリーナを経由して葉山へ向かった。葉山についてはまた明日。

   



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いざ鎌倉(1)

2007年03月11日 | 観光
いざ鎌倉(1)

鎌倉へはもう何十回も行っているので、今回は車であることもあり、建長、円覚といった北鎌倉一帯や大仏、江ノ電沿線方面はパスし、中心部のみゆっくり一泊して訪れた。3月8、9日と上旬なので案内書の花暦でいくと梅が咲きそろっているはずだったが、暖冬のため、「梅は散ったが、桜はまだかいな」の状況だった。

朝比奈インターから九十九折の道を登り鎌倉霊園脇を通り、岐れ道を曲がり、鎌倉宮の境内へ車を止めた。週日で、まだ10時なので、車はほとんどない。護良親王が幽閉された土牢を見ても楽しくないので、鎌倉宮は外からおまいりだけでパス。
一応、脇にある駐車場へ車を入れ、3時間700円を先払いした。

      

細い道を歩いて覚園寺へ向かう。途中覚園寺の駐車場を発見し残念。10時10分くらいに寺に着いたが、本堂拝観は、10、11、12時(土日のみ)、1,2,3時開始なので、100円支払い、境内だけを見て、お参りして引き上げる。門を出たところの家の2枚のガラス格子戸をのぞくと、中にベンツが鎮座していた。11時ごろ鎌倉宮に戻ると、境内はもう車でほぼ一杯になっていた。



鎌倉宮の脇の道を、途中平山郁夫画伯の家を右手に見て瑞泉寺へ向かう。100円支払い入園する。20台くらいの駐車場があった。思い出すのが遅かった。ほとんど散っている梅園を抜けて結構長い階段を登る。かなり登ったところに郵便ポストを発見。郵便屋さんご苦労さま。
夢窓国師創建の庭園だが、梅もスイセンも完全の終わっていて、椿がところどころに咲いているのみ。

         

道を戻り、鎌倉宮を通り過ぎて、日本三大天神といわれる荏柄天神社への階段を登る。ここも100本あるという梅ノ木はすべて花なし。受験生の絵馬が目立つ。



頼朝の墓にご挨拶してから、ダイニングカフェの0467で昼飯。地魚、有機野菜、古民家のモダン改造とあり、居るのは女性ばかり。鎌倉宮に歩いて戻り、車で材木座の宿に入る。

   

人気の無い材木座海岸沿いから、若宮大路を経て鎌倉駅前へ歩く。すべての年齢層の女性がそろう小町通りを過ぎ、三の鳥居から鶴岡八幡宮に入る。昔はハイヒールの女性が滑りながらキャーキャー言って欄干にしがみついて登っていた太鼓橋はだいぶ前から通行禁止になっている。アンズやお面といったお祭りで見かけた子供向け屋台が参道の両側にちらほらと並ぶ。

    

静御前が舞ったという舞殿の向こうに叔父の実朝を討つために公卿が隠れていた大銀杏が見える。階段のふもとにおみくじの自販機があった。これもご時勢。階段の途中に早咲きか、桜が咲いていた。

      

境内の西側に鎌倉国宝館があり、ひな人形展をやっていたので、大枚400円払い入館する。3月21日まで開催。最初の部屋は仏像がずらりと並び、泥棒がよだれをたらしそうな鐘もある。
次の間に江戸中期の享保びなといった、いにしえの雛人形、五人ばやしなどがずらりと展示されている。江戸の後期までは雛人形は畳に並べられていたので、かなり大きく、顔もかなり面長だった。近世は段の上に飾るようになり、人形も小さくなった。最近売っているお雛様は丸顔もある。着物は色あせてはいるが、品良く重層。ぼたん庭園も園内整備中でしばらく休園。



小町大路の萩と、しだれ梅で知られる宝戒寺に寄った。入ってすぐのところに大きなはくもくれん白木蓮が満開だった。白や赤の椿がほうぼうで咲いていたが、咲き残っているしだれ梅(桜?)は1本しかなかった。

         

またまた歩いて宿に戻った。明日は、銭洗い弁天や、寿福寺へ行く。



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女性は買物好き

2007年03月10日 | 世の動向

オージーの友人の男性が、「あなたの奥さんも買物好きですか?」と聞いてきた。「そうなんですよ」と答えると、「疲れているはずなのに買物となると元気になって」とエネルギッシュな彼が嘆き、二人でため息をついたことがあった。
ほとんどの男性は買物なんて面倒でいかに早くすませるかしか考えないのに、なんで女性達は疲れもしれず歩き回るのか?洋の東西を問わず共通の傾向であるようだ。

