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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 93 北の庄城落城

2022年12月14日 17時49分38秒 | 貧乏太閤記
 秀吉と利家らはしばしの時を過ごした、その夜、秀吉は城下の寺で一泊した
翌朝には前田利家が兵を率いて秀吉の陣に加わり、先陣として進んだ
それは秀吉の旗下に身を置いたことを諸将に示したのである。
これより前田利家は友として、最も重い重臣として内外に睨みを利かせて、生涯秀吉を支えたのである。

 4月22日に秀吉の本隊が北の庄に着くと、先発隊は十重二十重に城を囲んでいた
時折、城から鉄砲を撃ちかけてくるだけで大手門を締め切ったまま、打ち出る気配はないという、城内の兵の数はおよそ1000ほどしかいないという
しかし逃げ出した者が多数の中で、主君と死を共にしようと言う忠義の者ばかりであるから結束も固い
佐久間十蔵は15歳であった、しかも前田利家の婿だったので、皆が「前田家に戻って生きながらえよ」と言ったが、「不忠者の利家を義父などとするのも汚らわしい、大恩を受けた勝家様と死ぬのなら何の悔いもない」と言って戦い、見事な最後を迎えたのだ、そんな忠義の者ばかりが籠っている。

秀吉はすぐに文を書かせ、城中の柴田勝家に届けさせた
「今さら降参を勧めても誇り高き修理殿は(柴田勝家)屈辱を受けることは潔しとはすまい、こうなれば正々堂々、織田家の宿老同士最後の一戦をいたそうではないか。 しかし城中にある奥方様(市)と三人のお子はお屋形様の大切な御身内である、それは儂と修理殿が敵対しようと関係ないことである。
小谷城同様、儂は市様と姫たちをお救いして、織田家にお返しいたす所存である、どうぞ大戦になる前に無事に城外へお出でいただくよう、修理殿にお願いいたすもの也」               羽柴筑前

 その日の日暮れ時、勝家から返書が届いた
「お気遣いまことにありがたきことである、互いにお屋形様に仕えてきたが、このような仕儀になることはまこともって残念至極である
だが双方の考えに大きな隔たりがある以上は仕方ないことである、また前田又左衛門が、そなたになびいたことも儂は少しも恨みに思わぬ、もともとそなたたちは竹馬の友であった、又左衛門も双方の間でさぞ苦しんだであろう
わが方が少数と言え、戦は終わるまでは勝敗はわからないものである、桶狭間戦同様に、そなたの首がわが槍先にぶら下がるやもしれぬ、覚悟して来られよ
ただ狭き城内で、女どもが流れ矢玉に当たるのも哀れであるから、明日の昼には城外に出してそちらに引き渡す故、安全を保証してほしい
今宵は戦支度をするゆえ、互いに兵を収め今夜は静かに過ごそうではないか
そして女どもを出した後に思う存分戦って雌雄を決しようぞ」 
                         柴田修理亮勝家

 文を読んだ秀吉は直ちに酒樽と肴を山のようにして、荷車に乗せて城内に届けさせた、小谷城で浅井長政に自ら送ったあの時同様に
「城方の皆々様には今宵は大いに飲み、食べていただき、力を蓄えて明日の一戦に備えていただきたくお送りするものなり、天地神明ならびにお屋形様にかけて毒などは仕込んでありませぬことをお誓い申す、勝ち負けは戦にてつけもそう」
 その夜、城内からは手拍子と歌声が秀吉の陣中まで聞こえて来た
翌日の昼前には市の三姉妹がほかの女子衆、織田家から付けられた武士や下男と共に出てきたが、市の姿はなかった。
しかし秀吉あてに市からの文がつづられてあった
「筑前どの 此度は夫、修理亮とあなた様が戦になられて心を痛めております
されど武家の習いであればしかたのないこととあきらめます
私は二度、夫を戦場で失うことになるやもしれませぬ、もはや三度目はあってはならぬと勝家さまと運命を共にすることにいたします
小谷城ではわが子、万福丸を兄に内緒で命がけでお救いいただいたこと私は死んでも忘れませぬ、一度だけ寺を訪ねてそっと見てまいりましたが元気に修行に励んでおりました
筑前どのにお願いいたします、万福丸は先の将軍様のようにお家再興などを願って還俗することが無いよう目を離さないでいてください
生涯、浅井家と織田家と私たちの菩提を弔っていただきたいと思います
また三人の娘は、兄の三十郎(織田信包)か、弟の長益(織田長益)に養っていただきたいと思うので、よろしくお願いいたします ご恩に思います   いち 」
これを読んでいた秀吉は涙がこぼれて止まらなくなった、鼻水も糸を引き、顔をくしゃくしゃにして声を出して泣いた、三成は驚いて駆け寄り
「いかがなされましたか」
「なんでもない、なんでもない、気にするな」と言いながらすすり泣いている
そして落ち着くと、文に火をつけて焼いた。
 
