摂津を任せてあった大物、荒木村重が突如として毛利方に寝返った、これは三木城の別所、本願寺に触発されたものと思われた
信長に殺されると思い込みパニックになった疑いもある、いずれにしろ摂津一の大名の寝返りは大きな痛手である
織田の領内に本願寺、荒木、別所と言う敵の飛び地ができたのである、まかり間違えば秀吉たちは挟み撃ちにあう。
すぐに織田信忠が3万の軍を率いて、村重が籠る有岡城を取り囲んだ
これに勢いを得た毛利は三度、本願寺と別所への兵糧運び入れを企てて水軍を
発進させた、しかしまたしても九鬼の鉄甲船に阻まれて多くが海の藻屑と消え去って失敗に終わった、京でこれを聞いた信長は安心して安土に戻った。
黒田官兵衛が秀吉に言った 「拙者は荒木殿とはじっこんの間柄であった、何としても説得するので攻撃はしばし猶予くだされ」
そして白旗を上げて単身有岡城に入っていった、それっきり1か月2か月たっても城から戻らなかった
信長はこれを聞いて、「官兵衛の息子を切ってしまえ」と短気を起こした、官兵衛が寝返ったと断言したのだ
だが官兵衛を信じる秀吉は、官兵衛の嫡男を竹中半兵衛に任せて山中の寺に預けて知らぬ顔を決め込んだ、もちろん小谷城攻めで万福丸を助けたと同じ手を使ったのだ
これで秀吉は二度信長を欺いた、そして二人の子供の命を救った
秀吉に助けられた黒田官兵衛の息子松壽丸(しょうじゅまる)は後に、「黒田節」で名高い筑前(福岡)52万石の太守、黒田長政となる。
年が明けて天正7年(1579)になった
信長は京での正月を今までにないほど、ゆったりと過ごしていた
これだけの戦を信長の命令でやっていながら、信長自身は取りついていたものが消えたかのように気楽な気分を感じている
「くだらぬ、くだらぬ、どいつもこいつもセコセコと目の前の戦に熱中しておる、わしは飽いてしまった、このような狭い島国に閉じこもっていることが」
そう言いながらも、のんびりと過ごしている
周りの戦はすべて信忠と家臣団に任せて、自ら先頭にたって指揮を執ることはなくなった、茶でもたてて能を見たり、時には相撲興行を楽しんだりして過ごしている。
しばらくはスペイン商人が信長に献上した真っ黒な人間に興味を示してもいたが、それにも飽きた、気持ちはこの島国を飛び出していた。
ユーロペ(ヨーロッパ)を知れば知るほど、この国の権威主義や、古臭い政治機構、しきたり、武家の愚かさが鼻に付く
柴田勝家、佐久間信盛の二人の宿老も年老いた、佐久間の動きの鈍さがこの頃は目に余る、三方ヶ原の戦で、家康の援軍に出した時も、ろくに戦わず逃げ帰った、本願寺攻めの総大将にしてやっても呑気に過ごすだけで、糸口さえ見つけられない
こうした老人と、スペイン人ロドリゲスを比べると、考えただけで腹が立ってくる、「口だけ達者な、老害の無駄飯食いめ」
一度嫌うと、どんどんエスカレートしていくのも信長の持って生まれた病的な気質であった
年賀のあいさつに来た明智光秀相手に信長は話している
信長にとって明智、羽柴、蒲生氏郷くらいが自分を理解できる人物だと思っている、自分の胸の内、夢を語っても良いと信長は思う
佐久間や柴田には理解できまい、語る価値もないからと、いっさいこの話はしない
「日向守(ひゅうがのかみ=光秀)よ、明国を知っておるか」
「いえ、存じませぬが」光秀はいつも冷静だ、信長が得意になっている事柄については「知っている」とか先立って知識をひけらかすことは信長の気分を損ねる禁句なのを知っている。
「明国が海を渡れば行けることは知っておろうな」「はい」
「ロドリゲスによれば,彼の者は何度も明国に渡り、明の帝(みかど)にも会ったことがあるらしい」「ほほう」
