第74期名人戦七番勝負第5局は、5月31日午後6時44分、先手の羽生善治名人が投了し、佐藤天彦新名人が誕生した。
ではその模様を振り返ってみたい。
◇
名人戦が4局終わって、挑戦者・佐藤八段の3勝1敗。佐藤八段には失礼だが、羽生名人先勝を見届けた後、挑戦者が三番棒で勝つとは予想しなかった。これは本当に意外だった。
そこから中3日で早くも第5局である。前後の移動日を考えるとほとんど連戦のようなもので、このインターバルは羽生名人につらいと思われた。
そして第5局は横歩取りの将棋が濃厚である。しかし佐藤八段がこの戦法の後手番に滅法強く、驚異的な勝率らしい。よって羽生名人の勝利期待値は、その「不調」も合わせ、著しく低かった。私見では20%というところか。いずれにしても羽生名人の棋士人生で、ここまで敗退を噂される将棋は初めてだったと思われる。
果たして第5局は横歩取りになった。第1日は羽生名人もわるくない、というネット上の評判だったが、私は2日目の局面は見ていない。ただ、佐藤八段が良い、という見解になっていた。
31日も私は定刻で仕事を切り上げ、新橋に向かった。もちろん、大内延介九段の大盤解説を拝聴するためである。
今日は迅速に金券を買い、先週乗り損ねた山手線に乗れた。現地着は午後6時37分だった。空は明るく、大盤の前には多くの見物人が観戦していた。
解説の大内九段はパイプ椅子に座り、向かって左手に藤森奈津子女流四段。その右に駒操作の梶浦宏孝四段がいた。藤森女流四段は待望のスカート姿だ。だが残念、周囲は無風だった。
大盤では現局面までを並べている最中だったが、後手が△5一金と寄る前後をやっていた。これはずいぶんスローペースだ。
「ここで定跡講座になるけれども…」と、大内九段がこのあたりの駒組を解説する。「手が広そうだけれども、このあたりは必然なんですね」。そして「サトウアマヒコはこの将棋をパーフェクトに研究している」と言った。
羽生名人▲7七桂。角道を止めるので変な手だが、ここ▲3三角成と交換するのは、先手がうまくないという。「▲7七桂と跳ねた手が羽生さんの工夫です」。
以下数手進んで、「私は羽生さんを持ちたい。…駒の効率は羽生さんのほうがいいですから」
と大内九段が見解を述べた。
▲7四歩の局面で封じ手。△7四同歩は▲4二角成△同金寄▲6六角△7五歩▲同飛で先手優勢。よって後手は△7四同飛としたが、先手は角を交換し▲4六飛と寄った。
△5五歩に▲8八金と引く。私なら▲6五角と飛車取りに打ち、▲4三角成を見て先手十分に思うのだが、大内九段は素通りである。
本譜は△8四飛▲8七歩△3三桂。
「ここですよねえ」と大内九段。ここで名人は32分の考慮で▲6五角と打った。「この手が理解に苦しむんですよねえ。負ければ敗因ですね」
ぴしゃりと断定した。大内九段は形勢判断を明快にしてくれるので、とても分かりやすい。「この前の手までは、羽生持ちだったんですよ。だけどこの角、窮屈で7六にしか引けないもんねぇ。そもそも▲4三角成の一点狙いでしょ? とても名人の指し手とは思えない」
大内九段の苦言が続く。そしてこの後の一言がすごかった。
「アマチュア初段のような手です」
バッサリと一刀両断した。ダサイ手に対しては、相手が名人だろうがなんだろうが、容赦しないのである。
ここで藤森女流四段が、△5五歩の時に▲6五角はなかったか、質問してくれた。
大内九段の解答は、「▲6五角には△8四飛▲4三角成△4五歩▲同飛△4四歩▲同飛△同飛▲同馬に△8九飛が厳しく、先手敗勢」とのことだった。
「控室で梶浦君と検討したんですけど、どうも先手がよくない。じゃあ(▲6五角の代わりに)どう指すか」
大内九段は一拍置いて続ける。「ここは▲9五歩と指すもんですよ。△同歩に▲9二歩△同香▲6五角」
以下△7四角には▲同角とし、△同飛は▲6五角、△同歩は▲3四歩とする。
「これ佐藤君も、何か自分が見落としてるんじゃないかと思ってるはずですよ。そのくらい▲6五角はシドイ(ひどい)手ですよね」
