説明会前日に妻と二人で遺跡周囲を歩いた。ここには医療刑務所があった。私の知る限りでは既に40年前から高い塀に囲まれた異空間があったのである。
ところが今回歩いてみるとその高い塀が取り払われ、そこに何があったのか知らない人は広い土地が有るなくらいにしか思わないだろう。
さて、覗いてみると段切りされている。土の層の違いが人目で確認できるが、この表土に今回の遺跡がある。
ところが、この段切りされた下の土地にも遺跡が検出されている。高さで言えば五、六メートルの差がある。
場所を変えた。上の写真を撮った場所から90度西へ振ったのである。
青色の重機が見えるだろうがその前が段切りされた箇所である。
向うに足立山を望み、目の前には掘立柱住居跡が検出されているのが判る。
明日のための通路が作られているが、その通路に囲まれたなかに面積の広い掘立柱住居跡が検出されている。
ブログネタが切れる寸前に面白い記事が舞込んで来た。大見出しだけを捉えてみて「おやっ」と思わない方はいないと思う。更に「魏志倭人伝」に記された数カ国が確定している福岡市付近であれば「やはり」「なるほど」と思われるところだが、そうではなくて何処の国にも比定されない北九州市である。これから興味の沸いてくる遺跡発見である。
更に子供が埋葬されている可能性から見えることは何なのか。親の埋葬状況はどうなのか。それはここからは残念ながら見えないが。
そして朱色に塗られた石棺である。所謂ベンガラではなく、塗られた朱色はそれよりも高級品なのである。これをどのようにして手に入れたのか。
そして住居域とこの墓は隣り合わせなのである。換言すれば住居地域内に墓をつくっている。子供が死んだから自分の家の横に墓をつくったのか。
これが吉野ヶ里だと墓域と居住域は分かれているのである。
そして遺体は管玉の首飾りをしている。これらはいったい何を物語るのであろうか。
遺跡の両端で古墳時代、奈良時代に分かれて其々の説明がされているなかで、一人の見学者が発掘現場を闊歩している。すでに見学者の行為を逸脱している。この人が専門家であろうとなかろうとそれは問題ではなく人間としての問題である。
このような行為が許されるなら説明会なんて要らない。説明書を渡して自由に歩き回ることを許せばよい。そんなことを許してしまえば現場管理が出来なくなってしまう。注意しなければいかん。
他の見学者は真剣に説明に聞き入っている。それが当たり前だ。そして自分の疑問を質問するのである。
少々判り難いかもしれんがこの地図を見ていただこう。草野津という地名がある。「津」といえば港を表す言葉である。今の港を想像する方はおられんと思うが、船着場くらいに簡単であったろう。ある程度の構造船が出入りできる程度であろう。海から入ってきた荷物の保管。また、九州(九州全土ではなかろうが)から出てゆく荷物を保管する倉庫、等があったと考えられており、それらを管理する役所があったと考えられている。後背の山を越えて官道が大宰府まで延びている。
重要な地であったと考えられている。
地図を見る限り京都平野は遺跡の宝庫で、かの時代に関して想像を膨らますことが出来るような地ではないだろうか。