一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

DH制に思う

2020-12-06 08:54:23 | プライベート
2日の野球記事のついでに記すが、私はDH(指名打者)制度にも反対である。DH制は、バッティングは秀逸だが守備に難がある選手を救済することと、投手の負担を軽くする画期的な制度で、日本では1975年にパ・リーグで導入された。
しかし持論では、野球は打って守って走って一人前と考える。これが野球というものである。
実際打撃だけだとリズムが狂う選手も多いらしく、張本勲(当時日本ハム)などは、自軍が守備のときは、自身はベンチで立っていたという。
プロ野球は、投手に打撃は無縁のようだが、実際はバッティングセンスのある選手は多い。高校時代は4番で投手という例もたくさんある。それがプロになると、打者か投手か、どちらかに淘汰されてしまう。大谷翔平が二刀流としてデビューしたのは、奇跡中の奇跡なのだ。
よって、投手がダメでも野手で花ひらく、という例は多い。古くは川上哲治、戦後では柴田勲、愛甲猛、金村義明などがそうである。
投手の打撃成績に目を転じれば、400勝投手の金田正一(国鉄・巨人)は37本の本塁打を記録しているし、代打ホームランなんてのもある。
巨人の堀内恒夫は通算21本の本塁打。1967年10月10日に広島戦でノーヒットノーランを達成したが、バッティングでは3打席連続本塁打という離れ業をやってのけた。また、1983年10月22日、大洋との引退試合では、最終打席に本塁打を放ったものだ。
江夏豊(当時阪神)は1971年7月17日のオールスターゲームで9連続奪三振を達成したが、同じ試合の2回に、米田哲也(阪急)から先制3ランを放ったことは知られていない(余談だがこの試合、後を次いだ4投手もパ・リーグの打者を抑え、継投ノーヒットノーランを達成している)。
1973年8月30日の中日戦では松本幸行(ゆきつら)と投げ合ったが延長11回をノーヒットノーランで投げ切り、その裏、自身のサヨナラホームランで決着した。「野球はひとりでもできる」の名言?を残したのである。
また広島に移籍した1978年の4月22日には、広島市民球場で巨人戦に登板。3回途中で外木場義郎をリリーフすると、9回まで巨人を1安打に抑えた。打っては3打席連続二塁打を放ったが、それはライト、センター、レフトと方向別に打ち分けたもので、野手顔負けの活躍だった。
桑田真澄(巨人)もバッティングセンスが良かった。2002年6月18日、横浜スタジアムでの横浜戦は延長戦になり、11回、岡島秀樹の代打として桑田が登場した。桑田はバスターを成功させヒットを放ち、以下巨人打線が2点を取って勝ち越し、見事勝利をもぎ取った。
意表の作戦が功を奏したが、当の桑田は、原辰徳監督と目が合ったので、自分に代打が来ると思っていたという。
このように、投手のバッティングには意外性があり、それだけにドラマがあるのだ。
ここで投手に打順が回ってくるが、代打を出すか、バントで送らせるか。継投の投手を何番に据えるか。そうした諸々の采配に、野球ファンは妙味を感じるのである。
だから大差がついた試合の終盤で投手が打席に立ち、ほぼ打撃放棄の形で三振をすると、こちらはシラケてしまう。
DH制がはびこってくると、今は投手だけだが、これからは野手も守備専門、というケースも出てくるかもしれない。実際昔は、大橋穣(阪急)のように、打撃はからっきしだが守備は華麗、という選手がいたのだ。
守備専門が9人、打撃専門が9人? DH制は、そこまでできてしまうということである。
今年の日本シリーズで、巨人がDH制を受け入れたことを敗因のひとつに挙げている人もいるが、DH制は原監督も望んだことだからしょうがない。
でもセ・リーグだけは、伝統の9人野球を遵守してもらいたいと思う。
コメント (4)
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