神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

父の再介護一日目はクタクタ

2017年09月05日 18時48分40秒 | 老人介護

夜は寒いのに日中は蒸し暑い、なかなか過ごしづらい季節である

 

退院の一日前、今後の食事のあり方を伝えられた

材料をほぼ「みじん切り」にして、全てとろみをつけるようにとのこと

お茶から、味噌汁まで、すべてとろみのあんかけだ

これが簡単そうで、意外に面倒

組み合わせは、おかず2品+おかゆとろみ+とろみ味噌汁+デザート

今日からまた朝昼晩、3回ヘルパーがやってくる、そのヘルパーさん一人一人に

以前と変わった食事法を伝えるため、朝昼晩、店と父宅とを往復

しかも3食作らなくてはいけない

今日は「ワカメのスープ」「肉炒め」「カニ風味」「さつま揚げの甘煮」「南瓜のとろみ」

「小松菜のゴマ油炒め」「椎茸味噌汁」「えのき味噌汁」などなど

そして「おかゆ」は生米から炊いて昆布醤油で味付け、ミキサーでのり状に

それでも8割方食べてくれたから、入院前の「作っては捨て」から思えばありがたい

デザートのフルーツはまず食べないので、今日はヨーグルトとバナナをミキサー

(テレビ通販の「マジックなんとやら」)で混ぜたら、」これがバカ受け完食となった

それにしても他の老人の夕食造りやらもあり、慌ただしい一日で疲れた

考えてみたら、自分の食事をほとんどとっていない

10時半にトースト2枚とレタスと生ハム、豚肉のソティ

15時にご飯一杯と魚の唐揚げ、それしか口に入れていない

なんだか夜も食べる気分にならず、きっと袋ラーメンを煮て食べるくらいで終わりそう

明日は一日ドライブ、信州へでも行こうと思うが、明日から天気は雨模様

はてどうなるのか?

 

 


父の退院

2017年09月02日 17時16分29秒 | 老人介護

母の死と、父の入院が一緒になって、どこから手をつけていいのか迷走の日々

しかし肺炎の肺のもやもやが鎮まり、父の退院が4日に決まった、これで物事が少し前進しそうだ

高齢とはいえ父のワンマンは少しも治らない、だから大概のことは私が決めるが

最終的には父の承認が必要なのだ

三つ子の魂百までというが、まさに父はそれに当てはまる

三歳の時点で両親と別れて、慶応生まれの(父に言わせればヤクザ者の国定忠治)義祖父に

睨まれ、殴られて養った反骨精神は、93年の人生の背骨になっている。

母の納骨が1ヶ月後に近づいて、お墓を建てるのか、共同墓地でいいのかまずそこから決めて

行かなければならないし、他にも決めることは多い。

昨日は病院に行って、担当の若い女医と退院の話をした後、病室に行って父の今後の食事を

看護師と話し合った。

これからは誤嚥が一番怖いので、何もかも「あんかけ」の食事になる

昨日の病院の献立は「あんかけおかゆ+あんかけ豆腐+あんかけスープ+薬を混ぜて飲む

あんかけ茶+細かく切った桃)だったが、桃以外は完食、家にいるときより食欲が良い

退院後は私の仕事になる、父の食事造りの人生も悪くないか・・・・

父も家に帰ればまたヘルパー女史に囲まれた王様の生活に戻れる

「退院が決まったよ」と言ったときニコニコとした、気持ちはわかるよ、やっぱり家が

最高だよね。

 

 

 


母の容体が・・・・電話

2017年08月15日 08時03分20秒 | 老人介護

昨日は妹と隣町の母が入っている施設へ行ってきた

認知の老人が数十人暮らすこの施設では、様々な程度の人たちが居て

程度の軽い人は、明るく広い談話室でお茶を飲みながら語り合い

けれど母の様に、呼びかけても反応がほとんど無い老人は病室で点滴を受けている

昨日行ったのは、母の酸素濃度が70以下に下がったという連絡が入ったからだった

電話では酸素吸入を始めたら安定したと言うものだったが、それでも「はいそうですか」と

それで済ますわけにも行かず、二人で行ったのだ

地元病院への転院を16日に控えての出来事

盆は私の商売にとって忙しい日ではあるが、母と取り替えるわけには行かない

国道は思ったより空いていて、60kmですいすいと行くことが出来た

この数日は曇ったり、雨が降ったりで海水浴も寒くてイマイチの人出だった

猛暑猛暑といいながら、日照時間が少ないという傾向もあるとか、不思議な今年の夏だ

介護タクシーで転院の予定だったが、酸素吸入の必要も出てきて、救急車の要請も五分五分に

なってきた

むくんだ足と、骨と皮だけになった下肢、顔だけがつやつやと、そして酸素のおかげか楽そうな顔

呼びかけても答えず、口だけが何かを語り続けている、夢の世界に住んでいるのだろうか

もう兄妹は悲しいとか、刹那いとかの領域は超えてしまった

定められた運命を、いかに安らかに受け入れるか、今はそれしか感情は無い

 

