チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

義父が逝って、ひと月経ちました。

2015年03月24日 | 日々のこと

曇り、18度、82%

 老人施設に入ったばかりの義父の様子が思わしくなくなったのは、私が孫におひな様の額を届けるために帰国する二日前のことでした。病院に搬送され、酸素吸入を受けているとのこと、主人もチケットの手配をしますが、何分にも旧正月前のことで思うように事が運びません。とりあえず私は東京に入りました。翌朝の一便で福岡に戻った私は、その足で義父の元に向かいました。義母から聞いていた様子とは違って、確かに吸入器や点滴はしていますが、しっかりと目を開けています。「真奈よ。」と手を握るとしっかり握り返してくれます。あとふつ日したら、主人が来るからね。と言うと、大きく頷きます。

 吸入器がどうも邪魔らしく手で払いますから、元の場所に戻しながら「ダメ、ダメ。ちゃんと付けてないと。」と言うと、いつものようにいたずらっぽく目で笑います。私は、義父の様子からまだまだ大丈夫だと思ってしまいました。電話が入ったので、病室を出て廊下の突き当たりで小声で話していると、病室から大きな声がします。「真奈さん、お茶!」飛んで行って寝飲みでお茶を飲ませました。ゴクゴクと大きく喉を鳴らします。一杯飲んだね、と褒めると、また目でニッコリと笑います。大きな声を聞いたのでまたしても安心します。大丈夫、主人も会うことが出来ると。

 病院を出るとその足で主人の実家に向かいました。実は、こういう時がいつか来るかもしれないと、義母と相談していたことがあったからです。二日ほどの病院での付き添いですっかり元気が無くなった義母に、万が一の為に、葬儀の手配に行くからね、と告げました。「頼むわ。」と言ってくれます。葬儀会社に向かう私の気持ちは複雑でした。

 主人の家庭は、身近な肉親の葬儀を出したことがありません。葬儀の手配は、微に入り細に入り細々しています。義母もこのままだと疲れが増します。主人や私も香港からだと、葬儀の手配に間に合わないかもしれません。少しでも義母の不安や負担を取り除いてやるためには、誰かがこんな仕事をしなくてはならないといい聞かせて、葬儀会社に向かいました。

 葬儀会社を出ると、私はその足で東京に戻りました。旧正月ですからチケットの変更も出来ません。それに、義父の様子から私と入れ違いに福岡に入る主人が義父に会うことが出来ると信じていました。

 翌朝、携帯が鳴ります。義父が逝きました。

 主人は一日間に合いませんでした。

 後で聞いたことですが、義父は私が病院から帰った後も大声を出していたそうです。それで、少し休ませるために、点滴に睡眠薬を入れたので、義母たちが行くと寝たままで、お茶ともいわず、手を握っても握り返しもしなかったそうです。そのまま義父は逝きました。義父と家族の中で最後に話をして、お茶を飲ませたのは、私でした。

 私がこの家に嫁いで来て38年。日本に居た頃は、冬になると霜焼けがひどくなる私の手を、義父はよくさすってくれました。香港行きが決まった時に、「香港は温かいから、霜焼けはもう出来ん。」と言ってくれました。義父の言葉通り、この30年近く霜焼けとはご無沙汰しています。

 一緒の食事の時には、蟹や蝦蛄や海老の殻を剥いてくれます。義父も好きな海老、蟹です。一度など、我が家の家族3人で行くと、食卓で義父が海老を剥いています。おそらく、100匹近かったと思います。義父に感謝しながら、ただひたすら息子とエビを食べました。

 義父は俳句で随分賞を頂いています。本にすればと私が言ったとき、義父はもうそんな元気が無いと言いました。私が義父にしてあげれることは、彼の俳句をまとめてあげることかと、このひと月考えています。

 92歳、長い時間でしたね。ありがとう、お父さん。

コメント (2)
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