そういえば、オーストラリアのパースで唯一のアウトレットの貴金属店にすべて半額との札がベタベタ張ってあった。店の前で手すりに寄りかかって奥様を待っていたら、通りかかる女性の9割がじっとガラスの中をのぞきこみ、半数が店の中に入っていった。笑うしかなかった。

以前、奥様が、「3割引きよ!買わなければ損よ!」と言うので、「買わないのが10割引だ」と言ったら、ご機嫌を損ねてしまった。10割引きはウソだが、買わないのが一番得と思うのだが。

とは言うものの、買物がストレス発散になっているのでしょうし、退職後はストレッサー(ストレスの源)になっている私にはあきらめしかありません。それに、「これ買っていい?」と聞かれると、弱みを握られている私はつい、「いいんじゃない」と言ってしまいます。なんの弱みかつて?そりゃ、惚れた弱みに決まてるでしょう??


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昔の思い出 (11)風呂屋

2007年03月09日 | 昔の話

子供の頃、風呂屋へ行くのが嫌いだった。何がいやだったのか、今ではもう思い出せない。自宅に風呂がなかったので、15分くらい歩いて風呂屋へ行くのだが、母親に手を引っ張られても、柱にしがみついて抵抗したらしい。

最近、風呂屋へはついぞ行かないので分からないが、昭和30年代の風呂屋と現在でも大きくは違わないのではないだろうか。
入口ののれんをくぐると、左右に男性用入口と女性用入口がある。その手前で下駄を脱いで、ずらりと並んだ下駄箱に入れ番号板を抜く。最近居酒屋などで時々見かけて懐かしくなる。私はいつも、川上哲治の16番に入れていた。
引き戸をあけて入り、番台にお金を払う。板の間に並んでいる籠に着物を入れ、その籠を戸棚に入れて小さなアルミ板の鍵を抜く。最近では公共施設などの入口にある鍵がかかる傘たてのような鍵である。確か、鍵にゴムひもがついていて、腕にはめて風呂に入ったと思う。

洗い場は今でも旅館などにあるタイプと同じであるが、湯船は深くて熱いものと、浅くて適当な温度のものと二つ並んでいた。熱い方は子供ではちょっとジンジンして我慢できないくらいだった。「ぬるい風呂になんか入れるか。こちとら江戸っ子だい」と言ったような年寄りが一人くらい入っていて、子供が入ると、ジロリとにらんだ。今思うと、お湯が動いて熱くなるからだったのだろうか。手前にある大きな蛇口をひねって水を出して薄めたところから入ると、「熱いんだったら、そっちに入りな!」と怒鳴られた。

そういえば、当時、家の近所で、男だか女だか分からない子供心にも美しい人を何度か見かけた。一体、男なのか、女なのか気になっていた。あるとき、その人が洗面道具を抱えて家の前を歩いて行くのを見た。これだと思い、後をつけた。風呂屋ののれんをくぐって入っていくのをドキドキしながら覗き込んだ。男湯に入った。男性であるのを確かめ、一安心した。今でも私は、あの人は美輪明宏(当時は丸山)ではなかったのかと思っている。不思議なほど美しい人であった。

会社員になっても風呂嫌いは変らなかった。結婚するまでは外風呂であり、忙しいこともあって風呂に行くのは1週間に一度、土日のどちらかであることが多かった。下手すると、土日とも他の用でつぶれると、2週間ぶりとなるフランス人並みであった?? もっとも、この間、シャワーも浴びず、下着も代えないのだが。
しかし、変れば変るもので、退職した今や、24時間風呂を設置したので、夏の暑い日など、寝起きに入り、庭仕事して入り、夜寝る前に入りと、日に3回入ることもある。



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「停電の夜に」を読んで

2007年03月07日 | 読書

もう数年前に一度読んだジュンパ・ラヒリ Jhumpa Lahiriの「停電の夜に」 (原題Interpreter of Maladies)を読み直した。

ピュリツァー賞、O・ヘンリー賞、PEN/ヘミングウェイ賞ほかを独占。ロンドン出身でニューヨーク在住のインド系新人作家の鮮烈なデビュー短編集。
日常の小さな出来事の中での人の心を細密画さながらの筆致で描き出す。読みやすく、余韻がただよう短編集。新人ながらすでに自分の世界を作り上げていて、円熟の語り口を持っている。