 

 


枯乳垂乳の母戻る

2017年08月04日 08時05分44秒 | 老人介護

母が隣町の病院に転院して3ヶ月が過ぎた

なかなか会いに行くことも出来ず、最後の手段として家に連れてこようかとも思ったが

点滴以外で栄養がとれない状態では、とても私たち介護素人の手に負えるものではない

仕方なく現状に甘えて痛けれど、それでも病院のケアマネさんに相談してみたら

とんとん拍子で地元の病院への転院が決まった

こんな地方では、医者同士のコンタクトでないとなかなか、こういう面倒な事はうまくいかない

若いケアマネさんだったが、素早く動いてくれて相談してから10日足らずで成功した・・・感謝感謝

盆明けの16日に妹と介護タクシーで迎えに行く

だけど喜んでばかりもいられない、ほとんど栄養摂取が出来ない状況で会いに行っても点滴の

薬のせいなのか目はほとんど開けないし、呼びかけにも答えない

ただ、体に触られることはとても不快な様で、車いすに移すときだけ、驚く様な大声を出す

芯は、まだ元気なのかもしれない、もしかしたら奇跡の回復で自分の口から液体くらいは飲めるのでは

と淡い期待を持つが医者は誤飲が怖いという。

いずれにしても、地元に来れば心待ちしている父との面会も叶う

93歳と92歳、70年近く連れ添った夫婦だ、通じるものは当然あるだろう


高齢化の共同墓地の会

2017年07月31日 08時41分39秒 | 老人介護

今日が父の93歳の誕生日、私の家系ではこれまで87歳の実祖父が最長だったが

遥かに更新を続けている。

昨日の朝は共同墓地の草むしりと、廟の洗浄をしたことは昨日書いた

初参加の時、6時からというので6時に行ったら、もう自分が草むしりする場所が無いくらい

人がいて、恥ずかしい思いをした。

さすが農業地域だけあるとおもったものだ。

あれから5時半に行く様にしているが、昨日は4番目だった

だんだん参加者が歳をとっていく、今日も30人ほど集まったが驚くことに67歳の私が二番目に若い

若い者がいないのでは無く、若い者は年寄りの仕事だと割り切っている様だ

それにしても80歳を超えるおばあちゃんたちも多く、だけど畑仕事や米作りで鍛えられた体は

かくしゃくとしている。 中には膝が痛いので洗面器に腰掛けて作業しているひともいる

私は30年前まで、この地域で魚屋をやっていたので当時40代50代だった馴染みのおばちゃんも多く

「おや!**のあんちゃだ!久しぶりだねえ」と懐かしがってくれる

70近くなって「あんちゃん」では照れくさいが、みんな30年前に戻った気分でいるから、それも良い

この会の会長は私より2歳年上だが病気入院で欠席、創設功労者の前会長(元高校教師)も体調不良

会計さんも弱々しくか細い声で「今回限りで退任させてほしい」

たしかに高齢者ばかりの会だ、役員交代以前にメンバーの世代交代が必要だ

次期会長候補に先般の選挙で初当選した市議の名前が挙がっている、柔道5段以上の猛者

私の幼なじみ70歳、ちょっとは元気印でてくるか?

 

 


父の健康状態で 慌ただしい今日

2017年06月27日 17時00分26秒 | 老人介護

昨日から父は37度38度の熱が出て、夜になってようやく熱がひいた

今朝5時半に起きて、まず父の部屋に様子を見に行ったら(いない!)

