雨、16度、95%
私自身とても恥ずかしいことですが、小学校、中学校、高校すら同窓生の方の顔や名前が思い出せないことがあります。お名前を聞いても、はて?当然それなりの時間の経過で、皆さんお歳をとりました。お顔が解らないのはまあ、お許し願いましょう。日本から離れて長いので、同窓会も思うようには出席できません。そして、この私、卒業アルバム等、ポイと捨ててしまっています。高校はかろうじて、主人も同窓なので、どなたかな?と聞くことが出来ます。もちろん親しかった友人は、忘れもしません。ああ、いやだった同窓生も忘れていません。
高校を出てから、生まれ育った福岡に戻るのは年一回程度。この福岡の地を出たい一心で過ごした高校時代です。主人のように福岡に帰れば、いいなあこの土地は、などと爪の垢ほども思いません。そんな私が、母の高齢化、実家の整理、主人の両親の高齢化に伴い、福岡に最低でも2月に一度戻るようになって、5年近くが過ぎました。帰っても、役所の用事、銀行、嫁の立場もあってゆっくりなどしてはいられません。それでも、町中を行き来すると、この辺に誰がしの家があったなあ、と表札を覗き込むこともあります。
小学校の5年の同級生に4、5歳年上の知恵おくれの男の子がいました。同じクラスに2、3歳年上の自閉症の女の子がいました。そして、中国からの帰化した男の子も転校してきました。今にして思えば、担任の先生が、同和教育等に力を注いでいた方だったのが、こうした子供を引き取ったのではと思います。
知恵おくれの男の子も自閉症の女の子も、背は私たちよりずっと高く、男の子は気に入らないことがあると暴れ出すこともありました。特別担任の先生に頼まれたわけではないのですが、この3人を私の家に呼んで、漢字や簡単な計算を教えていました。今まで、0点しかとれなかった子が、漢字一つ書けたことで5点をもらって喜んでいる姿が印象的でした。私の家は隣接していますが、校区外、行きも帰りも4人で歩きました。
帰化した男の子は、見る間に日本語が上達しました。自閉症の女の子は、学校中で私にだけ話をするようになりました。知恵おくれの男の子が暴れ始めると、みんな私を探します。私が止めると泣きながら、暴れるのを止めました。
普通5、6年は持ち上がり、クラス替えがないものですが、なぜか6年でクラス替えがあり、その3人とクラスがバラバラになりました。それでも自閉症の女の子は私にだけは話します。知恵おくれの子が暴れると、授業中でも他のクラスから私を呼びにやって来ます。
小学校卒業以来、この3人のことを忘れかけていました。実にいい加減な私です。先日、ひょんなことから帰化した男の子が、福岡の中華料理店で働いていることを知りました。知恵おくれの男の子の家は大きな店構えのままです。消息を知ろうと思えばお店を訪ねると分かります。ところが、自閉症の女の子の家は跡形もありません。どこでどうしているのでしょう。そんな思いで、福岡からの飛行機に乗ります。
福岡から戻って一週間、そろそろ香港の生活が軌道に乗り始めた昨日、抹茶アイスの好きな自閉症の男の子と週末に素敵なデートをしている方からコメントを頂きました。途端に気になっていた自閉症の女子のこのことが思い出されます。
背が高く、ちょっと猫背、ひどい近眼で眼鏡をかけていました。もう60歳になっているはずです。女の子と呼ぶのは失礼ですが、彼女の姿は、最後に見た時のまま私の中に生きてます。だから、女の子。細い細い声で話してくれました。背が低い私のために、ちょっと腰を折って、耳元で話してくれました。
3人に最後にあってから、既に45年以上経っています。時間を作って、会いに出かけたいと思います。