この週末は町内でお祭りがあり、26日も25日に続いて、各町会から神輿が出た。私は神輿の担ぎ手は引退したので、傍から見るのみである。
しかし26日は25日以上に殺人的な高温で、ただくっついて見ているだけでも、汗がグッショリと出た。となれば担ぎ手の皆さんはたまったものではないだろう。
駅前に7基の神輿が勢ぞろいするさまは壮観だったが、こっちは喉が渇いて、もう限界寸前である。7基そろっての一本締めを見るまで我慢できず、一足早く引き揚げさせていただいた。まったく、8月も終わろうというのに、何だこの暑さは。
帰宅してテレビを点けると、将棋が映った。NHKアーカイブス「勝負~名人への遠い道~」だった。昼過ぎにオヤジが珍しく「素人のど自慢」を観ており、それで、チャンネルがNHKに合っていたのだ。
番組は、年齢制限で奨励会退会の危機に直面している鈴木英春氏を追ったものだった。1981年の放送である。
鈴木三段は僧侶の資格を取ったとかどうとかナレーションでは言っていたが、作務衣姿での対局である。その姿が深浦康市九段そっくりだ。もう、同一人物と言ってもいい。
鈴木三段は18歳で三段に昇段したが、そこから1コ上が上がれない。たしか、10代のころに四段昇段の一局を負けているはずである。
テレビは鈴木三段の顔写真を掲げ、その年ごとに四段昇段した三段君の顔写真を載せ、彼らが上方にフェードアウトしていく。取り残される鈴木三段。ここが非情なところで、三段になった者から順番に四段になるわけではないところが、この世界の厳しさだ。
テレビカメラは熱海の鈴木三段の自宅にも潜り込み、奥様も登場する。このあたりがさすがにNHKというか、よく撮ったものだと思う。
番組では中原誠名人の名人戦の戦いを並行して見せる。鈴木三段が中原名人を崇拝していたからだ。
この期の挑戦者は桐山清澄八段。出身の奈良県下市町では、名人戦の指し手が有線放送で放送されていた。こんなことがあったのかと思う。
鈴木三段の「命」はいよいよ厳しい。5月上旬の例会で連敗するとアウト、しかし2連勝でも昇段が決まるわけではない。例会の前の朝礼時に、植山悦行三段が13勝3敗で四段昇段したことが知らされる。しかし植山三段本人の映像が映っていないのが残念だった。
真部一男七段の姿も映る。鈴木三段と真部七段は研究会仲間で、升田幸三九段の記録係を競って取ったことがあるのだ。
私にとってこの当時の真部七段は懐かしく、1981年から83年まで、我が高校の文化祭で、真部七段に指導対局を受けたのだ。番組には夫人の文恵さんも映った。夫人の動く姿を観たのは初めてで、まったくこの番組、今となってはすべてが貴重である。
鈴木三段は5月の奨励会1局目に負ける。しかし彼は、第2局に勝てば四段昇段の目が残っているのだから、(当時)31歳の年齢制限が来ても、6月以降も指させてほしい、と佐藤義則六段・沼春雄四段の奨励会幹事に訴える。これ、今でいえば、10年間のフリークラス期間を過ぎた中尾敏之五段が、まだ順位戦復帰の目があるから、11年目の4月以降も指させてくれ、と言っているようなものだ。
奨励会幹事はしぶしぶ受け入れたが、鈴木三段は2局目も敗北。これで奨励会を去ることになった。
見かねた真部七段が別室に誘い、盤を挟んで、お互いパチパチやる。しかし局面が片方は中盤、片方は不動と、メチャクチャである。
何を話すわけでもないが、駒に触れている。この気持ち、何となく分かる。
名人戦は第5局に中原名人が勝ち、防衛。毎日新聞観戦記者の加古明光氏が電話で、口頭で原稿をしゃべっているのが、これまた時代を感じさせた。
番組の最後で、中原名人と鈴木元奨励会三段の記念対局が映される。中原名人の計らいによる実現である。この場面、私は当時の新聞記事で見たことがあり、懐かしい気持ちになった。
アーカイブスは終わり、ここからは新規収録。佐藤天彦名人とつるの剛士が番組について語る。
「これは貴重な映像ですねぇ」とつるの剛士が放心していたが、その通りだと思った。
