小倉城 1264年初めての築城で勝山城と言われていた。九州の玄関口、関門海峡を抑える要衝であったために抗争の地になっていた。
1587年毛利勝信が入城していたが、関が原で戦っている留守中に黒田如水に攻略されてしまった。
関が原後は細川忠興が中津より出てきてここを本城とした。
1632年細川は肥後へ転封 代わって譜代の小笠原忠真が豊前15万石の城主となった。以後幕末まで小笠原が継承するのだが慶応二年(1866年)第二次征長の際孤立し、ついには城に火を放って退去してしまった。城は焼け落ち、城下町も荒廃してしまったのである。
148の櫓が立ち並び、破風がなく、四重目より五重目のほうが外側に張り出した特異な姿の天守は、南蛮造りとか唐造りと呼ばれて、津山城や高松城の手本とされたといわれる。