異性の実像を知り尽くした上で、謎めいた雰囲気を漂わせながら書くには、女性の著者は主人公をあえて男性にした方が効果的と考えたのだろう。ほとんどの主人公は男性である。もちろん、もてあますほどの記述力があっての話しではあるが。

アメリカに移住してきて疎外されるインド文化を抱えた人、逆にアメリカを背負ったままインドに一時帰国する人の両文化の間のすれ違い。異性間と異文化間の違いを同時に持込んで、微妙な心の動きを描ききる。

A Temporary Matter 停電の夜に:始めての子の死産いらい隙間風の吹く若い夫婦が、ロウソクの灯されたキッチンで停電の夜ごと秘密を打ち明けあい、そして----。

When Mr. Pirzada came to Dine ビルザダさんが食事に来たころ: 米国のインド系の家にたびたびやってくる西から独立しようと戦争している東パキスタン人の人をまだ事情がわからない子供が観察している。

Interpreter of Maladies 病気の通訳:ささやかな通訳を本業とするさえないタクシー運転手が夫と子供とアメリカナイズされたわがままな夫人のガイドをし、淡い感情をのぞかせる。

A Real Durwan 本物の門番:階段掃除人の話。以前は贅沢していたと話がどんどん大きくなる。他に比べると面白くない。

Sexy セクシー: セクシーと言われてインド人男性と不倫に夢中になっていく若いアメリカ女性。夫の不倫に泣く女性と子供の話しと巧みに絡ませる。

Mrs. Sen’s セン婦人の家:アメリカでの生活になじまないインドから来た夫人をベビーシッタとしてその家に預けられる子供。子供はやさしくそんな夫人を見る。

This Blessed House 神の恵みの家: ヒンズー教にこだわる夫にかまわず前の家の持ち主が残したキリスト教の置物探しに興ずる魅力的な強引な夫人。イライラしながら、魅力に負けている夫。こんな夫婦のありとほほえましく思える。

The Treatment of Bibi Haldar ビビ・ハルダーの治療:乞食のようなてんかんの持病を持つ女性。

The Third And FinalContinent 三度目で最後の大陸: インドからの移民の男性が故国から女性を迎えた。親族が決めた結婚でインドからイギリス、さらに米国に渡った女性が米国になじんで行き、夫にも同時に心を開いていく。ラヒリの両親の話のような気がする。心あたたまる話。

ジュンパ・ラヒリは、結婚式を故国インドであげたとのニュースがあり、なかなかの美人であった。
第二作は、「その名にちなんで」 The namesake。若き日の父が九死に一生を得た時、手にしていた本にちなんで、「ゴーゴリ」と名付けられた息子。やがて彼はその名を恥じ改名する。周辺の事物の詳細な記述、インド生まれの両親と米国生まれの息子の故国への思いの違いの記述には感心する。


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「赤穂浪士の実像」を読む

2007年03月05日 | 読書

谷口眞子(しんこ)「赤穂浪士の実像」吉川弘文館 歴史文化ライブラリー214 を読んだ。

忠臣蔵というと、私の歳だと、長谷川一夫の「おのおのがた」を思い出すが、TVのほかにも映画、歌舞伎などでさまざまの形でドラマ化されてきた。しかし、それらは事実と大きく異なっている点が多い。
この本は、当事者が書き残した手紙などの資料から赤穂浪士と事件の真相に迫っている。なお、実録物はほとんどが物語りに過ぎないものもあり、資料には採用していない。

代々の家臣である家老大石内蔵助は御家再興を目指し自重を主張するが、浅野内匠頭(以下内匠頭たくみのかみ)に取り立てられた堀部安兵衛は吉良上野介(以下上野介こうずけのすけ)を討ち取り、主君の無念を晴らそうとする。この両者のやりとりが手に取るようにわかる。そして、結局、御家再興の望みが絶たれたときに討ち入りが決まる。
この間の考え方、行動がこの本を読むとリアルタイム感覚で分かる。

以下、簡単に事実を追ってみる。

元禄14年(1701年)3月14日の江戸城松の廊下で内匠頭が上野介に切りかかった。大切な勅使が通る廊下を血で汚した殿中での刃傷に内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して、上野介には何の咎めもなかった。

