ある人、Aさんは、いつも夢に出てくるのは、自分が小さい頃、育った家、という。
今は別の場所、別の家に住んでいるが、夢では、昔の家。
4軒長屋で、中心に井戸があり、
長屋の両端にトイレがある。
子供の頃、夜中にトイレに行くのは、怖いし、寒いし、すごく嫌だったそうだ。
お向かいも4軒長屋。
一番左端が、○○のおばちゃん、二番目は○○さん、三番目は○○さん・・・
端っこの○○さんの家には、優秀な大学生がいて、いつも勉強を教えてくれたとか。
大学生のお母さんが、お茶とお菓子を出してくれて、無料で近所の子供たちの勉強を見てくれていた。
Aさんの親御さんは、時折、その大学生の家になにか(お礼の気持ちで)モノを持っていったりしていたらしいが、
お互い、そのモノは目的でもなんでもない。
互助会みたいなものだ。
まさに、古き良き時代。
わたしは、映画か、漫画か、絵、人形作品などでしか見たことがない風景だ。
しみじみ語るAさんが、
「あなたは上流だから、なんて貧乏な暮らしだと思うでしょうね」と淡々とした口調に変る。
「はあ? なにを言ってるんですか。
上流というのは、細川さんや、旧財閥系の人々ぐらいなんじゃないですか?
その他は、上流でもなんでもないですよ」
と、わたしが、これまた淡々と言う。
「じゃあ、中の上」とAさん。
都会と田舎、中央と地方では、ライフスタイルが違うし、
上の家庭でも、もめごとや、喧嘩ばかりの冷たい家庭もあるし、
下の家庭でも、一致団結、明るい笑い声の家庭もあるし、
仮に経済事情で上下を分けるとしても、一概に、上下だけでは、どちらが幸せと決められないのでは?
現に昔の長屋暮らしの思い出を、楽しかったと回顧されているのだから、良い思い出、ご家庭だったのでは?
などなどと言っていると、そんなもんですかねえ・・・的な、うやむやなかんじで、話がどこかにまた流れていった。
ちなみに、Aさんは、「いなか」を持ち出すと、
町暮らし人であるご自分が、いなかモンに対して、なんとなく優越感を感じることができるようで、
町・田舎の切り口は、けっこう、お好きなようだ。
・・・
わたしがいつも夢に出てくるのも、昔の家だ。
田舎の家。リフォームする前の家と、リフォーム後の家。
かなり昔の家なので、今風のライフスタイルに大改造してある。
それと、町暮らしの家。これも、今はもう、家という形態ではなく変貌しているが。
自分が子供だった頃、その当時の家をよく思い出す。
前半は、ただっぴろい田舎。
井戸水に加え水道栓を追加、一部、汲み取り式から水洗トイレに、燃料もプロパンガスに、
大幅な改良が行われた。
冷蔵庫や洗濯機も購入され、
我々子供たちの誕生もあり、第一次、近代化リフォームである。
子供部屋の様子。
きょうだい3人でひとつの空間。
わたしと姉は、勉強机は作り付けのカウンター続き。
姉の座る前は、窓、わたしの座る前も窓。
一面の窓からは、菜園が広がり、もう一面からは、前庭、その遠景には鶏小屋や農具小屋のようなもの。
姉とわたしは、90度違う方向(直角の位置)に座るときもあれば、並んで座ることもあった気がする。
兄は、別に離れて、学習机があり、我々とは、背中側。兄の座る目の前も窓。
兄の窓からは、中庭、小さな人工池、その向こうには、遠くに廊下が見えた。
今、思えば、窓だらけ、庭だらけ、畑だらけだ。
子供部屋には白いカバーがかけられていた、スプリングの効いたソファと、ピアノがあった。
わたしが小学校高学年の頃に、父の仕事や我々の教育のため、町の家に軸足を移した。
そちらは、駅から即の、いきなり賑やかな商業地。
中間がない。
のんびり田園風景から商業地へと、いっきに景色が変った。
なんで、こう極端なの? 住宅地というものに、住んでみたかったと、その後、よく思ったものだ。
田舎の家もそれから、また第二次リフォームを行い、現在も実存するが、現在の家や庭の姿をまじっと見ながら、
第二次リフォーム後には消えた、リフォームする前の子供時代の部分を、まぶたの裏で復元させている。
過去と現在を上手につなぎ合わせたリフォームになっている。
子供の頃の家、うっすら覚えている。
お風呂は、祖母が薪か小枝で焚いてくれた。皆、早く順々に入らないと、追い炊きが大変。
(田舎の家には、たいてい、手作り味噌を貯蔵しておく味噌部屋や、薪や枝木を入れる薪部屋、みたいなものがある)
どこかのタイミングで、ガスに切り替わったのかも知れない。
でないと、祖母が大変すぎる。
・・・
なんだか、思い出してあれこれ書いても、はっきりしない箇所も出てきて、
思い出すのに時間がかかる。
にもかかわらず、次のスケジュールが迫ってきていて、のんびり回顧タイムに浸っている場合ではない。
書くのに時間はかかるが、読み物としては、ぜんぜん、おもしろくないし。
自分だけ楽しいっていうことだ。
ということで、中途半端ながら、
本日は、書き逃げいたします。
今は別の場所、別の家に住んでいるが、夢では、昔の家。
4軒長屋で、中心に井戸があり、
長屋の両端にトイレがある。
子供の頃、夜中にトイレに行くのは、怖いし、寒いし、すごく嫌だったそうだ。
お向かいも4軒長屋。
一番左端が、○○のおばちゃん、二番目は○○さん、三番目は○○さん・・・
端っこの○○さんの家には、優秀な大学生がいて、いつも勉強を教えてくれたとか。
大学生のお母さんが、お茶とお菓子を出してくれて、無料で近所の子供たちの勉強を見てくれていた。
Aさんの親御さんは、時折、その大学生の家になにか(お礼の気持ちで)モノを持っていったりしていたらしいが、
お互い、そのモノは目的でもなんでもない。
互助会みたいなものだ。
まさに、古き良き時代。
わたしは、映画か、漫画か、絵、人形作品などでしか見たことがない風景だ。
しみじみ語るAさんが、
「あなたは上流だから、なんて貧乏な暮らしだと思うでしょうね」と淡々とした口調に変る。
「はあ? なにを言ってるんですか。
上流というのは、細川さんや、旧財閥系の人々ぐらいなんじゃないですか?
