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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(228) 甲越 川中島血戦 55

2024年10月20日 19時30分08秒 | 甲越軍記
 武田晴信入道の嫡子太郎殿は、去る天文七年に誕生した
信玄は太郎を愛し、すでに十五歳となった天文二十二年に元服した。
信玄公は使者を京都に登らせて、今出川右大臣晴季公を頼み、足利将軍義輝公に申し賜い入るに「信玄いやしくも、故萬松院義晴公より御諱の一字を賜り晴信と名乗り候、今、太郎にも御諱の一字を賜れば、信玄の望みはこれに過ぎること無し」と申し上げれば、義輝公の御許容あって義の一字を賜り、武田太郎義信と号し賜うる。

信玄はこれを大いに喜び、我は義晴公の下の字の晴を賜ったが、太郎は義輝公の上の一字を賜り、我に勝る果報者であると絶賛した。

天文二十二年四月陣触れがあり、義信の初陣の準備がなされた
吉日良辰を選ばれて旗屋にて儀式が執り行われた
飫冨兵部少輔虎昌、鎧を着せて参らせる、信玄は喜び「虎昌の武略あやかれば天晴、武勇の名将となるであろう」として飫冨虎昌、小幡入道、原美濃守、山本勘助入道の四人を側近くに呼ばれて、信玄自ら杓をとり、義信が盃を下した
ほかにも馬場民部少輔、内藤修理正、飫冨三郎兵衛、春日弾正以下の功臣が列座しておのおの盃を賜った
信玄が忠臣を愛し、武徳を尊ぶことみなみな感じたのである。

信濃の国、深志の城主、小笠原家は元は武田家と兄弟であった逸見冠者義清の子孫である
武田は嫡流であるが数代を甲州の辺鄙で過ごした、小笠原は庶流であるが源家と交流を続け、鎌倉右大臣源頼朝卿の頃以来、代々武名を天下に知らしめて、弓術師範であった
その後も、足利尊氏卿、義満公の代でもつねに近くにあって武名を高め、代々尊敬を得ていたのである
信濃守清宗の時、信玄の祖祖父武田信昌に縁結して好浅からずであったが、信玄、長時の代に至って骨肉相争うの様相となったのである。

越後の上杉謙信は、武田信玄に追われて越後に逃げた村上義清を助け、旧領復帰を助けて、深志の小笠原とも手を組み、武田と川中島にて年に一度の割で戦を行ったが、武田の勢いは強大となって信州に根を張る
その頃、北條に上野国を追われた上杉憲政公も、謙信を頼り、その姓と関東管領職を譲り、北條征伐を委任した。

謙信は大いに喜び、管領には武田も北條も従ってしかりと言えども、北條は一向に従うさまを見せず、謙信は上野の諸将を先手に三月より越山して関東に攻め込んだ。

信玄はこれを見て、今こそ小笠原を討ち滅ぼす時なりと信州桔梗が原に打ち出た。






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