今月号の致知に、大人気の日本酒「獺祭(だっさい)」を製造・販売する旭酒造社長の桜井博志さんのインタビュー記事が掲載されていました。
旭酒造は山口県の獺越(おそごえ)という山奥の江戸時代から酒造りを行ってきた酒蔵ですが、そこには社長の桜井さんのしっかりした経営方針があるようです。
「おいしい酒、味わう酒 その一点を求め続ける」と題された記事の一部をご紹介します。
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◆旭酒造さんがつくられる「獺祭」は人気が高く入手困難と言われます。日本酒業界が年々縮小する中、勢いよく成長していると伺っています。
桜井:本当にありがたいことです。私が社長に就任した昭和59年は社員が十名、売り上げは97百万円程度でしたが、現在は社員数約百名、昨年は売上39億円を計上するまでになりました。
人気の秘訣と言われますが、まずはなんといっても品質ですよね。当社のブランドは「獺祭」一本、日本酒の最高峰とされる純米大吟醸にこだわって作り続けてきました。
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◆社長になられたのが昭和59年というとおいくつの時ですか。
桜井:三十四です。私は一旦はこの旭酒造に入ったものの、経営方針を巡って親子喧嘩してしまい、「おまえ、出ていけ」「ああ、出ていってやるよ」ということで、勘当同然で出ていき、自分で石材の卸会社を起こしました。
しかし五年後、父が急逝したので、石材の会社を清算して家業に戻ってきました。
◆社長に就任された当時の会社の状況はいかがでしたか。
桜井:いやぁ惨憺たるものでした。日本酒業界では一升瓶十万本を一千石と表しますが、最盛期の昭和48年に当社は二千石売れていたのが、私が継いだ59年には三分の一の七百石まで落ちていました。しかも前年比85%の減少です。
◆どんどん悪化していた?
桜井:はい、獺越周辺は過疎化が進み、戦後三千人いた人口も五百人まで減っていました。もうこの周辺だけではやっていけません。仮に父が経営を続けていても、あのままいったらおそらく四、五年で会社を清算することになっていたでしょう。そのぐらい、圧倒的な「負け組」でした。
しかし不思議なもので、ここまで業績が悪いと社内に危機感やモラールはなくなるんですね。
「何でうちの酒は売れんのや」「日本酒業界全体が衰退していますから」
「灘の大手の酒は売れとるやないか」「大手は宣伝費をバンバン使っていますから」
「(同じ山口の)岩国の酒蔵も売れとるじゃろ」「岩国は街ですから」…
売れない理由だけは理路整然と帰ってきます(笑)。しかし、売れなければ会社がなくなるということは全く頭にない。
◆大変な苦境の中で経営を引き受けられたのですね。
桜井:深刻だったのは肝心の酒造りです。今旭酒造と言えば純米大吟醸というイメージが定着していますが、当時は普通酒が主力で、品質なんて二の次でした。それというのも、一級酒以上の酒造りは大手メーカーがやることで、地方のメーカーは二級酒というのが一般的だったんです。
また、伝統的に酒づくりは杜氏(とうじ)とその下で働く蔵人(くろうど)集団が行っています。彼らの本業は農家などで、農閑期になると酒蔵に来て、酒づくりを行うのです。オーナーである社長は彼らの酒づくりに口出しをせず、販売に徹するのが今でも慣例なんですね。
◆経営者が口出しできない?
