かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

万葉びとの奈良

2022年11月23日 | Books
今日は、一日冷たい雨だったが、お墓参り。
父が亡くなって、ちょうど11年目。



本書は、おなじみ?上野さんの本。
平易に、かつ、具体的に説明してくれるので、読みやすいし、理解も深まる。

本書は、8章からなり、みな奈良に関するトピックスだが、それぞれの章は、テーマ毎に独立しており、どこからでも読める。

”万葉びとの”という題名が示すように、奈良時代の庶民の実態を、万葉集や、出土木簡から、探る本になっている。

奈良の都というが、都という言葉は、元々は、”や”=家を丁寧に表現して”みや”になり、それに所を示す”こ”を加えたもの。
したがって、宮が平城宮で、都が平城京ということになる。
それは、中国の都に習ったもので、その中のお寺の構造も中国風。
ところが、平安京になると、和風文化が入ってきて、お寺にも畳が使われるようになり、様相が一変した。

この”みやこ”らしいことを”みやび”といい、都に対して田舎は”ひな”で、”ひなび”となる。
ひなびたという言葉は、今も使うが、都の対義語だったのだ。

当時の都人は、農民でもあり、田畑は、都から離れたところにあったため、農業を営む時は、”たぶせ”という農業のための小屋に寝泊まりした。
そのことも、万葉集に多く歌われている。
この辺の実態も、続日本紀などの歴史書からは、読み取れないところだ。

平城京には、東院御殿が再現されており、かつて訪れたことがあるが、まさに、この庭園が、邸宅の大きな要素になっていた。
そして、そこに植えられている花々も。
桜は、日本に元々あった花だが、梅は中国からの輸入品。
したがって、梅を愛でることは、中国風を意味することになるという。

この奈良の都作りに大きな貢献があったのが、鑑真の来日。
鑑真は、直接的には、仏法を広めるために、来日した訳だが、同時に、仏師や、大工など、仏法を広めるために必要な仕掛け作りの職人も来日。
彼らが、奈良の都作りに大きな貢献をした。

日本の創成期のリアルを感じさせてくれる本。
2010年に出た本だが、すでに5刷で、読み継がれている。
コメント
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