先日、日本製紙を見学させてもらった際に工場長と興味深い意見交換をした。
「紙の原料に地元の間伐材を使うというのは難しいのですか?」という私からの問いに、工場長は、「そんなことはありませんよ。当社も地域貢献としてできれば地元の山から出る間伐材を使ってあげたいのです。しかしいつどれくらいの間伐材が出るかが分からないので計画的に使用することができないのです」と言う。
「地元の山からならかなり間伐材が出そうですが」
「ええ、私から見ても手入れがされていない山が多いですよ。間伐してあげればもっと健康になるのになあ、と思います」
「とはいえ、木材が売れないために間伐をする費用も出ないと聞きますが…」
「確かに経済として回そうとすると投資とコストの話になります。しかし、そういうのとは別に工夫をすれば間伐をしてもらう手だてはあるのじゃないかと思います」
経済を回さずにボランティア精神だけでは事は動かないのではないかなあ。
◆ ◆
「小松さんはチェーンソーで木を切ったことはありますか?」
「あ、残念ながらありません」
「あれって結構面白くてストレス解消になるんですよ」
「はあ…」
「例えば、チェーンソーで木を切りたいという人がいたら有料で切らせてあげるんです。ボランティアでやってもらうのではありません、やりたいという人にやらせてあげるんです」
「しかしチェーンソーを使ったことがありません」
「講習会をやります。最初から林の木は切らせません。まずは切ってある丸太を玉切りといって小さく切ってもらいます。そんなことを三回やって、それでもなお次にくるだけの意欲と面白みを感じている人なら、四回目で初めて実際の立木を切らせてあげます。全部有料ですよ、もちろん」
「ボランティアではないんですね」
「違います。やりたいという人がいるからやらせてあげるんです。募集すれば『やりたい』という人が来ると思いますよ」
◆ ◆ ◆
以前からボランティアツアーという言い方には違和感があった。
”ボランティア”という単語そのものに、『やってあげている感』、『やっていただいている感』がニュアンスとして込められているのではないかなあ、と感じているからだ。
過疎地へ都会の人達がボランティアツアーでやってきて、地域だけでは手が回らない植林地の間伐や荒れた竹林の手入れをしてもらって感謝するというのはよくある話。
しかしそれが(もちろん、そればかりではないことも理解しているものの)やってあげているという上から目線、とやって頂いて申し訳ないという感覚がないといけないのだろうか。
それよりも、木を切らせてほしいという需要と、それなら場所を用意して面倒を見てあげる体制という供給がうまくマッチすれば、それだけで「やり手良し、やらせて良し、世間良し」の近江商人ばりの三方良しになるのではないか。
必要なことは、需要を顕現化することと、やりたい人の意欲とスキル、さらにその需要を受け入れるフィールドと体制の供給と、これら全部を引き合わせるマッチングの機能なのではないか。
◆
”ボランティア”などという単語がついているからいけないのだと思う。
いっそのこと地域が困っていることを救うアクティビティを、そのなかに楽しみを求めるようなアクティビティとして昇華出来ればよいのだ。
以前紹介した、妙高高原にある友人のペンションの掃除などは、仲間同士の年に一度の同窓会を兼ねた掃除アクティビティだ。
何年もやるうちにすでに皆家の掃除をするスキルが身に付いている。
◆
私の好きな蕎麦打ちだって、家人に食べさせるだけの500gをちまちまと打っているよりは、1kgとか、1.5kgなどより大きな玉を打って腕を上げたくなるものだ。
蕎麦の振る舞いイベントに参加させてもらえば、存分に好きなだけ蕎麦が打てるが、それなら有料だって参加したいという蕎麦打ちはごまんといるだろう。
つまり、自分がやれてやりたいことをやるだけで世の中の役に立つという、双方のニーズが合致するような仕組みがあればよいのだ。
成熟した社会にふさわしい活動と呼べるのではないか。
◆ ◆ ◆
そこまでいくのならもう”ボランティア”という単語は使わずに、ニューアクティビティと呼んだらどうだろう。
「ニューアクティビティあります」が看板になる観光地っていいのじゃないか。
阿寒の山や音別の山へ入って、木を切らせてもらえないものだろうか。
趣味が「間伐」って、相当にユニークだし、『個性的なあなた』にはおすすめの旅が作れそうですぞ。
