地下鉄・淀屋橋駅を降り、市役所の南側を、土佐堀川に沿って東に、とことこ歩く。
中之島図書館、中央公会堂の前を、すたすた。
ノスタルジック大阪ですね、このあたりは。
この近くにオフィスがあり、永年勤務していたので、この界隈はわたしにとっては、庭。
いまさらながら、写真を撮っている自分の姿が、なんだかおかしい。
さて、目の前に見えるのは、大阪市立東洋陶磁美術館。
本日のお目当て、ルーシ−・リー展が開催されている。
入口に進むと、コートや持ち物を預けられるロッカーがあって、おお助かり。
日曜日に、下娘Rが、ぽろっと、こう言った。
「ルーシー・リー展やってるって、ポスターが貼ってあったわ。」
「へー、そんな人、知らないわ・・・
中国人みたいな名前やねえ。だれ?」
とわたしは、言い終わらないうちに、グーグルで調べた。
テレビCMにも顔を出している、今、話題の30代女性陶芸家が、先日、TVで紹介されていた。
番組中、その人が、ある陶芸展に行って、感激しながら観ていたが、
この作家、ルーシー・リーかも知れないと直感で思った。
大阪での展覧は、2月13日まで。
ぼやぼやしていたら終わってしまう。
わたしが、行ける時間は限られているので、さっそく、行ってみた。
この東洋陶磁美術館に足を運ぶのは、2度目。
初めてのときは、朝鮮・古美術展だったが、けっこう、ちんぷんかんぷんだった。
音声ガイド器を借りる。500円也。
ナレーターは、樋口可南子。
あまり、役に立たなかった。
おそらく、事前に予習していったからだ。
それと、ガイドを聞きながら、観ながら、さらに、説明書を読みながら、を同時にやったので
アタマと目と耳が、ミックスジュースになってしまったようだ。
女性客が多い。
平日の日中ということもあってだろう。
若いカップルも、ちらほら。
若くないカップルも。
ピンク、深く澄んだブルー、グリーン、ゴールド、濃い茶、オフホワイト、うすいブルー
シンプルなフォルム、溶岩釉の奇跡、・・・
芸術は、いつの時代にもモダン。
とりわけ、ピンクが気に入ったのだが、その器の前で、じっと動かない若い女性がいて
わたしは、ぜんぜん、観られなかった。
しかたなく、それは飛ばして、ほかの作品を観ていたが、ある程度、時間が経過して
その女性が立ち去ったあと、引き返して、やっと観ることができた。
女性は、老いも若きも、ピンクが好きなのかな。
今、店頭や食器棚に並んでいる、ふつうに、毎日、目にしている食器。
これは、伝統を切り拓き、新たな作風を生み出す先駆者がいて、
それが認められ、浸透し、流行し、
さらに模倣され、大量生産され、定着しているのだろう。
ルーシーは、ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に育ったが、
忍び寄る戦争のため、ロンドンに亡命した。
この、情報収集力、人脈、財力、早い判断が、命を救ったともいえる。
国に留まった、多くの才能ある人々が、ナチスに捕えられ、命を落としたことだろう。
戦争の頃は、生活のため、陶器のボタン作りに精を出し、
来る日も来る日もキャベツだけ、という苦しい生活を送っていた、
そう、当時を振り返るルーシー。
(うちも、いま、来る日も来る日も、キャベツ、キャベツ、キャベツ。
娘Rは、「ルーシーは、『第二次世界大戦』で。うちは、『キャベツ戦争』だ」という)
はい、ハナシが脱線しました。
時代の先端を行く、その背景には、なにがある?
伯父の家には、古代美術品が並び、それらが大好きだったというルーシー。
開業医の父は、フロイトとも親交があった。
20世紀初頭のウイーンは、クリムトやシーレなどが活躍し、新しい芸術の風が巻き起こっていた。
新進・天才建築家に依頼して作ってもらった新居は、とてもシンプルなもので、
機能美あふれるデザインは、ルーシーに大きな影響を与えた。
そういった背景、環境、実際に目で見て触れ、実感し、
知的要素、美の要素を、醸造し、独自の感性で創り上げ、数々の芸術品を生み出した。
ご本人は、「自分はたんなる陶芸家であって、芸術家ではない」、とおっしゃっていたが。
1995年に、93歳で亡くなったルーシーの、没後、はじめての本格的な回顧展。
年齢が上がるにつれ、円熟みを増すとともに、作品にはますます瑞々しさを感じた。
感動すること、そして、わきあがる情熱。
これって、大事ですね。