軸
2014-01-28 | 人生
人って、積算すると人生でトータル、同じ値なのだ。
素晴らしい人は、短命。
そうでもない人は、長生き。
短距離と長距離。
眉目秀麗、性格最高、気遣いの人。
かたや、どれをとっても、ふつう、回りなど、ほとんどかまわないマイペースの人。
卓越エクセレントな人と、凡人。ハンデのある人もいる。
わたしは、憧れることはあっても、勝負しようなどという気には、まったくならない。
なぜか?
フィールドが違うから。
というか、もし、同じフィールドで競争しなければならないとすると、悲惨だ。
学生時代は、学力や人望、人気など、無理やり、どの子も同じ舞台に立たされた。
学生なのだから、当然、主に評価は学力。
学生時代が終わると、べつに、競争させられないから、とても平和だ。
と思いきや、またまた社会でもレースは続く。
・・・
ほんの一時期、わたしとほとんど同じタイプのフィールド、人生を歩いていて、
ほんの少しだけ、向こうのほうが、最初から一歩お得な人がいた。
競争するのに、最初から、数メートル前からスタートしていた。
その時は、腑に落ちない、不公平感を感じた。
が、今では、ぜんぜんだ。
その後、幾枝にもコースは別れる。
先に行っていたからと、やっかんでも、二周目三周目四周目で追いつき、追い越すこともある。
しかも、追い越す必要もない。
コースを降りる選択だってある。
「ごくろうさん。わたし、やめますわ」
そして、トラックの外の観客席から応援する場合もあれば、
「まだ、やってんの?」と冷ややかな、ある種の優越感に浸ることもある。
たとえ人から見て、負け犬の遠吠えに見えても。
どうみても、どう逆立ちしても勝てない人がいても、勝とうという気がない。
勝負する気も、比べる気もない。
わたしは、人生レースから降りてしまったのだろうか。
おそらく、自分のスタンスのようなもの、軸を持つことができたのだと思う。
自分の足で立つと、周りは、さほど気にならない。ぐらぐらしない。
なので、観客になってみたり、応援してみたり、客席でお弁当を食べてみたり、余裕で、いろんなことができる。
自分の足で立つまでが、たいへんなのだが。
これは、あくまでも精神的自立である。
たとえ、四肢が不自由であっても、病気であっても、人のお世話になっていたとしても、
精神的に一人で立てているかどうか。
しかし、一人では生きることはできない。生きている限り、感謝は不可欠である。
いくつになっても、年齢が高くても、自立していないと思われる人もいる。
超高齢の頃になって、ようやく、気がつく人もいるし、気がつかないまま、あの世に行く人もいる。
だからといって、そう、事態や状況が変るものではない。
ただ、自分の見る目が変るだけだ。
素晴らしい人は、短命。
そうでもない人は、長生き。
短距離と長距離。
眉目秀麗、性格最高、気遣いの人。
かたや、どれをとっても、ふつう、回りなど、ほとんどかまわないマイペースの人。
卓越エクセレントな人と、凡人。ハンデのある人もいる。
わたしは、憧れることはあっても、勝負しようなどという気には、まったくならない。
なぜか?
フィールドが違うから。
というか、もし、同じフィールドで競争しなければならないとすると、悲惨だ。
学生時代は、学力や人望、人気など、無理やり、どの子も同じ舞台に立たされた。
学生なのだから、当然、主に評価は学力。
学生時代が終わると、べつに、競争させられないから、とても平和だ。
と思いきや、またまた社会でもレースは続く。
・・・
ほんの一時期、わたしとほとんど同じタイプのフィールド、人生を歩いていて、
ほんの少しだけ、向こうのほうが、最初から一歩お得な人がいた。
競争するのに、最初から、数メートル前からスタートしていた。
その時は、腑に落ちない、不公平感を感じた。
が、今では、ぜんぜんだ。
その後、幾枝にもコースは別れる。
先に行っていたからと、やっかんでも、二周目三周目四周目で追いつき、追い越すこともある。
しかも、追い越す必要もない。
コースを降りる選択だってある。
「ごくろうさん。わたし、やめますわ」
そして、トラックの外の観客席から応援する場合もあれば、
「まだ、やってんの?」と冷ややかな、ある種の優越感に浸ることもある。
たとえ人から見て、負け犬の遠吠えに見えても。
どうみても、どう逆立ちしても勝てない人がいても、勝とうという気がない。
勝負する気も、比べる気もない。
わたしは、人生レースから降りてしまったのだろうか。
おそらく、自分のスタンスのようなもの、軸を持つことができたのだと思う。
自分の足で立つと、周りは、さほど気にならない。ぐらぐらしない。
なので、観客になってみたり、応援してみたり、客席でお弁当を食べてみたり、余裕で、いろんなことができる。
自分の足で立つまでが、たいへんなのだが。
これは、あくまでも精神的自立である。
たとえ、四肢が不自由であっても、病気であっても、人のお世話になっていたとしても、
精神的に一人で立てているかどうか。
しかし、一人では生きることはできない。生きている限り、感謝は不可欠である。
いくつになっても、年齢が高くても、自立していないと思われる人もいる。
超高齢の頃になって、ようやく、気がつく人もいるし、気がつかないまま、あの世に行く人もいる。
だからといって、そう、事態や状況が変るものではない。
ただ、自分の見る目が変るだけだ。