現在鈴木氏は68歳で、アマ棋界で元気に活躍中である。ここに救いがある、と言えようか。
しかし26日は25日以上に殺人的な高温で、ただくっついて見ているだけでも、汗がグッショリと出た。となれば担ぎ手の皆さんはたまったものではないだろう。
駅前に7基の神輿が勢ぞろいするさまは壮観だったが、こっちは喉が渇いて、もう限界寸前である。7基そろっての一本締めを見るまで我慢できず、一足早く引き揚げさせていただいた。まったく、8月も終わろうというのに、何だこの暑さは。
帰宅してテレビを点けると、将棋が映った。NHKアーカイブス「勝負~名人への遠い道~」だった。昼過ぎにオヤジが珍しく「素人のど自慢」を観ており、それで、チャンネルがNHKに合っていたのだ。
番組は、年齢制限で奨励会退会の危機に直面している鈴木英春氏を追ったものだった。1981年の放送である。
鈴木三段は僧侶の資格を取ったとかどうとかナレーションでは言っていたが、作務衣姿での対局である。その姿が深浦康市九段そっくりだ。もう、同一人物と言ってもいい。
鈴木三段は18歳で三段に昇段したが、そこから1コ上が上がれない。たしか、10代のころに四段昇段の一局を負けているはずである。
テレビは鈴木三段の顔写真を掲げ、その年ごとに四段昇段した三段君の顔写真を載せ、彼らが上方にフェードアウトしていく。取り残される鈴木三段。ここが非情なところで、三段になった者から順番に四段になるわけではないところが、この世界の厳しさだ。
テレビカメラは熱海の鈴木三段の自宅にも潜り込み、奥様も登場する。このあたりがさすがにNHKというか、よく撮ったものだと思う。
番組では中原誠名人の名人戦の戦いを並行して見せる。鈴木三段が中原名人を崇拝していたからだ。
この期の挑戦者は桐山清澄八段。出身の奈良県下市町では、名人戦の指し手が有線放送で放送されていた。こんなことがあったのかと思う。
鈴木三段の「命」はいよいよ厳しい。5月上旬の例会で連敗するとアウト、しかし2連勝でも昇段が決まるわけではない。例会の前の朝礼時に、植山悦行三段が13勝3敗で四段昇段したことが知らされる。しかし植山三段本人の映像が映っていないのが残念だった。
真部一男七段の姿も映る。鈴木三段と真部七段は研究会仲間で、升田幸三九段の記録係を競って取ったことがあるのだ。
私にとってこの当時の真部七段は懐かしく、1981年から83年まで、我が高校の文化祭で、真部七段に指導対局を受けたのだ。番組には夫人の文恵さんも映った。夫人の動く姿を観たのは初めてで、まったくこの番組、今となってはすべてが貴重である。
鈴木三段は5月の奨励会1局目に負ける。しかし彼は、第2局に勝てば四段昇段の目が残っているのだから、(当時)31歳の年齢制限が来ても、6月以降も指させてほしい、と佐藤義則六段・沼春雄四段の奨励会幹事に訴える。これ、今でいえば、10年間のフリークラス期間を過ぎた中尾敏之五段が、まだ順位戦復帰の目があるから、11年目の4月以降も指させてくれ、と言っているようなものだ。
奨励会幹事はしぶしぶ受け入れたが、鈴木三段は2局目も敗北。これで奨励会を去ることになった。
見かねた真部七段が別室に誘い、盤を挟んで、お互いパチパチやる。しかし局面が片方は中盤、片方は不動と、メチャクチャである。
何を話すわけでもないが、駒に触れている。この気持ち、何となく分かる。
名人戦は第5局に中原名人が勝ち、防衛。毎日新聞観戦記者の加古明光氏が電話で、口頭で原稿をしゃべっているのが、これまた時代を感じさせた。
番組の最後で、中原名人と鈴木元奨励会三段の記念対局が映される。中原名人の計らいによる実現である。この場面、私は当時の新聞記事で見たことがあり、懐かしい気持ちになった。
アーカイブスは終わり、ここからは新規収録。佐藤天彦名人とつるの剛士が番組について語る。
「これは貴重な映像ですねぇ」とつるの剛士が放心していたが、その通りだと思った。
現在鈴木氏は68歳で、アマ棋界で元気に活躍中である。ここに救いがある、と言えようか。