かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ヒンドゥー教10講

2021年03月08日 | Books
今日は、冷たい雨。
今冬最後の寒波か。



インド哲学10講を読んでさっぱりわからなかった話はした。
リベンジと思って、もう少しは、なじみのあるヒンドゥ教10講をと思ったのだが、見事に跳ね返された。

ヒンドゥ教もやはり難しいのか、私の読解力が弱いのか、著者が読者の理解度を斟酌せずに書かれているのか。

部分的には、理解できることもある。
例えば、ヒンドゥ教の定義は難しく、インドにおける他の宗教以外の宗教と定義付けるしかないとか、タントリズムはヒンドゥ教から来ているが、それがきちんと残っているのは、今や、日本の密教のみになっていることとか。

仏教と、ヒンドゥ教の共通点も多く認められる。
ヒンドゥが、仏教を取り込んだともいえるが、発生段階から、共通する考え方、例えば、輪廻と、解脱とかも多い。
相反する概念を両立させつつ、切り口を変えて理解しようとする点なども似ているかもしれない。

インドにいると、確かにヒンドゥ教の人気は強いが、教えというよりは、ビシュヌ、シヴァ、クリシュナなど、好きな神々をひたする祈るというイメージで、その裏にある哲学的なところまで理解しようとしている感じでもない。
人気の神も、時代を経て変遷している。
それぞれの神々がおどろおどろしい化粧をされているのをよく見かけるが、これはヒンドゥ教の祈りの作法によるものであることを知った。
事細かく定められている。

そもそもインドの神々は、日本の神々のように、実在(かもしれない)のモデルから生み出されたというよりは、空想上の物語から生み出されたものであることも、わかりにくい原因かもしれない。
ヴィシュヌの別名が1000以上あると言われると、気が遠くなってしまう。

ということで、ヒンドゥ教は、ひじょうに難しいが、哲学的な思想を伴った宗教であることはわかった。
それぞれの神々毎に理解しようとした方がいいかもしれない。

コメント
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