わたしは、年相応よりももっとボケていて、(じつは、若い時から天然)
おそらく、ブログには、なんども同じコトを書いているだろう。
なので、ああ、またか、とお思いの方は、こころやさしくスルーしてください。
人間は、同じことを何度も何度も言いたくなるようだ。
なぜなのだろう。
一度や二度、吐き出せば、そこそこスッキリするのではないのか?
だが、何度も何度も何度も、呪文か、お経のように、同じ話をすることがある。
わたしもおそらく少しぐらいは、心当たりがあるが、年を重ねると、その傾向が益々大きくなるようだ。
高齢の人にはよくある行動で、不思議でもなんでもない。
だが、これを毎回毎回、聞かされると・・・けっこう、こたえる。
こちらに蓄積してしまう。
なので、ヒアリングの電源を一旦オフにするといい。あるいは消音に切り替える。
ああ、またはじまった、ちょっと音を小さくしよう。
そうして、なにかの折に、うなずく。
「ふうむ、そうなんですね」
「たいへんでしたね」
「すごいですね」
適度に相槌を打つ。
プライドの根源を否定するようなことも、しない。
・・・
口から出るのは、楽しかった頃の思い出とかではない。
ある人は、苦しかったことや、悔しかったこと、そういうことばかり。
いまは、幸せなんだから、もう、いいではないか。
そう思うが、そうでもないのか。
今の幸せをかみ締めたいから、逆に、昔の苦しかったことを思い出して、その逆差に喜びに浸りたいのか。
そういうふうにも、見えない。
あるいは、自慢を言うと、人に嫌われるので、自ずと、辛い経験を話すのだろうか。
苦しい体験のほうが、同情や同調を得やすいのか。
・・・
人生のピークだった頃の話をしたがる人も多い。
リタイアして長いのに、現役時代の活躍していた話。いきいきした表情になる。
それはそれで、いいとわたしは思う。
自分の話したいことを自然に話すのは、こころを開放させ、精神衛生上、オススメだ。
文字を操る人は、書いてナンボ、で、快感を得ていることもある。
皆、そうやって、自分のガス抜きをする。
が、できない人もある。
気を使ったり、こころを許せる人がいなかったり、閉塞感に苛まれる。
・・・
わたしは、人の話を聞くのは嫌いではない。
自分で話すのも嫌いではない。
ただし、自分本位の話し方なので、自分の頭の中ではつながっているが、
聞く人は、文脈がバラバラで理解に苦しむようだ。
ブログも然り。
反省。
話し手が、話している話を順序よく組み立てられず、支離滅裂で意味がおかしくても、
聞き手が、話し手の言葉の使い方を(聞き手の)頭の中で修正したり整理したり、不足分を補って汲み取って理解してくれる、
そういう聞き手ばかりと話していると、
話し手は、話し方を考えたり、修正したり、改善する能力がどんどん低下する一方だ。
というようなことを、娘に言われた。
この場合、話し手は、わたしのこと。聞き手は、娘のこと。
これは、いつも言われることである。
「おかあさんの話は、わかりにくい。
いつまでも改善する努力をしないのは、まわりに、わかりにくいのに、補い理解できる人がいるから」
いつも強力なサポーター、自分を補ってくれる人がいると、能力的にも努力的にも、スポイルされるわけである。
ある程度の高齢になると、仕方ないが、わたしの年齢では、とりあえず、叱られる。
苦言の対象となる。
「だってぇ~。もう年だしぃ~」と、よろけてみても、容赦ない。
なので、わたしは、高齢のひとたちには、けっこう甘い。
どうぞどうぞ、ぞんぶんに、よぼよぼになってください。
そんなに頑張らなくてもいいですよ、と思ってしまう。
が、年寄り特有の我侭、自己チューが鼻につくと、放置する。
そのあたり、まだ、わたしには、寛容なこころ、忍耐力、包容力に欠ける。
修業中。道、まだ途中。
・・・
話は元にもどって・・・
人が楽しそうに話すのは、聞いていて、嫌な気はしない。
なので、本人が話したいことを話してもらうのが一番いい。
それが、たとえ、苦しい時代の話ばかりであっても、それはそれでいい。
本人が、生きている今を実感できれば、いい。
感情を吐き出すことは、脳の活性化にもつながるのかも知れない。
まだ、そこまで高齢でない、中途半端な、年寄りが、ややこしい。
(わたしを含む)
都合のいい時だけ、「年だから」という。年齢枠・免除を申請する。
まあ、それはいいとして、
人が自由に話す内容は、その人の人生が出る。
自由なテーマにすると、なおさら。
限られた話題だと、わかりにくいが、話したい話を自由に話してもらうと、今までの軌跡のようなものが、よくわかる。
これはなにも、年齢によらないのかも知れないが、
高齢ではない人は、まだまだ自分の社会的義務に振り回される要素が多いので、話したい内容が変ってくる。
お仕事をされていない、お子さんのいない主婦の方は、また違う。
子供あり有職主婦とは、違う。
リタイアされている男女も、また違う。
老若男女、既婚か、非婚かで、また違う。
興味の対象が、違う。
・・・
人は、いろんな側面を持ち、年齢が上がるにつれ、デフォルメされる。
だから、面白い。
面白くない人もいて、面白くなさ過ぎて、それはそれで、面白い。
各自、意識の持ちようで、同じ状況でも、千差万別。
・・・
ああ、ちっとも、話のオチがない。
延々、続けても、まとまりそうもない。
で、なにが言いたい?は、次の機会に考えるとして、
今日は、ここで、書き散らし、散らかしたまんま、終りです。
おそらく、ブログには、なんども同じコトを書いているだろう。
なので、ああ、またか、とお思いの方は、こころやさしくスルーしてください。
人間は、同じことを何度も何度も言いたくなるようだ。
なぜなのだろう。
一度や二度、吐き出せば、そこそこスッキリするのではないのか?
