蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

退屈

2014-02-04 | 暮らし
人の目を気にしないブログなどありえない。
それはブログではない。
アップする前の草稿中の記事ならわかるが。

「こんな記事、つまらなくて、ごめんなさい」
と、誤ったとする。
誰に謝っているかというと、読み手に、である。
面白いかも知れないという期待を抱かせて、じつに、つまらん場合の落胆、幻滅、時間返せ感、
まあ、無料だし、責任は負いかねます。

無料の強さ、弱さ。
やはりプロはすごい。
しょせん、無料は、無料。

しかしながら、わたしのブログは、ごく稀に、面白いものがある。
ただし、それはゲリラ的に、ある日、突然、現れる。
だから、毎日チェックしないと、安定供給はありえない。
(謙虚風ひとりツッコミ、やめました)

・・・

そもそもわたしは、ムラっけがある。
どうも、脳の血管が一部、詰まっているか、神経が一部、混線、故障していると思われる。
本人は、いつも、同じつもりなのだが、何事にもムラがある。
といっても、「天才と紙一重」枠とまでいかず、通常一般ノーマル範囲内・凡人枠だが。

・・・

時間は、ありすぎるとよくない。
少なすぎるとストレスが溜まる。
ぴったり、ちょうど、なんて、ありえない。
そんなもんだ。

あまりすぎる時間があった時、ネット遊びにも飽きて、パソコンの電源を切る、、、、
わたしにとっては、勇気がいることである。
冬の寒い時期、布団から出られないでいる、その状態に似ている。
えいっと、布団を跳ね除ける勇気。
でもまた、しばらくして、そお~っと掛け布団をかけ直す場合もある。

で、話は脱線していて・・・
パソコンの電源を切ると、豊かな時間が広がることがある。
これは、ごくごく最近経験したこと。
自分で考え、感じる、フリーハンドで描く自由時間。
さて、なにをしようかな。
いつも、時間がなくて、あるいは、面倒で、ほったらかしていること、そういうことに手をかける。
あるいは、新しいことに着手する。

・・・

ある知人が、いつも表現する言葉がある。
「退屈をまぎらわせるために、○○している」
退屈な時間を過ごすことが多いそうだ。
家でいても、退屈だから・・・とか、なにもすることがなくて退屈だから・・・とか、
わたしにとっては、ありえないことをおっしゃる。

わたしは、退屈をすることは決してない。
退屈=即、寝る
なにもすることがないと、寝てしまう。退屈な時間は、即、睡眠時間に変更され、覚醒していない。
退屈を味わうヒマがない。

早く寝ると、翌日は、早く目が覚めて、好きなことができる時間が増えるだろうと、楽天的に予想するが、
なぜか、早く寝ても、起きるのは、いつもと同じ時間。
早く寝た分だけ損したのか?
せっかく、ころがりこんだ時間、なんの得にもなっていない。

・・・

退屈という表現が、しっくりしない。
わたしの辞書には「退屈」という言葉はない。
その代わりに使われるのが、「つまらない」「虚無」「こころ踊らない」「興味がない」
「ノリがない」「気乗りがしない」「モチベーションが低い」「面白くない」「味わいがない」。
退屈と感じるのは、充実感がないとき。時間の無駄遣いをしていると思うとき。
まったく、なにもすることがなくても、退屈と感じないときもある。
逆に、それが究極の贅沢と感じることだってある。

あれれ、この内容、一度、書いたような気がしてきた。
あら、ごめんなさい・・・と条件反射のように言うのもなんだが。
(いや、くまなく隅から隅までわたしのブログを読んでいる人はいないだろうから、何度書いてもいい、と、
楽観的な確信犯は思う)

・・・

たんに言葉の使い方、ニュアンスが人によって微妙に違うだけだろう。
わたしと同じような意味合いに使っているのかも知れない。
あるいは、人によって、ライフスタイル、人生観によって、退屈観は違うのかも知れない。


なにもすることがない時間・・・これは、自由時間なわけだ。つまり、黄金の時間だ。
退屈しているヒマなど、ない。
なので、やはりわたしの辞書には、「退屈」はない。

前にも書いたが、退屈がキッカケで、面白い発想が生まれるかも知れないが、
未成年や、未熟な大人の、危険な非合法の世界に走るキッカケにもなりかねない。
各自、こころは、自分のもの。
身体とともに、大切に。
宝のように扱わなければ、自分で丁寧に愛情を持って手入れしなければ(=メンタル・セルフケアです)、
だれも、そこまで大切に扱ってくれない。