桜井:おかしいでしょう。それでも私は、当時いくつか地方の蔵で純米大吟醸を出してきたので、「うちもあんな酒をつくりたい」と杜氏に言ったんです。すると、「純米大吟醸は難しい、大変だ」と返ってくる。そんなやり取りをしばらくして、どうやらうちの杜氏は純米大吟醸がつくれないんだな、と分かりました。
◆それでどうされたのですか
桜井:紹介してくださる方があって、翌年から新しい杜氏に来てもらいました。優秀な杜氏で、彼が来てくれたことでどうにか純米大吟醸らしき酒がつくれるようになりました。それがいまの「獺祭」のベースになっています。
◆しかし、そこから普通酒を捨て、純米大吟醸に絞る決断をされたのはどういう思いからですか。
桜井:いや、全然決断していないですよ。とにかくあらゆる試行錯誤をしたんです。その一つですよ、純米大吟醸も。
結果的には純米大吟醸に絞られましたようになりましたが、そんな恰好のいいものじゃなくて、悩んで、迷って、引きずって、ようやく出した結論でした。
◆「獺祭」で手応えを感じ始めたのはいつ頃ですか
桜井:「獺祭」は平成に入ってすぐから始めていますが、そこから六、七年経った頃でしょうか。
「獺祭」は始めから東京の市場に出ていきました。うちのような小さな蔵は、「人口十万人の岩国で何パーセント押さえる」というような小さな市場でシェア競争をしたら絶対に勝てません。それは経験から分かっていました。それならもっと大きな市場に出ていくしかない。東京進出も追い込まれたからこそ生まれた苦肉の策でした。
そこから少しずつ軌道に乗り始めましたが、平成十年頃、一度踊り場に陥るんですね。当時は東京の卸業者を使っていましたが、納入しようとすると「そんなに売れないから要らない」という。
一方、卸先である酒屋さんからは「最近『獺祭』を入荷してくれない」という声が聞こえてきました。おかしいでしょう?
◆なぜだったのですか?
桜井:結局、業者が止めていたんです。卸業者は一つの商品だけを突出して売るより、仕入れたものを万遍なく売りたいわけです。
また、中抜き商売だから蔵本と酒屋が密接に結びつくことを好まない。そうすると情報も入ってきませんから、いろいろな判断から卸業者との取引をやめて、直取引を始めました。
当時当社の売り上げが二億円のところ、その一社で七千万円の取引がありましたから、大きな決断ではありました。けど、結果的にはそこから売り上げが大きく伸びたんです。
◆大きな転機となったのですね。
桜井:転機と言う意味ではちょうど同じ頃地ビールづくりに挑戦したのですが、これは大失敗に終わりました。ビール造りの認可を得るときにレストランも経営するように条件づけられたんです。そこで二億四千万円を投資して、レストランとビール製造の設備を整えましたが数カ月で資金繰りに苦しむようになり、撤退に追い込まれました。
そして「旭酒造は潰れる」という噂を聞いた杜氏と蔵人たちは別の蔵に移って、その冬の仕込には戻ってきませんでした。
◆え?戻ってこなかった?酒づくりはどうされたのですか。
桜井:もう、じぶんたちでやるしかないな、と。確かに杜氏たちが来ないと聞いた時はショックでしたし、新しい人を探さなければいけないとも思いました。しかし、これまでも業界の慣例を無視して、私はもっとこうしてほしい、ああしてほしい、といろいろと注文を出してきました。杜氏もそれを受け入れて一緒につくってきましたが、もう一度そんな関係を一から築くことが億劫でしたし、それをよしとする杜氏が現れるかわかりませんからね。
◆それで自分たちで作ろうと決意した
桜井:はい、社員たちがフル稼働で酒づくりに挑戦しました。もう毎日とんでもない失敗ばかり起こって可笑しかったですよ(笑)
その年から杜氏制度を廃止して、自社社員による酒づくりが始まったのですが、おかげで冬場だけでなく、年間通じて酒づくりができる体制を敷くことができました。蔵内を年中5℃に保つような設備投資もしましたが、生産能力がぐんと伸びました。
◆ピンチを飛躍のきっかけにされたのですね
桜井:何より私がつくりたいように酒がつくれることが大きかったですね。社長の方針のとおりに会社が動くようになった。それがいまの「獺祭」に繋がるもう一つ大きな転機だったと思います。
来年には本蔵の改築が完了し、五万石の生産が可能になる予定です。品切れでご迷惑をおかけしているお客様にも少しは喜んでいただけるようになると思います。
私ども旭酒造の焦点はお客様の幸せ、ただ一つです。どこまでも自分たちの信じる酒づくりをして、お客様の幸せに寄与できる酒蔵でありたいと思います。
(記事ここまで)
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新しい蔵がもうすぐできるそうです。なかなか手に入らない獺祭ですが、少しは口に入るようになるかもしれませんね。
でもこういう話を知るとお酒の味も少しは変わって感じられるかもしれませんね。