京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

 「生かされていく道」

2011年11月23日 | 展覧会


寒さのせいだけではないと思う。夏からいっきに晩秋という環境の変化が大きくて帰国後どことなく心がしっくりしないままだった。忍び寄ってくる寒さを前に、夏の名残りの後始末からさっさと冬支度をせねばと過ごしていた。
楽しみにしていた石蕗の花は、長い一本だけ伸びた柄の先に咲き終わってしまっていた。花芽をつけた柄がじんわりと伸び上がっていくさまが好きだったのだけれど。師走にずれ込みそうな紅葉狩りだが、自然の織りなす豊かな風景は身辺に溢れている。

報恩講が始まった東本願寺に参拝した。法話をいただき、「中村久子展 生きる力を求めて」で壮絶な人生ドラマを拝見してきた。

           

凍傷がもとで特発性脱疽になり3歳のとき両手両足を失うが、母親の厳しい躾と祖母のやさしい導きで努力と独学を重ね、字を書き、縫い物や編み物も独特の方法でこなすことも修得された。42歳で『歎異抄』と出会い、やがては執筆や講演活動、施設の慰問なども開始し生きる力と光を多くの人に与え続けた一生だったことが説明されている。

深い苦悩…、どんなにか苦労されたことだろうなどと思いは馳せるが、言語を絶する苦難の中で生き抜かれた生涯だ。とても生半可な言葉で共感を語れない。ではあっても、その身になれないながらじっと語られた言葉を味わっているとこみ上げてくる悲しさもあるし、深い慈しみのぬくもりさえ感じられてきて胸打たれるのだった。命を生き切ることの意味って…??

「おもうようにならぬと泣きわめき かんしゃくを起こす私を 御念仏称えながら 
    なだめつ すかしつ 育ててくださった 春のような ばば様」
「どんなところにも 生かされていく道はございます」
「人生に絶望なし いかなる人生にも 決して絶望はない」

苦労話さえ人と比較し自分のほうがと自慢する、臨終を察した104歳の実母の言葉も引きながらの法話であったが、人生の修行は最後の最後まで続きそうだ。そうすることで一人一作品の仕上げに近づけるのだろうか。

コメント (6)
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