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はてな

2014-02-03 | 日々のこと
とある趣味関係のSNS。
顔をアップしている人が、けっこういる。
わたしは、当然ながらアップしていない。
死んでもアップなどしない。
究極の個人情報だから。
しかし、考え方、感じ方は、いろいろあって、ひとそれぞれ。
アップするのが、おかしいわけではない。

で、そのアップしている人の顔を趣味の場(リアル社会)で、ちらほら見かける。
友人でもないし、気に入られてもいない他人なのに、その人の日記も読み放題。
その人の日記がまた、驚くべきことが書かれている。
なにかというと、他人の悪口。
名前こそ出していないが、趣味の仲間なら、すぐ、ああ、あの人のことね、とわかる。

まるで、子供だ。
人の悪口を、しかも、仲間内だけとは言えど、誰とわかるようなことを、堂々とアップするなんて、
わたしには理解できない。
内部事情も、ばらしまくり。
しかも、自分は、いつ、どこどこに顔を出します、みたいなことも公開している。
これって、わたしみたいに、覆面さんが、ごろごろしていたら、どう見ても、一方的情報の流れで、むこうは損だと思うのだが。
なぜ、そんな、アカの他人、不特定多数の人々に、自分のことをリアル世界で公開するのか、ほんとうに理解に苦しむ。
弊害はあっても、利点などないように思うのだが。
世の中、人には、いろんな人がいる。
わたしが、ヘンなのか?
実名、実顔写真アップのフェイスブックのようなものか。
なら、わたしがやはり、おかしいのだろう。

おかげで、わたしは、その人を知りもしないのに、大嫌いになっている。
話したこともないのに、毛嫌いしている。
そんな自分に不利になるようなことをどうしてするのだろうか?
不思議で不思議でしかたない。
もう、半世紀以上も生きてきた、大の大人なのに。

かっこつけて、いいカッコばかり、見栄を張って虚偽のことを書くならまだしも、
逆のこと、自分の評価を下げるようなことを書く真意がわからない。
それに同意する人々も、ちらほらいて、それも、わからない。
わからないだらけだ。

しかも、悪口グループのメインの賛同者である人は、わたしの日記にコメントを時折くれる人なのだが、
最近、リアルでごく近くに見かける、ある人物だと、うすうす気がついてきた。
そんな人には絶対に近寄らず、鉄のカーテン、鉄の塀を築き、絶対的な距離を保とうと思った次第だ。

知りもしない、わたしごとき他人に警戒されるなんて、ほんとうに、なんのためのSNSなのか、
さっぱり意味不明だ。

アタマの中には、はてなが、いっぱい。


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オチ

2014-02-02 | 人生
わたしの終活は、まったく進んでいない。
口だけ決意表明なら、しないほうがマシ・・・だった・・・。
が、まだまだ先は長い。

書きたいことが、たくさんあるが・・・事情があって書けない・・・。
書ける内容を探す・・・。
う~ん、う~ん、う~ん・・・

この、ブログ、なんだかヘンだ。
まあ、いい。

だが、去年のパリ行きで、いったん、閲覧数が、今までの過去2番目ぐらいに最低レベルに、がたんと減って、
そこから、過去最高に、せっかく増えた閲覧数を、みすみすわかっていながら減らすという、
そういう行為が、自分ながらに情けない。
といっても、かわいらしい、ささやかな数字で、密やかな楽しみであるが。

執着している。
適度な執着心は、根気や忍耐力を生み出すが、時として醜いこともある。
マイナスの効果をもたらすこともある。

もやもやなどを吐き出し、机の上に並べて、
どうやったら、もやもやが晴れるか、こころの整理をしているだけのブログなのだが、
似たようなこころの整理法を持っておられる方も、おられるのかも知れない。

・・・

日常生活のことは、あまり書かなくなった。
書いてもいいのだけれど、わたしの日常生活は、ブロネタとしては、つまらない。
書き方によって、演出したり、味付けしたりして、楽しくもなるだろうけれど、今は、あまりその気がない。
情報は非公開、秘密主義である。

そういいながらも、家族のことは、過去にさかのぼっても、ずいぶん書いている。
ただし、ある一定の側面からしか書いていない。
あえて、そうしているので、知らない方々には、大きな誤解を与え続けているかも知れない。
だが、料理法というものは、個人個人、好みがある。

・・・

文章を書く人は、ボケない、と、一般的には言われている。
わたしの場合は、例外である。
そもそも、若いときから、天然。
なので、ボケても家族や身近な人は、ぜんぜん気付かないと思う。
なんと平和な状況を長年かかって、わたしは築いてきたものだろう。


最近、ブログにオチがない。
さして考えなくて、そのままほったらかしている。
洋服でいえば、生地をまつったり、かがったり、始末せず、切りっぱなし。
人生も、オチがなくてもいいんじゃないかと思う。
日常の延長のまま、切りっぱなし。
終活も、きちんとしなくてもいいんじゃないか。