だが、何度も何度も何度も、呪文か、お経のように、同じ話をすることがある。
わたしもおそらく少しぐらいは、心当たりがあるが、年を重ねると、その傾向が益々大きくなるようだ。
高齢の人にはよくある行動で、不思議でもなんでもない。
だが、これを毎回毎回、聞かされると・・・けっこう、こたえる。
こちらに蓄積してしまう。
なので、ヒアリングの電源を一旦オフにするといい。あるいは消音に切り替える。
ああ、またはじまった、ちょっと音を小さくしよう。
そうして、なにかの折に、うなずく。
「ふうむ、そうなんですね」
「たいへんでしたね」
「すごいですね」
適度に相槌を打つ。
プライドの根源を否定するようなことも、しない。
・・・
口から出るのは、楽しかった頃の思い出とかではない。
ある人は、苦しかったことや、悔しかったこと、そういうことばかり。
いまは、幸せなんだから、もう、いいではないか。
そう思うが、そうでもないのか。
今の幸せをかみ締めたいから、逆に、昔の苦しかったことを思い出して、その逆差に喜びに浸りたいのか。
そういうふうにも、見えない。
あるいは、自慢を言うと、人に嫌われるので、自ずと、辛い経験を話すのだろうか。
苦しい体験のほうが、同情や同調を得やすいのか。
・・・
人生のピークだった頃の話をしたがる人も多い。
リタイアして長いのに、現役時代の活躍していた話。いきいきした表情になる。
それはそれで、いいとわたしは思う。
自分の話したいことを自然に話すのは、こころを開放させ、精神衛生上、オススメだ。
文字を操る人は、書いてナンボ、で、快感を得ていることもある。
皆、そうやって、自分のガス抜きをする。
が、できない人もある。
気を使ったり、こころを許せる人がいなかったり、閉塞感に苛まれる。
・・・
わたしは、人の話を聞くのは嫌いではない。
自分で話すのも嫌いではない。
ただし、自分本位の話し方なので、自分の頭の中ではつながっているが、
聞く人は、文脈がバラバラで理解に苦しむようだ。
ブログも然り。
反省。
話し手が、話している話を順序よく組み立てられず、支離滅裂で意味がおかしくても、
聞き手が、話し手の言葉の使い方を(聞き手の)頭の中で修正したり整理したり、不足分を補って汲み取って理解してくれる、
そういう聞き手ばかりと話していると、
話し手は、話し方を考えたり、修正したり、改善する能力がどんどん低下する一方だ。
というようなことを、娘に言われた。
この場合、話し手は、わたしのこと。聞き手は、娘のこと。
これは、いつも言われることである。
「おかあさんの話は、わかりにくい。
いつまでも改善する努力をしないのは、まわりに、わかりにくいのに、補い理解できる人がいるから」
いつも強力なサポーター、自分を補ってくれる人がいると、能力的にも努力的にも、スポイルされるわけである。
ある程度の高齢になると、仕方ないが、わたしの年齢では、とりあえず、叱られる。
苦言の対象となる。
「だってぇ~。もう年だしぃ~」と、よろけてみても、容赦ない。
なので、わたしは、高齢のひとたちには、けっこう甘い。
どうぞどうぞ、ぞんぶんに、よぼよぼになってください。
そんなに頑張らなくてもいいですよ、と思ってしまう。
が、年寄り特有の我侭、自己チューが鼻につくと、放置する。
そのあたり、まだ、わたしには、寛容なこころ、忍耐力、包容力に欠ける。
修業中。道、まだ途中。
・・・
話は元にもどって・・・
人が楽しそうに話すのは、聞いていて、嫌な気はしない。
なので、本人が話したいことを話してもらうのが一番いい。
それが、たとえ、苦しい時代の話ばかりであっても、それはそれでいい。
本人が、生きている今を実感できれば、いい。
感情を吐き出すことは、脳の活性化にもつながるのかも知れない。
まだ、そこまで高齢でない、中途半端な、年寄りが、ややこしい。
(わたしを含む)
都合のいい時だけ、「年だから」という。年齢枠・免除を申請する。
まあ、それはいいとして、
人が自由に話す内容は、その人の人生が出る。
自由なテーマにすると、なおさら。
限られた話題だと、わかりにくいが、話したい話を自由に話してもらうと、今までの軌跡のようなものが、よくわかる。
これはなにも、年齢によらないのかも知れないが、
高齢ではない人は、まだまだ自分の社会的義務に振り回される要素が多いので、話したい内容が変ってくる。
お仕事をされていない、お子さんのいない主婦の方は、また違う。
子供あり有職主婦とは、違う。
リタイアされている男女も、また違う。
老若男女、既婚か、非婚かで、また違う。
興味の対象が、違う。
・・・
人は、いろんな側面を持ち、年齢が上がるにつれ、デフォルメされる。
だから、面白い。
面白くない人もいて、面白くなさ過ぎて、それはそれで、面白い。
各自、意識の持ちようで、同じ状況でも、千差万別。
・・・
ああ、ちっとも、話のオチがない。
延々、続けても、まとまりそうもない。
で、なにが言いたい?は、次の機会に考えるとして、
今日は、ここで、書き散らし、散らかしたまんま、終りです。