先々週末、一族旅行では、三ノ宮〜有馬に行った。
有馬温泉は、とても親近感を覚える。
自転車で行けるスパ健康ランドぐらいの、精神的近さ。
まるで庭感覚。
物理的、地理的には、結構遠いが、精神的にはほんのすぐそこ、小さい時から慣れ親しんだ、わたしの故郷の市にある。
ちなみに、なぜか、中学生の時のワタシのギャグが、「アリマ〜、おんせん」だった。
全く誰にもウケないのに、スルーなんかなんのその。強靭、タフ、鈍感。
いつも、驚きの感嘆時に、「アリマ〜、おんせん!」と言っていた。
中学生というものは、恥を知らない年頃である。
わたしはお笑い系キャラ実践を中学卒業までやっていた。
ちょっとだけ、「新しい学校のリーダーズ」ティストかも知れない。
※ご存知ない方は年末のNHK紅白歌合戦で確認してください。
というか、彼女たちは、昭和のノリを表現しているらしいが。
と、トップ写真の説明をまず。
あとは、いつものように、ダラダラと。
ところで、どなたかがまたもや、蝶ブログ記事を何やらに引用してくださったのか、まるで謎だが、閲覧数に乱れがある。
もう慣れたかというと、慣れない。
静かにブログ生活を送っているわたしとしては、自分の力でもない閲覧数の上下に振り回されるのは望んでおらず、どなたかは存じないが、あまり奇抜なことはなさらないでいただきたい。
いたいけない年寄りをからかってはイケナイ。
と、書いていても、閲覧数は明日にもまた元に戻り落ち着くのは目に見えている。
それはそれで、所詮、遊びの世界。
アップダウンも遊びのメリハリの一つ。
何年か周期のバイオリズム。
まあそれは良いとして。
さて。
昨夜、3番目孫I(6歳女児)に、「はい、ばあちゃんにお手紙!」と封書のお手紙を手渡された。
大きなディズニーのプリンセスキャラ・シールで、ペタっと封がしてある。
中には3枚の便箋。
各々違う絵柄の便箋で、1枚1枚、折り畳んである。
それぞれに文章と絵。
1枚は、「ばあちゃんへ トランプとかしようね。日本語で遊ぼうね(→諺カルタ)」
の文字と、テーブルの両端に椅子を向かい合わせに並べて、Iとわたしがにこやかに座っている絵。
髪型が、Iと、わたし。2人とも特徴がある。
また1枚は、「ばあちゃんへ ごはんつくってくれてありがとう」の文章と、大きなハートマークが2つ。
さらに1枚には、「ばあちゃんへ だいすき ありがとう」の文字に、ハートの中に「だいすき」と書かれていた。
じわ〜、じ〜ん、、、と来た。
保育所の先生にもお友達にも、パパやママにも同じような手紙を大量に書いているのは知っているが、、、。
(いつも、レターセットとシールをせがまれ、親は買わされている。
旅のお土産もレターセット)
あまり文章の意味もよくわかっていないだろうけれど、嬉しいものだ。
国や協会からの公の感謝状より(もらったことないが)、恋人からのラブレターより(もらったことないが)、じーんと来る。
男の子の孫たちは、全くそういうことはしないが、Iの個性なのだろう。
お絵描きや文章作り、最近は絵付き物語を用済みの紙を利用して、製本の形にして遊んでいる。
さすが、女の子!(と、ジェンダー意識は根強く消えず)
男の子がストーリーに興味なく、たまたまだったのかも知れないが。
パパ(娘婿)が前に作った「鳥さんのお話」絵本が、ものすごく秀作で面白かった。
Iと何度も読み直して、ゲラゲラ笑っていた。
愛嬌のある、とぼけた良い味を出す鳥のお話。
セリフのない、絵だけのシンプルなストーリーだった。
パパはなかなかセンスがある。
(と、身内をべた褒め)
と、話は脱線。
子供の成長には色んな伏線的なものがある。
後には、スポーツに熱中して、お絵描きやお手紙など、全く興味を持たなくなるかも知れない。
一過性の一時期の、通り過ぎるあれこれを身近に感じられて楽しい。
嬉しいことばかりではなく、悩みや困難も必ず出て来るだろうけれど、役には立てないにしても、そっと見守りたい。
というか、第一線を退いている祖父母の立場は実に気楽だ。
良いとこ取り。
口も手も出さず、そっと楽しませてもらう。
期待しない時に突然、お手紙をもらったり。
お得な役割をさせてもらっている。
姑とその孫たちを見てもよくわかる。
祖母たちや孫たちの姿を見て、やがて、時は過ぎ変化するのは、よくよく知っている。
孫と祖母の甘い関係は時と共に形を変えるのは、当たり前のこと。
時は待ってくれない。
それだけに今が愛おしい。
涙がじんわり。
じつに切ないものだ。
と、またまた天然の涙で目の洗浄。
セルフセラピーになっている。