トイレ、別の部屋、台所、廊下、風呂場どこにもいない

以前一度だけ、夜中に外に出たことがあるので、もしやと思って玄関も見た

しかし鍵はかかっているし、靴もある

?????どこに消えたのか  不安になった

仏壇の灯明があかっていた 何気に父の部屋に足を踏み入れたら

ちょうどふすまと押し入れの角地に倒れていた

目を開けていて「転んだ」と言った  驚いて「どうしたん?」と聞いた

「何かをとりに来たんだ」と言った

もう自力では起き上がる力が無いので、抱きかかえて起こした

「トイレに行く」というので杖を持たせて体を支えて歩く、足がほとんど進まない

ベッドに戻るまで10分、近くて遠いトイレ

昨日も「医者へ行こうか」と聞いても「行かん」と拒否  水を飲ませようとしても一口

口は渇いて、頬は紅潮して痛々しいのに強情を張ってひとつも言うことを聞かない

今朝はベッドに入って頭に冷えタオルをのせたけど、これも嫌がってすぐにとってしまう

それでも熱も36.6度まで下がり楽になったのか、じきに寝た 倅もまだ寝ているが

家にいるので、その間に魚市場へ仕入に行き、それから店で事務仕事をして

ヘルパーさnが帰った頃合いを見て家に戻った、ベッドで目をくりくりしていたので

「今日は医者へ行こう」と言ったら、相変わらず「楽になったからいい」と拒否

ヘルパさんーの日記を見たら、(転んで背中や腕が痛いというので見たら赤くなっていた)

と書いてあった、息子には一言も言わないでヘルパーさんには甘えて何でも話す

最近は朝の6時から「今日はヘルパーさんがまだ来ない」と待ちくたびれている

「8時からだよ、まだ6時だから」と言うと

いつもは「そうか、最近は時間と昼夜がわからんで困る」と言うのに

今日は「おまえはオレをバカにしているのか!」と怒った

これだけしっかりしてたら一応安心。


認知症が身近になってきた

2017年06月17日 08時28分04秒 | 老人介護

どうした加減か昨日から曜日感覚が一日ずれていた

今朝、魚市場へ行って仲間との会話の中で今日が土曜日だって知った

自分の頭の中では今日が金曜、明日が土曜だった

だから銀行関係は今日済ませば良いと思っていたが、たいしたことで無いが失敗してしまった

だが今なお、今日が17日なんだろうかという疑念が少しある

こうした日にちと曜日のズレがおこるのは喜ばしい状態では無い

 

3日ほど前に、市の広報があって77歳の男性が行方不明とのこと、詳しく聞いたら

不明男性は、「ゴルフ」カテゴリーの4月18日に書いたプライベートコンペ(11名)の

冠になっている大先輩だった。

数年前から認知症が入ってきているが外すことができない大御所、現役時代は

いくつかの会社の会長を兼務していた才人だ

こうした立派な人でも認知症から逃れることができない、そういえば私と関係が深い寿司屋の親父も

若年性の認知症で施設療養中、まだ60過ぎたばかりだ、苦労人で一代で財をなした男

できる人ほど認知になりやすいとか、父はそう言って「おまえはそういう意味で心配ない」と言った

同級生の女子は毎年一緒に旅行に行っていたのだけど、何回目からか少し様子がおかしくなって

その後治療に入ったという話を聞いた、それから急激に悪化して同級生のこともわからなくなった

50代だった、これも若年性アルツハイマーで韓国映画のソンイェジン主演の「私の頭の中の消しゴム」

と同じ症状だ。

私は忘れっぽいのか、アルツハイマー系なのか、この頃は自分の健康状態に少しずつ???がつきだした

60過ぎるとがったり来るよとか70過ぎると急激に衰えるよなどと先輩から聞いてきたが、たしかに

体は気持ちに比例していない様だ

 


老いた母に大問題発生

2017年06月14日 08時33分47秒 | 老人介護

1ヶ月ぶりに病院にいる母のところに行ってきた

というよりか、担当医師とこれからの対処を話し合うためなのだ

もう母の認知は限界を超えて食事がほとんどとれず、介護施設では無理になって病院生活

になったのだが、田舎の我が町ではそんな対処できる病院が無く、50km先の町にいる

医師との話が終わり、母の病室に行った、6人部屋で母は寝ていた

あきらかに30kgを切った体はやせ衰えて、手は骨と皮とわずかな筋肉

手をさすっていたが皮膚が弱くなっている、それで頭をそっとなで続けた

いっこうに母の目は開かない、だけど頭がだんだん起き上がってくる

ほとんど垂直になったところで、これはきついんじゃないかと思って手を離した

 