「明の帝と我が国の帝とは違うようだ、我が国の帝は神武帝以来の神であるが、明の帝はわれらと変わらぬ大名である、だが明にはもともと帝も神もおらぬから力ある者が朝廷を作っては帝を名乗っているだけである」
「偽の帝でございますか」
「そうじゃ、偽物じゃ、ならばこの儂が攻め込んで明国を征服すれば、儂が明の帝になっても良いことになる」
「まさに」
「日向、わしはこの狭い島国での戦に飽きた、そなたらは早くこの国の敵を平らげて、織田信長が治める国にしてくれ、この国から戦をなくすのだ。
戦が無くなれば武士はくいっぱぐれる、今までは隣の領土に攻め込んで、そこの土地を奪う、それが戦争の原因であった、だがそれは日本人同士の共食いじゃ、それが無うなる
しかし、すぐ隣国に広大な異人の土地がある、明国さえ治めきれぬ広大な土地がただ黙って座っているのじゃ、ここを攻め取れば今の領地の10倍与えても余るほどじゃ、明国の民も我が国の10倍もいるというから農奴には不自由しないぞどうじゃ、この話」
「はあ、いささか話が大きすぎて光秀の尺では即答しかねます」
「うむ、無理もない、誰にも理解はできまい、だが堺の会合衆や博多の商人たちはすでに大海原に乗り出して南蛮人と貿易して巨万の富を得ているし、異国の知識も長けておる、薩摩の島津など田舎大名と侮っておったら、奴らは既に琉球と交易して莫大な富を得ておるらしい、その方も学んでみよ、筑前はすでに小西弥九郎と言う堺の商人上がりの武士を、宇喜多から譲り受けて、貿易のあれこれを学んでおるそうじゃ、そなたも賢いゆえ筑前に負けずに南蛮のことを学ぶがよい、目が覚めようぞ」
「ははー、さすがは筑前殿でございますなあ」
「そうじゃ、戦の傍ら小西にあれこれ教えられているようだ、小西と言う男は船に詳しい者だとかで、船奉行に取り立てたそうじゃ、筑前も水軍を作りたがっておる」
「ほほう、これは負けておられませぬ」
「そうじゃ、競え、競って互いに切磋琢磨せよ、勝った方には朝鮮国を与えるぞ」
光秀は話を合わせているが、やはり体質は古い武士である
(お屋形様の妄想癖もこの頃ひどくなっている、ロドリゲスとやら南蛮人を近づけるようになってからだ、あまり南蛮人に肩入れすれば、そのうち取り返しがつかない事態がおこるかもしれない)
信長の頭の中はユーロペ式の軍隊と、大きな軍船の建造で一杯になっていた、その前に安土城をユーロペ式の壮大なものに作り上げることに集中している
ロドリゲスからは朝鮮、明国をスペインと共に攻め取らぬかと相談されることもある
ユーロペの武器の凄さも肌で感じているし、急いでそれを吸収すれば天下の統一は簡単だと思うようになり、いよいよロドリゲスの話にのめりこむようになった。
信長はイエズス会のオルガンチノ、ルイスフロイスとも交わった、彼らも信長が今の日本でもっとも権力ある人間だと見抜いて積極的に近づいた
荒木村重の謀反で、荒木の与力大名であった高山右近を説得して荒木から離し、信長に味方するように説得したのもオルガンチノであった
高山右近が味方したことで、迷っていた中川清秀も信長に下った。
信長はオルガンチノを絶賛して、ますます布教の後押しをした
さらに九州にはキリシタン大名が多いと聞くと、それらの大名との親交を深めて味方に引き入れることもパードレ(司教)を利用して実行した
有馬、大友、大村ら北九州の大名がそれである、彼らの目前の敵は島津、竜造寺、毛利などであったから織田信長と盟約を結ぶことは大きな力となり歓迎された、特に大友宗麟(そうりん)は九州では島津と並ぶ実力者である。
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