まったく、これだけこきおろされた悪手も珍しい。羽生名人、ここから挽回したのだろうか。
(つづく)
ではその模様を振り返ってみたい。
◇
名人戦が4局終わって、挑戦者・佐藤八段の3勝1敗。佐藤八段には失礼だが、羽生名人先勝を見届けた後、挑戦者が三番棒で勝つとは予想しなかった。これは本当に意外だった。
そこから中3日で早くも第5局である。前後の移動日を考えるとほとんど連戦のようなもので、このインターバルは羽生名人につらいと思われた。
そして第5局は横歩取りの将棋が濃厚である。しかし佐藤八段がこの戦法の後手番に滅法強く、驚異的な勝率らしい。よって羽生名人の勝利期待値は、その「不調」も合わせ、著しく低かった。私見では20%というところか。いずれにしても羽生名人の棋士人生で、ここまで敗退を噂される将棋は初めてだったと思われる。
果たして第5局は横歩取りになった。第1日は羽生名人もわるくない、というネット上の評判だったが、私は2日目の局面は見ていない。ただ、佐藤八段が良い、という見解になっていた。
31日も私は定刻で仕事を切り上げ、新橋に向かった。もちろん、大内延介九段の大盤解説を拝聴するためである。
今日は迅速に金券を買い、先週乗り損ねた山手線に乗れた。現地着は午後6時37分だった。空は明るく、大盤の前には多くの見物人が観戦していた。
解説の大内九段はパイプ椅子に座り、向かって左手に藤森奈津子女流四段。その右に駒操作の梶浦宏孝四段がいた。藤森女流四段は待望のスカート姿だ。だが残念、周囲は無風だった。
大盤では現局面までを並べている最中だったが、後手が△5一金と寄る前後をやっていた。これはずいぶんスローペースだ。
「ここで定跡講座になるけれども…」と、大内九段がこのあたりの駒組を解説する。「手が広そうだけれども、このあたりは必然なんですね」。そして「サトウアマヒコはこの将棋をパーフェクトに研究している」と言った。
羽生名人▲7七桂。角道を止めるので変な手だが、ここ▲3三角成と交換するのは、先手がうまくないという。「▲7七桂と跳ねた手が羽生さんの工夫です」。
以下数手進んで、「私は羽生さんを持ちたい。…駒の効率は羽生さんのほうがいいですから」
と大内九段が見解を述べた。
▲7四歩の局面で封じ手。△7四同歩は▲4二角成△同金寄▲6六角△7五歩▲同飛で先手優勢。よって後手は△7四同飛としたが、先手は角を交換し▲4六飛と寄った。
△5五歩に▲8八金と引く。私なら▲6五角と飛車取りに打ち、▲4三角成を見て先手十分に思うのだが、大内九段は素通りである。
本譜は△8四飛▲8七歩△3三桂。
「ここですよねえ」と大内九段。ここで名人は32分の考慮で▲6五角と打った。「この手が理解に苦しむんですよねえ。負ければ敗因ですね」
ぴしゃりと断定した。大内九段は形勢判断を明快にしてくれるので、とても分かりやすい。「この前の手までは、羽生持ちだったんですよ。だけどこの角、窮屈で7六にしか引けないもんねぇ。そもそも▲4三角成の一点狙いでしょ? とても名人の指し手とは思えない」
大内九段の苦言が続く。そしてこの後の一言がすごかった。
「アマチュア初段のような手です」
バッサリと一刀両断した。ダサイ手に対しては、相手が名人だろうがなんだろうが、容赦しないのである。
ここで藤森女流四段が、△5五歩の時に▲6五角はなかったか、質問してくれた。
大内九段の解答は、「▲6五角には△8四飛▲4三角成△4五歩▲同飛△4四歩▲同飛△同飛▲同馬に△8九飛が厳しく、先手敗勢」とのことだった。
「控室で梶浦君と検討したんですけど、どうも先手がよくない。じゃあ(▲6五角の代わりに)どう指すか」
大内九段は一拍置いて続ける。「ここは▲9五歩と指すもんですよ。△同歩に▲9二歩△同香▲6五角」
以下△7四角には▲同角とし、△同飛は▲6五角、△同歩は▲3四歩とする。
「これ佐藤君も、何か自分が見落としてるんじゃないかと思ってるはずですよ。そのくらい▲6五角はシドイ(ひどい)手ですよね」
まったく、これだけこきおろされた悪手も珍しい。羽生名人、ここから挽回したのだろうか。
(つづく)