その他は、上流でもなんでもないですよ」
と、わたしが、これまた淡々と言う。
「じゃあ、中の上」とAさん。
都会と田舎、中央と地方では、ライフスタイルが違うし、
上の家庭でも、もめごとや、喧嘩ばかりの冷たい家庭もあるし、
下の家庭でも、一致団結、明るい笑い声の家庭もあるし、
仮に経済事情で上下を分けるとしても、一概に、上下だけでは、どちらが幸せと決められないのでは?
現に昔の長屋暮らしの思い出を、楽しかったと回顧されているのだから、良い思い出、ご家庭だったのでは?
などなどと言っていると、そんなもんですかねえ・・・的な、うやむやなかんじで、話がどこかにまた流れていった。
ちなみに、Aさんは、「いなか」を持ち出すと、
町暮らし人であるご自分が、いなかモンに対して、なんとなく優越感を感じることができるようで、
町・田舎の切り口は、けっこう、お好きなようだ。
・・・
わたしがいつも夢に出てくるのも、昔の家だ。
田舎の家。リフォームする前の家と、リフォーム後の家。
かなり昔の家なので、今風のライフスタイルに大改造してある。
それと、町暮らしの家。これも、今はもう、家という形態ではなく変貌しているが。
自分が子供だった頃、その当時の家をよく思い出す。
前半は、ただっぴろい田舎。
井戸水に加え水道栓を追加、一部、汲み取り式から水洗トイレに、燃料もプロパンガスに、
大幅な改良が行われた。
冷蔵庫や洗濯機も購入され、
我々子供たちの誕生もあり、第一次、近代化リフォームである。
子供部屋の様子。
きょうだい3人でひとつの空間。
わたしと姉は、勉強机は作り付けのカウンター続き。
姉の座る前は、窓、わたしの座る前も窓。
一面の窓からは、菜園が広がり、もう一面からは、前庭、その遠景には鶏小屋や農具小屋のようなもの。
姉とわたしは、90度違う方向(直角の位置)に座るときもあれば、並んで座ることもあった気がする。
兄は、別に離れて、学習机があり、我々とは、背中側。兄の座る目の前も窓。
兄の窓からは、中庭、小さな人工池、その向こうには、遠くに廊下が見えた。
今、思えば、窓だらけ、庭だらけ、畑だらけだ。
子供部屋には白いカバーがかけられていた、スプリングの効いたソファと、ピアノがあった。
わたしが小学校高学年の頃に、父の仕事や我々の教育のため、町の家に軸足を移した。
そちらは、駅から即の、いきなり賑やかな商業地。
中間がない。
のんびり田園風景から商業地へと、いっきに景色が変った。
なんで、こう極端なの? 住宅地というものに、住んでみたかったと、その後、よく思ったものだ。
田舎の家もそれから、また第二次リフォームを行い、現在も実存するが、現在の家や庭の姿をまじっと見ながら、
第二次リフォーム後には消えた、リフォームする前の子供時代の部分を、まぶたの裏で復元させている。
過去と現在を上手につなぎ合わせたリフォームになっている。
子供の頃の家、うっすら覚えている。
お風呂は、祖母が薪か小枝で焚いてくれた。皆、早く順々に入らないと、追い炊きが大変。
(田舎の家には、たいてい、手作り味噌を貯蔵しておく味噌部屋や、薪や枝木を入れる薪部屋、みたいなものがある)
どこかのタイミングで、ガスに切り替わったのかも知れない。
でないと、祖母が大変すぎる。
・・・
なんだか、思い出してあれこれ書いても、はっきりしない箇所も出てきて、
思い出すのに時間がかかる。
にもかかわらず、次のスケジュールが迫ってきていて、のんびり回顧タイムに浸っている場合ではない。
書くのに時間はかかるが、読み物としては、ぜんぜん、おもしろくないし。
自分だけ楽しいっていうことだ。
ということで、中途半端ながら、
本日は、書き逃げいたします。