こうして衰えた垂乳根の母の姿

不思議にも元気で仕事をしていた母の姿の後は、老いた母の姿に直結していて中間が無い

中間が私の記憶から消えている

きっと障碍と一緒に生まれてきた息子に追われていた20年間、その間の母の姿が消えている

父とは別々の会社で働いていても、つかず離れずだったからその間の姿はある

 

母の一番の問題点は自力で飲食ができなくなったことだ

今は毎日点滴で栄養と水分をとっている、やせ衰えた腕には点滴のあざがいくつもある

それでも医者が言うには、「一日おにぎり2ヶ分の栄養しか獲れないのです」

それで、生きるために必要な栄養をとるには胃瘻の手術をするか、鼻から胃に管を通して

栄養を送り込むの2つの方法・・・だそうだ

どうせなら家に連れて帰ろうかかとも思っていた、自分がおかゆを煮てゆっくり食べさせれば

良いと思った、そのための部屋も準備した

だが現実を見たら、それは無理だった、自分で飲み込む力、咬む力が無い

無理をすれば誤飲で肺炎を引き起こす恐れ、素人が出来ることではない

 

母が望むのはなんなのだろうか?  何も語らない今 会話が成立しない今

長男である自分が判断するしか無い

誰しも「生きたい」のであって「逝きたい」と思うのは少数だろう

だが動けず、何一つ楽しみが無い寝ているだけの母はどちらを望むのか

「逝きたい」という差し迫った姿や表情は見えない、夢の中に楽しさを見ているかもしれない

だが生きるためには、苦しい手術が待っている、やせ衰えた92歳の体が絶えられるか

手術後の生活にも耐えられるか

こんなところまで来て、母を痛めつけることはできない

近年は子供に帰り、過敏症で採血のゴムを巻いただけでパニックになって泣きわめく母

母にはいつも安らぎの中で生きていてほしい

 

 

 


高齢化社会

2017年03月24日 08時58分05秒 | 老人介護

「忘れ去られた町」という実感は朝の市場に行ってみるとよくわかる

この一週間は天候も悪いこともあるが市場への魚の入荷はほとんどゼロ

「やる気があるのか」と問いたくもなるし、過去に何回も問うたことがあるが同じだ

発注した魚だけが届く市場、セリを期待して行く魚屋が多いのでこの一週間は

まったくの空振りだ

地元では遠いところでは20km位先から毎朝やってくるし、40km」先の長野県から

仕入に来る業者もいる

もっとも市場だけが悪いわけでは無い、購買力が無くなった小売業者にも責任はある

市場だってたくさん仕入れて残ったり、セリで利益が上がる値が出なければ大損だ

 

今日も魚がゼロで、買参人の控え室だけが賑やかだった、人数はそれでも10数人しかいない

セリがあっても20人くらいが参加するだけの小さな市場になってしまった

控え室のメンバーの顔を見ながら、同い年の魚屋と話した

「オレたちも上から何番目の歳になってしまったなあ」と彼は言う

昔はスーパーの食品部門長で、活発に億単位の販売をしていた男だ、独立して30年になる

私は買参人の一覧を見ながら数えてみる、約40名の登録だ

「14番目だな、あんたは15番目、まだまだ上があるから安心していいよ」

66歳にしてまだ上位から40%の位置だからいかに高齢化しているかわかる

66歳なんて一般社会ではもうリタイヤしている、だがオレたちのこの社会ではまだ成熟期なのだ

今この控え室のメンバーを見ても、一番若いのは30代前半だが、その上は46歳、48歳、あとは

60前がいない、一番若いのが還暦の60歳になったばかりで、今入ってきた一番の元気者は

70歳、「何の話しをしてるんだね」と聞いてきた女性は組合最長老84歳、隣の女性も75歳

目の前でタバコをぷかぷか吸いながらインスタントコーヒーを飲んでいる男性はこの中では男子最長老の

75歳、あとは全て65歳前後だ、みんな現役の魚屋や居酒屋、飲食店

平均年齢もこのまま行けば数年後には70歳到達だ

60歳でも「わかいもん」と呼ばれる田舎の高齢化社会

偶然、富山県の射水市のHPを見たら、人口ピラミッドが我が町とは随分違う

「高足駒型」60~70歳が異常に膨らんでいる我が町に比べて、射水市は50代付近が中心で若い世代に向かっても

緩やかに膨らんでいる

考えてみたらこの町は富山市のベッドタウンなのだ、大学病院があり、付近には国立をはじめ大学もいくつかある

学生やそれに対応する産業も多いからだ、外国人率も2%の約2000人住んでいる

この近くには富山空港がある、中国大連への直行便がある数少ない空港だ、だから富山県は全国でも中国人在住率が

高い県だ。

こんな射水市を見たら、我が町はどうなんだろう、そういえばシニアが住みたい町のランキングで上位にランクされていた

たしかに老人には住みやすい町かもしれない、もっとも病院設備では問題にならないほど病院と医師不足の町だから

「健康な老人には住みやすい町」と付け加えなければならない。

 