赤穂藩士の多くは、幕府の裁定に強い不満を持ち、篭城や殉死が叫ばれた。しかし、結局、家老大石内蔵助は内匠頭の跡継ぎの浅野大学を擁立しての御家再興を目指し赤穂城を開城し、引渡す。

江戸の浅野上屋敷、下屋敷を幕府へ明け渡したのが3月17日-22日で突然の事が起きて1週間で明け渡した。赤穂城を退出したのが4月15日であり、それぞれ多くの人が突然、住むところと収入を絶たれた。御家断絶とは厳しいものである。

1702年7月、浅野大学の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となった。内蔵助は京都円山で会議を開き、上野介への仇討ちを決定した。高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落し、最終的に同志は47人となった。この間、次々と脱落していく家臣の家族、経済的事情などと、同志からの侮蔑の言葉などが生々しい。

1702年12月14日深夜、47人の赤穂浪士は吉良上野介の屋敷に討ち入り、討ち果たした。なお、この本には討ち入りそのものについてはほとんど触れていない。翌年2月4日、赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で武士としての体面を重んじられた形で切腹した。
そして、赤穂事件は庶民の人気を呼び、さまざまに脚色される忠臣蔵へと変化していく。



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昔の思い出 (10)妄想癖

2007年03月04日 | 昔の話

小学校高学年のころ、自分の歯ブラシを使えなかった。毒が塗ってあるような気がしていたからである。コップも通常使うものでなく、わざわざ違うものを使ったりした。

なぜこんな事をしたのか。
「万が一、戦争に破れ天皇一族が絶える事態になる場合に備え、血統を保存する目的で、戦争中、天皇家の子供の一人をこっそり民間に預けた。実は、自分はその天皇の子であり、その秘密を知る人は極めて少ないが、戦後体制が確立された今では、その事実を抹殺するために、自分を密かに殺そうとしている」
そう考えていたのだ。

今にして思えば、こんな事、子供が考えることかと思うが、事実そのように考えていた。正確に言えば、そうだと思う反面、そんな事無いと思う気持ちもあった。また、今思うと、「天皇」であるところが、時代を感じさせる。当時、南朝の正統天皇を主張した熊沢天皇と称するおじさんがいたが、その影響もあったのだろうか。

今では遊びの一つだったと考えたいが、この件以外にも、私には当時の神経が異常であったと思わざるを得ないことがいろいろあった。
「当時は何でそんなこと!全く不思議だ」 と、その後は考えられたのなら良いのだが、神経異常への恐怖が人生すべて70%で過ごす原因になったように思える。この神経過敏さは壮年のころは忙しさにまぎれ、暇となった現在は感受性が摩滅してきたことに救われている。そして、老後は?


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音痴は著作権法違反?

2007年03月03日 | その他

歌手の森進一さんが「おふくろさん」の歌詞の冒頭にセリフを加えメロディーをつけて歌っていてCDも出していた。作詞した川内康範氏は無断で歌詞を改作したとして歌唱禁止と怒り、マスコミを騒がしている。確かに、プロの歌手が勝手に歌詞を変えて歌うことは著作権侵害になるのだろう。

ならば、音痴の人がメロディーを変えて、いや自然に変ってしまって歌うのはどうなのか?素人がカラオケなどで楽しむのは問題ないと思うが、タレントがTVなどで歌って、音程を外すのは著作権法違反になるのではないだろうか??
「赤い風船」を歌った浅田美代子さんは?

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山火事と再生

2007年03月02日 | 世の動向


3月1日午後、熊本県南阿蘇村の原野で、観光客がカセットコンロで水を沸かそうとしたところ、枯れ草に飛び火し、燃え広がった。約160 ha(ha:ヘクタール=1万m2)を焼き、2日午前7時現在も燃え続けている。

日本では山火事はあまり目立たないが、林野庁HPを見ると、

最近5年間(2001年~2005年)の平均で、1年間に約2500件発生し、焼失面積は約1500ha(1500万m2)、損害額は約9億円と、けっこう大きなものになっている。
1日あたりにすると、全国で毎日約7件の山火事が発生し、約4ha(ほぼ東京ド-ムと同じくらいの面積)の森林が燃えていることになる。
それでも、1970年代の年約6,500件、約8,000haからは大幅に減少している。