ストレスが溜まると、病気になるらしい。
自分がストレスフリーだからといって、自己チュー行動で、回りの人々にストレスを溜めさせては、不本意である。
大胆に、ではなく、臆病に、ストレスフリーを心がけている・・・と、大げさに、わざわざ、ちまちま決意しなくても、
いつもどおり。
いつもの天然。

日常の延長で、ある日、普通に一生が終われば幸せだろう。




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さらさら

2014-02-01 | 人生
なんでも、出来る間にやっておかなければ。
いつか出来るだろう、という、ほんのりした夢を抱くというのもいいが、
時期が来たら、行動に移さなければ、通り過ぎてしまう。
一生、夢に描くだけで満足な人は、それでいいだろう。
ひとそれぞれだ。

いつも、「ああしたい、こうしたい」と、口だけでちっとも行動に移さない人がいる。
その人は、口だけの夢のほうが楽だからだと思う。
実際に実行しようとすると、時間は作らなければいけないし、周囲の協力、段取りや、調整、お金の工面、
あれこれあれこれ、いっぱい、やらなければいけない。
ああ、めんどう。
アマタで空想しているだけのほうが、楽だし、その場で、内容も瞬時に変更したり取り消したりできるし、
ずっとずっと負担が少ない。
得るものも少ないが、どっちがいいかは、各、個人の好み、性格によるだろう。

いつでも出来る、なんて思っていると、一生出来ないまんまだが、
それはそれで、やんわりした、のんびりした、一生だ。
それこそ、ひとそれぞれ。
なにかの事情(物理的、仕事上、経済的、家庭的、身体的)で出来ないのか、
自分の気持ちが盛り上がらないから出来ないのか。
出来なくてもいいと、ハナから思っているからなのか。

別に出来なくてもいい。
やりたければ、やればいい。
それだけだ。
その人の一生は、その人のもの。
一生で多くの人と関わることにはなるだろうが、各自の一生は、各自のもの。

・・・

中でも、家族、親・配偶者・子供は、関わりが深い。
いくら、それぞれ、別個の人生といっても、切っても切れない。
ただし、配偶者は、切ることが可能。

日頃は、個々に活動、成り立っていても、
一致団結する場合もあるし、お互いが歯車になる場合もある。
いがみ合い、憎しみ合っているケースもある。

人の人生が、自分の人生に、めり込んでくる。覆いかぶさってくる。
自分の人生が、人の人生に、圧し掛かる。
お互い、助け合って生きているが、調整が難しい。

・・・

友人や仲間は、個々の人生同士、少し距離があり、うまいぐあいに関わると、負担が少なく良い効果を得られる。
が、家族は、濃厚。その分、絆も強い。
配偶者は変えられるが、親子は組み合わせをフレキシブルに変えることは出来ない。
最近は遺伝子検査で、親子でないことが発覚することもあるが、
普通に暮らしていたら、親子ではないのでは?と本気で感じないはず。
なぜ、真剣にDNA疑問を抱くのか? 検査を行うプロセスこそ、正常ではないと感じる。
実際に親子でないことが判明した場合、悪い結果ではあるものの、もやもやは解消されるだろうが、
親子であることが判明した場合、よけい、もやもやが増長して、悩みが深まる一方だと思われる。

・・・

が、あまり血に頼ると、おどろおどろしいことに、なりかねない。
血液は、さらさらのほうが、よい。
(さらさらには、玉ねぎが、いいそうだ)

・・・

なんの話だった?
あ、そうそう、「いつでも出来る」は、「いつまでも出来ない」の話。
ひとそれぞれという、話。

なんでもかんでも、ひとそれぞれ。
それじゃあ、話にならない。ポエム。

わたしは、めんどくさい場合、ひとそれぞれ、という。
反論があった場合、対処するのがめんどくさい。
「で、あなたは、そうなんですね。わたしは、こうなんです。あら、ひとそれぞれですね」
と、追及から逃げている。

人の意見や考えは、たたき台だと思っている。
人の考えに触れたとき、自分は、こう思う、反対、賛成、好感が持てる、好かん・・・などなどと、
自分の考えをまとめるための一種の下準備。
ゼロから考えると、ぴんと来ない場合、人の意見を参考にする。
なので、いろんな意見があって然り。
感銘、影響を受ける場合もある。


エネルギーの少ない人、多い人、ボルテージの低い人、高い人、
いろいろいるので、各自のお好みで調整して、(料理の塩加減と同じ)
それぞれに、やっていけばいい。

ただし、出来る間にやっておかないと、一生、出来ない。



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