「将棋世界」3月号「イメージと読みの大局観Ⅱ」に、師弟戦についての設問があった。
7棋士の回答は省くが、将棋界で師弟戦といえば、古くは大山康晴十五世名人と有吉道夫九段の関係が浮かぶ。その対局数は69で、戦績は大山十五世名人の40勝、有吉九段の28勝+1不戦勝だった。
タイトル戦対決は4回。すなわち
1966年 第7期王位戦 大山康晴王位4○○○●○1有吉道夫八段
1968年 第9期王位戦 大山康晴王位4○○●○●○2有吉道夫八段
1969年 第28期名人戦 大山康晴名人4●○○●●○○3有吉道夫八段
1972年 第21期王将戦 大山康晴王将4●○○○●●○3有吉道夫八段
である。師匠の4勝0敗だが、徐々に有吉八段が追い上げているのが分かる。
2人は大山十五世名人最晩年の第50期A級順位戦(1991年)でも対決し、これは有吉九段が制している。余談ながらこの期に大山十五世名人はプレーオフに進出している。意味のない結果論だが、この将棋に大山十五世名人が勝っていれば、大山十五世名人の名人挑戦が決まっていた。
最近の師弟戦では、畠山鎮七段VS斎藤慎太郎王座戦があったが、それでもB級1組で、A級ではない(註:読者から間違いの指摘があり、私自身の錯覚もあったので、一部文章をこっそり訂正しています)。
つまりA級順位戦で師弟が対決した例を、私は大山VS有吉戦しか知らない。1991年当時、大山十五世名人68歳、有吉九段56歳。遠い将来、ほかのカードが実現したとしても、両者合わせて124歳は越えないだろう。改めて、大山-有吉戦は大変な組み合わせだったのだ。
ところで、師弟戦の最も早い対決は、弟子の何局目か。私が知る限りでは、米長邦雄四段の1局目である。米長永世棋聖は1963年4月1日四段。そのデビュー戦である4月9日に、第13期王将戦予選で佐瀬勇次七段と当たった。結果は佐瀬七段の勝ち。当時19歳で血気盛んな米長四段、師匠に負けることは露ほどにも考えていなかったが、プロの世界はそんなに甘くはなかった。
ここで調子が狂ったか、米長四段は以後も負け続け、気が付けば5連敗。まさかこの弱小新人が、後に名人、永世棋聖を獲る大棋士になろうとは、誰も思っていなかった。
そして次に早い師弟対決は、デビュー2局目の飯田弘之四段と思う。すなわち、VS大内延介八段戦である。
飯田七段は大学在学中の1983年3月4日、四段。得意戦法は師匠譲りの振り飛車である。デビュー戦は4月8日で、第33期王将戦一次予選で神谷広志四段に勝ち、4月27日に同2回戦で大内八段と当たった。
将棋は後手飯田四段の四間飛車に、大内八段の居飛車穴熊。序盤で飯田四段が△7四金(図)と繰り出す奇手を指したが、捻じり合いの末、大内八段が制した。

たしかこの対局の時だったと思うが、局後大内八段は飯田四段に「△7四金なんていう手は、花村(元司)先生じゃないと指しこなせないよ」と諭した。
その後飯田七段は新人王戦で準優勝するなどの活躍を見せたが、大学院でコンピューター研究に重きをおいたため、五段時の1994年に、フリークラスに転出した。
以後飯田七段は学者として研究に専念し、2014年に引退した。飯田七段の風貌は「真面目」が三次元になったごとくで、まさに棋士より学者という感じだった。これも棋士としての立派な生き方だったのだろう。
なおフリークラス制度は、飯田七段のためにできた制度だったようだ。
ところで、である。花村九段が指した「△7四金」の将棋とは、どんなものだったのだろう。
ちょっと記してみよう。
(つづく)
7棋士の回答は省くが、将棋界で師弟戦といえば、古くは大山康晴十五世名人と有吉道夫九段の関係が浮かぶ。その対局数は69で、戦績は大山十五世名人の40勝、有吉九段の28勝+1不戦勝だった。
タイトル戦対決は4回。すなわち
1966年 第7期王位戦 大山康晴王位4○○○●○1有吉道夫八段
1968年 第9期王位戦 大山康晴王位4○○●○●○2有吉道夫八段
1969年 第28期名人戦 大山康晴名人4●○○●●○○3有吉道夫八段
1972年 第21期王将戦 大山康晴王将4●○○○●●○3有吉道夫八段
である。師匠の4勝0敗だが、徐々に有吉八段が追い上げているのが分かる。
2人は大山十五世名人最晩年の第50期A級順位戦(1991年)でも対決し、これは有吉九段が制している。余談ながらこの期に大山十五世名人はプレーオフに進出している。意味のない結果論だが、この将棋に大山十五世名人が勝っていれば、大山十五世名人の名人挑戦が決まっていた。
最近の師弟戦では、畠山鎮七段VS斎藤慎太郎王座戦があったが、それでもB級1組で、A級ではない(註:読者から間違いの指摘があり、私自身の錯覚もあったので、一部文章をこっそり訂正しています)。
つまりA級順位戦で師弟が対決した例を、私は大山VS有吉戦しか知らない。1991年当時、大山十五世名人68歳、有吉九段56歳。遠い将来、ほかのカードが実現したとしても、両者合わせて124歳は越えないだろう。改めて、大山-有吉戦は大変な組み合わせだったのだ。
ところで、師弟戦の最も早い対決は、弟子の何局目か。私が知る限りでは、米長邦雄四段の1局目である。米長永世棋聖は1963年4月1日四段。そのデビュー戦である4月9日に、第13期王将戦予選で佐瀬勇次七段と当たった。結果は佐瀬七段の勝ち。当時19歳で血気盛んな米長四段、師匠に負けることは露ほどにも考えていなかったが、プロの世界はそんなに甘くはなかった。
ここで調子が狂ったか、米長四段は以後も負け続け、気が付けば5連敗。まさかこの弱小新人が、後に名人、永世棋聖を獲る大棋士になろうとは、誰も思っていなかった。
そして次に早い師弟対決は、デビュー2局目の飯田弘之四段と思う。すなわち、VS大内延介八段戦である。
飯田七段は大学在学中の1983年3月4日、四段。得意戦法は師匠譲りの振り飛車である。デビュー戦は4月8日で、第33期王将戦一次予選で神谷広志四段に勝ち、4月27日に同2回戦で大内八段と当たった。
将棋は後手飯田四段の四間飛車に、大内八段の居飛車穴熊。序盤で飯田四段が△7四金(図)と繰り出す奇手を指したが、捻じり合いの末、大内八段が制した。

たしかこの対局の時だったと思うが、局後大内八段は飯田四段に「△7四金なんていう手は、花村(元司)先生じゃないと指しこなせないよ」と諭した。
その後飯田七段は新人王戦で準優勝するなどの活躍を見せたが、大学院でコンピューター研究に重きをおいたため、五段時の1994年に、フリークラスに転出した。
以後飯田七段は学者として研究に専念し、2014年に引退した。飯田七段の風貌は「真面目」が三次元になったごとくで、まさに棋士より学者という感じだった。これも棋士としての立派な生き方だったのだろう。
なおフリークラス制度は、飯田七段のためにできた制度だったようだ。
ところで、である。花村九段が指した「△7四金」の将棋とは、どんなものだったのだろう。
ちょっと記してみよう。
(つづく)