 24日の午後から一斉に羽柴軍は城に攻めかかった、柴田勢も防戦するが2万と1000では勝負は最初から見えている
大手門を破られ、二の丸も羽柴軍で溢れた、城内に兵が突入を始めた時、天守で爆発音とともに火の手が上がった
もはや最後と勝家が合掌する市の背後から胸を槍で突き刺し、自分も腹を切ると家来に積み重ねた火薬に点火させたのであった、勝家らしい華々しい最後であった。
 市も共に燃え盛る城中で消えた、半年前に勝家に嫁いだばかりであったのに兄や甥の戦略の道具として翻弄され哀れと言えば、あまりにも哀れな生涯であった

 辞世句
      さらぬだにうちぬる程もなつの夜の
              わかれをさそふほとゝぎすかな

 こうして織田家でライバルであった宿老の一人、柴田勝家は滅んだ、明智光秀も滅んだ
一足早く佐久間信盛も信長に追い出されて死んでしまったし、丹羽長秀はすでに秀吉に臣従している、残るは伊勢で抵抗を続ける滝川一益のみとなった。

 秀吉は府中城に戻り論功行賞を行った
佐久間勢に横槍を入れて賤ケ岳の勝利に貢献大であった丹羽長秀には若狭10万石に加え越前50万石と加賀で25万石、近江の磯野員昌の旧領20万石を加増して105万石の大身になった
約束どうり戦場離脱で羽柴軍に寄与した前田利家には能登20万石安堵に加え越中で15万石と加賀のうちに2郡を加増45万石となる
敵であった柴田の与力、佐々成政には罪を問わず、越中半石20万石を与えた
弟の羽柴秀長には播磨36万石と美作20万石を任せ、養子の秀勝は但馬10万石と光秀の領地だった丹波26万石を加増した
そのほか戦死した中川清秀の息子には本領のほか5万石を与えた、堀秀政、高山右近、蜂須賀家正、正勝、桑山重治らにも加増した
細川幽斎(藤孝)、忠興親子には丹後11万石を安堵した
秀吉自身は近江の大部分60万石、山城23万石、河内25万石を直轄地とし約110万石、一族併せて200万石を得たのである。 
一族と言えば、木下、浅野にも万石を与えて大名に取り立てた
そして七本槍の親衛隊も禄を得た、一番槍の加藤清正には3000石、柴田方の豪勇の士として名高い拝郷という武士を討ち取った福島正則には5000石
加藤義明も3000石など全員が1000石どり以上になった
そして捕虜の目録も見て驚いた、「すぐに連れてまいれ」と命じた
縛られて連れてこられた若者は雑兵の形ではあるが、素性の良さが伺われる顔立ちは、まぎれもなく本能寺の変の時に明智に味方して、秀吉の長浜城を攻撃した京極高次(きょうごく)に間違いなかった。
「高次であるか」秀吉が鋭く問うと、高次は小さな声で「いかにも」と答えた
が、あきらかに怯えている
「首を刎ねて、見せしめとせよ」冷酷に秀吉が言うと、ヘナヘナと崩れ落ちた
高次は何かをわめきながら再び引き立てられていったが秀吉は考え直して
「首を刎ねるのは後日でよい、今日は牢に入れておけ」




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