街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

長崎街道(大町町)

2009-12-17 08:41:09 | 史跡

 土壁の建物はどうも街道筋には似合わないような感がする。やはり漆喰で塗られた白壁が似合うのではないか。
 大屋根で切妻になっているので二階部分にも庇が設けられている。一階部分の庇を支えているように見られる飾りが西洋的で面白い。説明文によると大正時代に手を入れているとのことであるからこの部分がそうかもしれない。

 妻が覗き込んで見ているのだが、なにもそんな所で見ずに正面で見ればいいものをと思った。ただこの建物は個人の所有で今も住んで居られるからと言った言葉がこのような格好になったのかもしれん。彼女の背後に子供が車を止めている。
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城野遺跡

2009-12-16 09:00:51 | 遺跡

 台地から下りてきたところに拡がるであろう遺跡の全体像がこれで見ることが出来たと思う。少々気になる箇所があるのだが立ち入ることが出来ないのは残念だった。

 遺跡の説明ではなく集まってくれた我々に感謝と、これまで発掘に従事した方達へのねぎらいを述べている。それにしても年配者ばかりだな。
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長崎街道(大町町)

2009-12-16 08:36:54 | 史跡

 昨日は「ブロググー」自体のメンテナンスで記事をアップすることが出来なかった。心ならずも継続が一日でも切れたことは遺憾に思っている。
 断っておかねばならないが(大町町)のことであるが、町名が大町と言うのであって「町」という漢字が二つ並んでいるからといって間違いではないのである。
 例えば、北九州に「紫川」がある。これを英語表記している案内板をみると「murasakigawa river」と書かれてある。これを訳すと「紫川 川」となる。
 このようなくだらない間違いを犯しているのではないということを言いたかったのである。
 少々寒いが妻と二人でそぞろ歩きだ。子供はと言うと自分の車の中で待っている。子供は全く興味がない。趣味の問題だから「一緒に歩けよ」と言って強制することはない。
 この家の先にあるものが今回の目的である。ご覧頂こう。

 片流れの大屋根かと思って見たが左右平均に屋根が構成されている。
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城野遺跡

2009-12-14 11:10:57 | 遺跡


 周溝墓のある台地からなだらかに降りたところからも住居跡が散見される。ここも発掘途中でどのようなものが検出されるかはまだ判らぬが、時代は周溝墓のある台地と同じである。
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長崎街道(大町町)

2009-12-14 11:04:28 | 史跡

 武雄方面を見る。しっとりして落ち着いた佇まいである。夜来の雨で街道がしっとりと濡れて少し肌寒かったが心が落ち着く。気持ちのいいものだ。

 佐賀方面を見る。もう少し行けば目的のもが判るのである。
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城野遺跡

2009-12-13 16:43:50 | 遺跡

 石棺が検出された場所とは全く逆の発掘地である。住居跡が検出されているようだ。これといってめぼしいものがないのが残念なところである。
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長崎街道(大町町)

2009-12-13 16:26:17 | 史跡

 前日より甥の結婚式参列でハウステンボスにいた。妻と次男と私である。今回初めて次男の運転で移動したのである。本日長崎からの帰路上長崎街道大町宿に寄ることが出来た。ほんの少しの時間だったがほっとする時間を過す事が出来た。
 写真は武雄方向を見ている。本来長崎街道は肥前山口から有明海沿岸を長崎へと進むのだが、もう一本武雄、嬉野、大村方面を進む長崎街道もある。
 JRで言えば肥前山口駅から長崎本線と佐世保線にわかれるのと同じである。

 国道で言えば207号と34号である。この写真はその34号と並行に走る街道で、向うは肥前山口に行く。
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城野遺跡

2009-12-12 07:13:51 | 遺跡

 城野遺跡と付近の遺跡との位置関係が航空写真から見て取れるが、1950~1900年前頃は重留遺跡、1800年前には城野遺跡へと村の中心人物の居住区が移っていったと見られている。
 写真上部は西の方角である。

 埋蔵文化財調査室が作った簡易なパンフレットではあるが読んでいただきたい。
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城野遺跡

2009-12-11 07:34:41 | 遺跡

 石棺の蓋が仰向けにされて置かれている。辰砂の赤がよく目立っている。ここが今回のメインであるから殆どの人はここから動かない。ある人はじっと見つめ、ある人は写真に収めるのに熱心だし、ある人は説明に耳を傾ける。三人三様である。
 おっと、金網にはまだ空色朝顔が咲いている。どうもこの朝顔は風情を台無しにしているようだ。やはり朝顔は夏だ。

 ヘアピンカーブのような見学路(逆行する人はまずいなかった)を一周するとご覧のような人だかりである。いつのまにこんなにも集まったものかと驚きもした。 帰る間際に受付に聞いたところ480人は来たということであった。
 埋蔵文化財調査室に電話を入れて見学人数の予想を聞いたところ「200人みえればいいのだが」ということであったが予想の倍以上の人数だ。発掘に携わった人達も喜んだことであろう。
 以前母と延永ヤヨミ園遺跡(行橋 主体は奈良時代)の説明会に行ったときは大凡100人程度であった。県の文化財保護課予想も「100人来ればなんとかですので、是非見学に来て下さい」と、「まあ枯れ木も山の賑わいだな」程度で言っているのかと思ってみたが、そうではなく懇願されたのである。
 やはり出土したもののレベルがあまりにも違うのである。ましてや時代背景が奈良時代と邪馬台国時代では関心のあるものは目の色が変わるのである。
 大和地方だったか、やはり邪馬台国時代の遺跡が出たときは18000人が来たというからこれは驚愕に値する。やはり判官贔屓であろうか。
 
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城野遺跡

2009-12-10 09:54:42 | 遺跡

 南北に延びる周溝の大きさがお判りいただけるのではないか。
 時間が経つに連れて見学者が増えてきた。どうしても九州最大級の墓であるから立ち止まって説明に耳を傾けるのは如何ともし難い。我々は予定よりも少し早く来たのでこのようなことはなかったのである。私はラーメンや蕎麦の店などには絶対といっていいほど並ばないのだがこの日は別である。

 建物の基礎の痕がはっきりと確認できる。
 ここで断っておかなければならないが城野遺跡編はもう少し続くので我慢して下さい。まあ、換言すれば他にネタが無いと言うことである。寒さにはこたえるので。
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