「紙の原料に地元の間伐材を使うというのは難しいのですか?」という私からの問いに、工場長は、「そんなことはありませんよ。当社も地域貢献としてできれば地元の山から出る間伐材を使ってあげたいのです。しかしいつどれくらいの間伐材が出るかが分からないので計画的に使用することができないのです」と言う。
「地元の山からならかなり間伐材が出そうですが」
「ええ、私から見ても手入れがされていない山が多いですよ。間伐してあげればもっと健康になるのになあ、と思います」
「とはいえ、木材が売れないために間伐をする費用も出ないと聞きますが…」
「確かに経済として回そうとすると投資とコストの話になります。しかし、そういうのとは別に工夫をすれば間伐をしてもらう手だてはあるのじゃないかと思います」
経済を回さずにボランティア精神だけでは事は動かないのではないかなあ。
◆ ◆
「小松さんはチェーンソーで木を切ったことはありますか?」
「あ、残念ながらありません」
「あれって結構面白くてストレス解消になるんですよ」
「はあ…」
「例えば、チェーンソーで木を切りたいという人がいたら有料で切らせてあげるんです。ボランティアでやってもらうのではありません、やりたいという人にやらせてあげるんです」
「しかしチェーンソーを使ったことがありません」
「講習会をやります。最初から林の木は切らせません。まずは切ってある丸太を玉切りといって小さく切ってもらいます。そんなことを三回やって、それでもなお次にくるだけの意欲と面白みを感じている人なら、四回目で初めて実際の立木を切らせてあげます。全部有料ですよ、もちろん」
「ボランティアではないんですね」
「違います。やりたいという人がいるからやらせてあげるんです。募集すれば『やりたい』という人が来ると思いますよ」
◆ ◆ ◆
以前からボランティアツアーという言い方には違和感があった。
”ボランティア”という単語そのものに、『やってあげている感』、『やっていただいている感』がニュアンスとして込められているのではないかなあ、と感じているからだ。
過疎地へ都会の人達がボランティアツアーでやってきて、地域だけでは手が回らない植林地の間伐や荒れた竹林の手入れをしてもらって感謝するというのはよくある話。
しかしそれが(もちろん、そればかりではないことも理解しているものの)やってあげているという上から目線、とやって頂いて申し訳ないという感覚がないといけないのだろうか。
それよりも、木を切らせてほしいという需要と、それなら場所を用意して面倒を見てあげる体制という供給がうまくマッチすれば、それだけで「やり手良し、やらせて良し、世間良し」の近江商人ばりの三方良しになるのではないか。
必要なことは、需要を顕現化することと、やりたい人の意欲とスキル、さらにその需要を受け入れるフィールドと体制の供給と、これら全部を引き合わせるマッチングの機能なのではないか。
◆
”ボランティア”などという単語がついているからいけないのだと思う。
いっそのこと地域が困っていることを救うアクティビティを、そのなかに楽しみを求めるようなアクティビティとして昇華出来ればよいのだ。
以前紹介した、妙高高原にある友人のペンションの掃除などは、仲間同士の年に一度の同窓会を兼ねた掃除アクティビティだ。
何年もやるうちにすでに皆家の掃除をするスキルが身に付いている。
◆
私の好きな蕎麦打ちだって、家人に食べさせるだけの500gをちまちまと打っているよりは、1kgとか、1.5kgなどより大きな玉を打って腕を上げたくなるものだ。
蕎麦の振る舞いイベントに参加させてもらえば、存分に好きなだけ蕎麦が打てるが、それなら有料だって参加したいという蕎麦打ちはごまんといるだろう。
つまり、自分がやれてやりたいことをやるだけで世の中の役に立つという、双方のニーズが合致するような仕組みがあればよいのだ。
成熟した社会にふさわしい活動と呼べるのではないか。
◆ ◆ ◆
そこまでいくのならもう”ボランティア”という単語は使わずに、ニューアクティビティと呼んだらどうだろう。
「ニューアクティビティあります」が看板になる観光地っていいのじゃないか。
阿寒の山や音別の山へ入って、木を切らせてもらえないものだろうか。
趣味が「間伐」って、相当にユニークだし、『個性的なあなた』にはおすすめの旅が作れそうですぞ。