一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

プレス機、撤去

2017-12-16 00:18:35 | プライベート
6日(水)はついに、工場(こうば)内のプレス機を撤去することになった。品物は30トン級から70トン級まで6基。ほか、俗に「ケトバシ」といわれる人力プレス機3基。さらに研磨機やコンプレッサー、ベンチグラインダー、ボール板など、一切合切である。
前夜、撤去業者の仲介者(年配者)から「いよいよ明日ですね」と電話があった。
この仲介者はウチがお世話になっている、ある人物の紹介なので、信用は置けるようだ。機械の撤去はすなわち、会社の廃業を意味する。仲介者は相手方のつらい心情も心得ているので、それを察しての一報だったと思われた。
ところでこれらプレス機の撤去については、ひとつ問題がある。つまり今回の件で、私たちはおカネをもらえるのか、それとも支払うのか、だ。
我がプレス機はほとんどが戦前の製造で時代遅れなのだが、丁寧にメンテナンスはしていたので、いずれも現役である。
だが21世紀の現在、プレス機も進化を遂げ、今はコンピューターが組み込まれている時代だ。だから日本での需要は厳しい。実際に以前、ある中古機械業者に診てもらったことがあるのだが、機械のあまりの古さに「骨董品ですね」と捨て台詞を吐かれたものだった。
だがアジア系の外国なら、まだ需要があるかもしれない。これらを売ったら、相当な額になるのではあるまいか。
いやそれが不可能だとしても、良質の鉄クズとしては相当な重量になり、それはそれでおカネになる。これは確実にそうである。
そう考えると、どう転んでもウチに収入があってもよさそうだが、なにせ運搬量に莫大な金額がかかる。逆におカネを請求されることも考えられた。
結局私たちは仲介者の見解に一任した。結果、ウチは撤去業者にいくばくかの手数料を支払うことで合意していた。
やはりこれらプレス機は、どこかに売るなどして、相当のおカネになるのだ。
ただオヤジもプレス機の撤去が目的で、これで収入を得ようとは考えていなかった。本来なら数百万が入ったかも?しれないのに、淡白なことである。
もっともそれは私も同じで、もし収入になる可能性があるのなら、私がネットでほうぼうを調べればよかった。私はそれすらせず求職やブログに精を出していたのだから、オヤジ以上に罪深い。会社を閉めた後まで、私はアホだったわけだ。
ただ私としては、もう動かなくなったプレス機だけども、それが工場から無くなることを認めたくなかった。できるならこのままここにあってほしかったのだ。

当日は朝8時半に、撤去業者3人と、仲介者が立ち合いに来た。
プレス機は1台数トンあるから撤去は大変だ。しかも高さもあるので、ウチの工場の戸からは出ない。すごくイヤな予感がしたのだが、柱の一部を切って、プレス機が通れるようにした。
撤去が始まった。フォークリフトを工場内に入れ、ごちゃごちゃやる。
私も一応工場にいたけれども、プレス機は工場にドーンと鎮座するものであり、これらが移動する姿は見たくない。私はこの工場で16年間従事し、回数は少なかったけれども、プレス機を動かしたことは何度もあった。人に言えない愛着はある。
もっともそれを言うならオヤジや叔父もそうで、実に半世紀以上もこれらプレス機と苦楽を共にしてきたのだ。いわば祖父の形見を処分することにもなり、私の数倍も身を切られる思いだったに違いない。
結局、私の怠惰がこんな状況を招いた。本当に会社を存続させる気があるのなら、何年も前からしっかり修業し、独り立ちの準備をしていたはずなのだ。
撤去は昼休みを挟み、4~5時間ぐらいで終わった。その間私は自宅に戻り、将棋世界などを意味もなく読んでいた。
私はプレス機が数台積まれたトラックを一瞬だけ見たが、あれだけ重量感があったプレス機が荷台にちょこんと鎮座していて、見るに堪えないものだった。見なきゃよかった。
といっても最大級の70トンプレス機までは持って行けず、これらは8日(金)、改めて撤去することになった。
工場内を見てみる。あれだけごちゃごちゃしていた工場が、ガラーンとしてしまった。
悪夢なら覚めてほしいと思った。だがこれは、紛うことなき現実なのだ。あまりにも悲しすぎて、涙も出なかった。

その夜、私は両親に撤去の状況を聞いた。餅は餅屋で、撤去業者は器用にフォークリフトを扱い、いとも簡単にプレス機を動かしたという。
またオヤジは、朝、私より30分ぐらい早く工場に入ったのだが、プレス各機に御礼を述べていたという。やはりそうだったか。だがそれは私も同じ気持ちで、こんにちに至るまで、何度も御礼を述べた。何しろこれら機械があったから、私たちは今日まで生活して来られたのだ。
そしてオヤジは
「あの機械、どこかで使われているといいなあ」
とつぶやいた。
それは私も同じである。鉄クズにされるより、どこかで働いてほしい。
私は唯一残った70トンプレス機に最後の挨拶をしに行く。これは図体がでかくて、金型を取り付ける時、フライホイールを動かすのに骨が折れた。だが今ではもう、懐かしい思い出である。
このプレス機も、8日の午前中には、工場を去った。本当に、機材はひとつ残らずなくなった。まさに、兵どもが夢の跡である。
私はなぜか、忠臣蔵四十七士の切腹(実際は46人)を思った。
コメント
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