蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

不思議

2014-01-14 | 日々のこと
みなさん、なにが目的で、わたしのブログをお読みになるのだろう。
わたしは、たんに自分の胸にたまっているものを吐き出して、すかっとしているが、
ただ、それだけなのだ。

自分の考えが変ることもある。
若い頃と今では、違う。
これは年齢と経験による、誰にでもある、ごく当たり前のことだろう。

中年になってからでも、わたしは、最近、ここ数年で、また考えが変った。
なので、わたしのブログは、お鮨屋さんでいうと、「時価」である。
その時、その時の意見、考えである。
高いときも、安いときも、正しいときも、マズイときも、ある。


熱々アツアツ恋愛と同じだ。
あの時は、本気で好きだったんだ、本気で本心で、こころから真剣に愛していたんだ、嘘はなかったんだ、と。
「あの時は」、、、である。

自分の書いたものに責任を持てなければ書くべきでない、というのが正論であるのは、重々承知。
ブログという形をとっているわけだから、結果的には公に発表するということになるが、
なんの影響力もない、ある、名もない一人の、その時その時の一感想文に過ぎない。
個人個人が、こう考える、とか、こう感じる、に対して、正解や不正解はないと考える。

ただ、そのキー、軸である個人自体が、ころころ考えが変っては、お話にはならない、って話だ。


・・・

アメリカは「成果主義である」と言われる。
それに対してヨーロッパは、「真理」を追究するという。
既成のもの、過去の栄光である、歴史あるヨーロッパと、新しい新勢力の新大陸アメリカ。(すでにもう過去だが)
アジアの台頭で、また大きく様変わりしているが、
見る目、誰が伝えるかによって、事実の捉え方が違う。

昔、子供のころ、西部劇を見ると、インディアンは悪い人で、ほろ馬車に乗った主人公の白人を弓矢で攻撃し、
白人、頑張れ、インディアンを早く倒せ、と、はらはらどきどき、応援していた。
が、侵略されているのはインディアンなわけで、あの見方、ストーリー仕立ては、一方的で不公平である。
明らかに誰の目から見てもおかしいのは、まだマシだが、
両方が双方、自分が正しいと言い張ると、ことは複雑、深刻となる。

民族間の問題になったり、わたしの書ける範疇を越える。

・・・

モノゴトが見えてくると、良いこともあるが、良くないこともある。
幽霊が見える人と、見えない人がいるように、霊界の人など見えても、気が滅入ることはあっても、なんの得もない。
ましてや、訴えかけられたりしても、あっち行ってよ!と、生きている世界の人とだけお付き合いしたいと思うだろう。

それと似たようなかんじで、モノゴトが見え始めると、美しかったものや、ぼんやりしか知らなかったことも見えて、
見えなければよかった・・・と感じることも少なくない。
自分の日常、身の回りのほんの少しのことだけに気をとられて暮らすのが、いちばんの幸せのように思う。

細川さんのように、75歳を過ぎて(昨日で76歳!)、
陶芸や書の世界にどっぷり浸かって余生を味わう、粋人、趣味人の究極の贅沢を捨て、
また火の中に身を投じる人もいるのだなあ・・・と、不思議なような、
なかなか若々しいステキな人だなあ・・・と感じたり。
あんな人、まわりにいない。
熊本まで行かなければ、殿様のお城まで行かなければ、お目にかかれない。(彼は東京生まれ、東京育ちのようだが)
が、あの年になって、悠々自適の身を投げ捨ててまで、立候補というのは、
よほど、この国を見捨てられない思いに駆られたのだろう。

・・・

偉業は、偉人に任せるとして。
凡人である幸せは、凡人の特権である。
幸福は究極を追い求めては、幸福になれない。
ほどほどの幸福が、究極の幸福であると、わたしは思う。

で、そこで求めるのが、究極の無駄。(出ました!)
これって、なぜが、楽しいんです。
意味がないことが、楽しいことであり、それ自体が意味がない。
意味のないスパイラル。

ということで、テーマは、究極の無駄、であるが、今日は、もうお時間。
毎日、入り口のところで引き返す、究極ではない無駄、小規模な無駄、ちっぽけな無駄、
ということで、今日は、またまた中途半端に、おしまいです。


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