一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

船戸女流二段と9年振りの指導対局(前編)

2020-01-15 00:07:24 | LPSA麹町サロンin DIS
8日(水)にTod氏からメールがきた。「翌9日のLPSA麹町サロンin DISの、2部の船戸陽子女流二段の回が1席空いている」という。「1部の中倉彰子女流二段は自分が申し込んでいるが、2部にどうですか」とお誘いだった。
私は「頭がだいぶハゲてきたので、もう女流棋士の前に出るのは億劫」という旨を返信した。だがTod氏は「それは関係ないでしょう」としつこい。私はああ書いたが、船戸女流二段には、私の惨状をお見せしたいという思いはある。それで熟慮の末、その日の深夜にメールで申し込んだ。もし満席になっていたら、それはそれで結構である。
翌日の午後、LPSAスタッフ氏から電話連絡があり、OK。これで船戸女流二段との久々の指導対局が決まった。

改めて船戸女流二段は、私がかつて大ファンだった女流棋士である。私が好きな女性のタイプはいろいろあるが、基本はモデル系の背の高い女性である。そこに船戸女流二段はピッタリ合致した。私の入れ込みようは尋常ではなく、時間があれば指導対局を受けにいった。当ブログでも、船戸女流二段は準レギュラーで登場させた。だが私の粘着ぶりは、彼女には迷惑だったと思う。それは承知していたが、止められなかった。
そんな中、船戸女流二段は2011年夏に電撃結婚をする。といっても「電撃」と捉えたのは私だけで、周りは何となく気付いていた節がある。知らないのは私だけだった。
私は谷底に落ち、5ちゃんねるでは大いに嘲笑された。同時期に島井咲緒里女流二段も結婚したから、私もブログも「終了」と書かれたりした。
私は大いに荒れ、ある日に植山悦行七段、大野八一雄七段、安西勝一七段らと食事に行った際は、私は3先生を前に2時間、愚痴をこぼし続けた。将棋ファンが数多いる中で、こんな贅沢な行為をしたのは私くらいであろう。
船戸女流二段に八つ当たりのメールを送ったりもしたが、ある時別の女性に諭されて、私は船戸女流二段への言及を止めた。すると不思議なもので、船戸女流二段への想いも徐々に消えて行った。
なおこの間、私は船戸女流二段からのブログ記事削除要請の可能性にビビッていた。ブログ停止の要望なら従うかもしれないが、削除には応じられないからだ。でも幸い、船戸女流二段からそうした要望はなかった。船戸女流二段に当ブログが眼中になかったのか、私に関わりたくなかったのかは分からない。ただ、私は大いに助かった。
その後は船戸女流二段が大阪在住になったのと、私自身もLPSAイベントへの出陣が激減したので、船戸女流二段と会うことはなかった。
2017年、LPSA10周年記念イベントに参加した時、久しぶりに船戸女流二段を確認したが、とくに話はしなかった。2018年、渡部愛女流王位の記念パーティーに参加した時も同様である。これはもう、船戸女流二段と交流することはないな、と思った。
それが今回、本当に突然に、船戸女流二段と盤を交えることになったのだ。これは私のショックが払拭されていたこともあるが、私が再び無職になったことも大きく、巡り合わせの皮肉を思わずにいられない。
さて当日である。2部は18時30分から。この間もTod氏からは断続的にメールが来ていて、私は適当に返信していた。とはいえTod氏は今回のキーパーソンになった。
私は別れた彼女に会うような複雑な気持ちになり、どこか落ち着かない。船戸女流二段の態度は、どう出るのだろう。だがもう考えないことにし、例によって四ッ谷駅前の小諸そばで二枚もりをたぐり、麹町に向かった。
まだ時間があったのでビルの周りをうろうろし、サロンに入ったのが18時25分である。
部屋の戸を開けると客の3人はすでにいて、もう駒が並べられていた。しかし船戸女流二段はあちらを向いていて、私に気付いていない。私の動揺が最高潮に達すると、船戸女流二段がこちらに気付き、快活な声で「あけましておめでとうございます」と言った。
面と向かっての挨拶は2011年9月1日の「サヨナラ、ワインサロン」以来、8年4ヶ月ぶりである。船戸女流二段はほかの3人の手前もあるのか、自然すぎるほどの挨拶だった。
私はモゴモゴ返し、忘れないうちに、指導料を払う。消費税が増税されて、もう麹町サロンに来ることはないと思ったが、10月以降2度目の参戦である。
船戸女流二段は私たち4人に、指し初めの有無を聞く。私は言う。
「私はおとといです。……あ違う、3日前だ。大野先生と新宿将棋センターで」
「あ、指したんですね。勝敗はどうでした?」
「角落ちで負かされました」
「そうか、大野先生、緩めませんもんね」
ふ~っ、この会話だけで私はいっぱいいっぱいである。久しぶりの船戸女流二段ということもあるが、ニート生活の蓄積で、人との会話が面倒臭くなってきている。
私は船戸女流二段のお顔をはっきりとは見ないが、たぶん9年前と変わっていないのだろう。だが私の頭は確実に変わっており、それが船戸女流二段の目に入らないはずがない。でも当然ながら、船戸女流二段はそこには言及しなかった。
「皆さん、LPSAの新年会は申し込みました? (大沢さんは)どうですか?」
「いえ私は……(結構です)」
無職には、とても参加できる状況ではない。
いよいよ対局開始である。繰り返しになるが、2011年9月1日以来の指導対局となる。あの日をもって、もう船戸女流二段との対戦成績は動かないと思った。すなわち、「(平手戦)船戸女流二段30勝・一公27勝」である。その数字がまた、動くことになったのだ。
(つづく)
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