 

 

 

 

 


高齢者の孤独を考える

2017年02月20日 08時35分33秒 | 老人介護

私のデスクにはパソコン2台とフォトフレームが2つ

フォトフレームの一つの写真は、私が修行した新潟の店の前で、24歳頃の私と同期生2人

そして社長夫婦の5人の写真。

社長夫妻はもう亡くなり、われわれ同期の一番若い男前も50歳で他界した、もう一人の

同期、私の兄弟分も2度卒中で倒れて、今は会話も聞き取りづらくなっている

もう一枚の写真は去年の2月に、この店で新年会をしたときに撮った写真、65歳の私と

去年の12月に急逝したねえちゃん(この店の女将)と、20代の時、少し人生のタイミングがずれていたら

もしかして・・・・・になったかもしれない後輩の彼女の3人が写っている。

ねえちゃんと社長夫妻は親子で、だけどねえちゃんは、もう一つの写真の社長夫妻よりも写真の中では

年上なんだ。

ねえちゃんは72歳の時の写真(50代にしか見えないが)、母親の社長の奥さんは60歳頃の写真

子の方が年上という写真のマジック、でも見比べるとやっぱり親子だよく似ている

社長夫妻はこの時、去年の私より年下なのだ、不思議な気がする

それに二つの写真の7人のうち既に4人が亡くなっているというのも不思議な気分で、人の人生の

はかなさ短さを感じずにはいられない

友達や先輩が一人亡くなる度に、私の人生を語ってくれる人が一人減ってしまうと言うことになる

老いて生きる寂しさは、まさにそこで、友が知り合いが減っていくのは、自分の記憶が消えていくのと

同じ、自分の存在が忘れ去られていく、あの日の思い出を語り合う人がいなくなる

それは老人ばかりでなく、私だってこの頃は少しずつそんな気持ちになっているのだ

例えば、修行した新潟の店での20代の出来事を語ろうにも同期5人の内2人が死んでしまい

私たちに仕事を直接仕込んでくれた専務も60歳で亡くなり、その奥さんも亡くなり

私の相棒(卒中で倒れた)の奥さんも40歳という若さでずっと昔に亡くなった

だから、ねえちゃんが最後の砦だったのに、そのねえちゃんも昨年逝ってしまうし、もう私の第二の家

だと思っていたこの店で、私を歓迎してくれる人はいなくなってしまった。

思いおこせば、私もここで修行しているときに先輩が来ると嫌な気持ちになったものだ、今もこの店では

20代が何人も働いているが、名前も顔も知らないし、会ったことも無い、先輩後輩と言ってもまったく

他人だ、今の幹部連中も両者を取り持とうという気持ちが全然無いのでかってあった「OB会」も消滅した

この店で学んだ事は誇りだったけれど、その店が無くなってしまった気分だ、寂しくて仕方ない

これで相棒がもう一度倒れてしまったら、まったく拠り所が無くなってしまう、それは私の人生の一画が

崩れ去った事になる。

新潟市は好きだ、だけど行き場所がない、観光客として訪れるだけの町になってしまう

20代の思い出ががっさりと抜け落ちる、語る相手がいないから

こうやってどんどん孤独になっていくのかな?  だからどんどん新しい仲間を増やしていかなけりゃ

終わった思い出に泣くんじゃ無くて、新しい思い出つくりに励まなきゃ

そう思ったら少し元気が出てきた、「めんこい弟子」とも再会して飲まなきゃね、20歳になったら二人で

飲もうって言ってたんだ

昨日、「めんこい弟子」のおじいちゃんとも一緒に飲んだので、言付けをお願いしておいた

だけど伝わるんだろうか? 「めんこい弟子」の父親に頼んだ方が良さそうだ

こうして新しい事を考えると胸がわくわくしてくる、いつまでも楽しいことを追いかけていこう。