山火事の直接的原因は、「たき火」26%、「原因不明」15%、「タバコ」14%、「放火(疑い含む)」13%などほとんどが人間の不注意などによるものだ。

私の良く行くWA州(西オーストラリア州)の情報から山火事の功罪についてあらためて述べてみたい。

乾燥した気候のWA州にはところどころ今日の山火事危険度を示す看板が立っている。実際、かなりの木々が下の方は黒こげになっているところが多い。

   

森の中を走る道路には、カンガルーや鳥の死体を多く見る。土地を荒らし、動物の世界を分断し、車の排気ガスを撒き散らし、道路は環境破壊の代表例だが、山火事防止というメリットもある。実際、道路の片側の樹木が真っ黒で、反対側は緑という光景もよく目にする。



オーストラリアに多いユーカリの木も油分を多く含んでいるため山火事でよく燃える。しかし一方では、山火事の熱はユーカリのタネを発芽しやすくしている。ワイルドフラワーのバンクシアの実は燃えやすいが、山火事の熱で実がはじけて中の種が周囲に飛び散る。山火事で木は燃えてしまうが、その実は焼け跡の養分をもとに生まれ変る。
太古の昔から自然の樹木は山火事と共生してきたのだ。焼けた森も2年で再生すると言う。

WA州の森を見ると、いくつかの巨木と、根元のひょろひょろした若木が多く、中間の樹木は目立たない。
つまり、再生したと言っても、焼け残るのは根元だけを黒く焦がした高くそびえる巨木だけで、下草や数多くの若木は皆、焼けてなくなってしまう。このように、森はいくつかの巨木がますます大きく伸び、若木のほとんどは焼け滅び、ごく少数の運の良い若木だけが巨木への道を進む。

からだの弱いものは死に絶え、力の弱いものは子孫を残せない動物と同じ、植物もまた自然淘汰と言う摂理による格差社会なのだろう。

人間社会も豊かさを維持するために、現在、格差社会をより強烈なものにしようとするいくつかの政策がとられている。しかし、人間社会にあっては、第一に弱きものをどこまで、どう応援していくのかをまず議論し、策を立てるべきである。競争促進のための格差拡大(底上げ)策はその次の段階の議論にすべきであると思う。


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昔の思い出 (9)この世の終わり

2007年03月01日 | 昔の話

小学校2年か3年であろうか、学校への道の途中で宿題を持ってくるのを忘れた事に気がついた。家へ戻ると完全に遅刻してしまう。
まだ学校をサボることなど考えもしなかった頃なので、「ああ!」と、パニックになった。ただ呆然として、「ああ、もう駄目だ。すべてが終わった。どうしようもない。きっとこれは夢だ。夢にちがいない」と思った。
この世の終わりだと思ったこれが多分最初の経験である。

中学生になり身体はきゃしゃだが、腕が太く腕力がついてきて、鉄棒での懸垂が50回程できるようになると、鉄棒にこるようになった。逆上がりはもちろん、蹴上がり、腰を鉄棒につけての連続前回転、後回転など一応何でもできるようになった。

よしとばかり、大回転に挑戦し、練習を重ねた。跳びあがって鉄棒にぶら下がり、蹴上がりの要領で前後に大きく身体を振らせる。ブランコのようにどんどん振れを大きくしてゆく。足が水平よりさらに上に上がり、前に大きく振れた瞬間、手が鉄棒から離れた。身体は水平のまま前方に大きく跳んでそのまま地面に背中から叩きつけられた。
息がとまり、呼吸ができない。「ああこのまま死ぬのだ。今見えているこの世は終わるのだ」と思った。しかし、このときはなぜか冷静で、死ぬまえには、過去に出会った人の顔が走馬灯のように目の前を過ぎていくと聞いたが、ちっとも浮かんでこないなと考えていた。
そのうちに少しづつ息ができるようになり、「生き返った」と思った。実際に少しずれて首から地面に叩きつけられれば、死んでいただろう。

この後も、何度かこの世の終わりと思うパニックになることがあった。自分が死んだあとは、自分にとってはこの世はないも同然だ。したがって、若い頃は、私が死ぬときが、すなわちこの世の最後だと思っていた。
しかし、妻や子供ができたあとでは、危険な場面や消してしまいたい恥ずかしい場面に遭遇したとき、これは夢であって欲しいとは思っても、この世の終わりとは思わなくなった。そして、年取るとそんな場面にも遭遇しなくなった。実際の死に直面するときにはどのように感じるのだろうか。



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