蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

嘘かマコトか

2019-10-19 | 思い出
わたしの人生の大半は、嘘で固められている。
しかし、0〜10歳と90〜100歳は、嘘がないと思われる。
5分の4の人生は、嘘だらけ。
自分自身も嘘人間。

じつは、9歳ぐらいの時にはもう、しっかり嘘を平気でついていた。
小学校で書いた、父親をテーマにした作文。
最後の〆に、皆んなが〆る共通フレーズのように「わたしは、おとうさんが大好きです」と書いた。
家で父を前にして、作文を読んだ。
父の顔をちらりと見たら、父も決して笑顔ではなかった(ように見えた)。
嘘を見抜かれたかも知れない。
これは、複雑な父娘関係であるが。

作文当時は、あきらかに、オベンチャラで父を喜ばせようとして書いた。
子供の浅知恵だが、まあそんなもの。
が、色々なことを知るにつれ、成人してからは、ずっと父を尊敬していた。
しかし、ファザコンではない。
ただ、男性を父と比べてしまう。
そんなことをされると、世の中の普通の男性は一人も対抗できない。
父は、真面目で努力家で仕事熱心で、知的で、文系理系を併せ持ち、趣味も格調高く、家族想いで、家事もし、お金もたくさん稼いだ。
(滅多にないことだが、思いっきり自慢している。
ここで気がついたが、本気で自慢しているのに、ここまで賞賛、褒め称えて書くと、かえって嘘っぽい)
だが、堅物すぎて、柔らかい人が良いと思ったが、柔らかすぎるのは良くない。

結婚して実家を離れるまでは、明らかに煙たい存在だった。
男尊女卑、時代遅れの価値観を押しつけ、偏見と差別意識の塊だった。
女子は嫁に行ったらそれでおしまいだから、可愛がってもしょうがない、と、いつも苦い顔をして言っていた。
その割には、結婚後、女性が家に引っ込んでいる必要はない、と、女性の社会進出応援派だった。

良いところも、嫌いなところもあったが、わたしには偉大な父親だった。
昔の人はパワーが違う。真似できない。

と、話は大きく外れている。
あ、そうそう。
嘘だらけの人生の、一端が父親へのオベンチャラ作文だったというわけだ。
が、当時は照れながらも、本気も混じっていたと思う。
ひょっとすると本気なんだけど、照れて嘘っぽくしていたのかも知れない。
いや、あの頃のわたしは、自分の人生の中では最も低飛行していた時期の前夜だった。
10歳で、低飛行前夜って、マセている。
が、そのままの温度を半世紀以上保っている。
嘘だらけなのか、嘘がホントになったのか、ホントが嘘になったのかわからないが、とりあえず、今日も生きている。

価値観の違い

2019-10-18 | 日々のこと
またまた、こころが、はるか宇宙に飛んでいくほど離れて行った。
何の?
夫との考え方の違いに。

日常には程遠い、親戚でもなんでもない、お付き合いも過去、現在、全くない、顔を見たこともない、今後、お付き合いが展開されそうもない人の葬儀が重なったが、無理して出るそうだ。

夫は、冠婚葬祭の中でも、葬式系が大好き。
どんなに忙しく、体がキツかろうが、精神的にまいっていようが、スケジュールびっしりで身動きできなかろうが、絶対に可能な限り、葬儀に参列する。
告別式は大概、日中が多いので、勤務上、日中の告別式の代わりに、仕事の後の夜、お通夜に顔を出す。
親戚なら隅から隅の末端まで、仕事関係なら顔さえ知っていればその老いた天寿を全うされたご両親まで、知人の血縁者にも、細かく、漏らさず。

現在は、家族葬が段々主流になりかけそうな勢い。
まして、長寿の方々は、知り合いや友人、兄弟も皆んな先にあの世に行っているので、同世代の人は葬式には来ない。
仕事もしなくなって随分長いし、自治会にも出ていないので、職場、近隣、お付き合いもなし。
家族葬が、実情に適していると感じる。
わたしもぜひ家族葬にしてほしい。

自宅近隣の人も、近年では、亡くなって家族葬を済ませてから自治会に報告するように変わってきた。
町内会関係で式に出る必要がなくなって、ほっとしていると思う。

というご時世である。
田舎ではまだ、昔ながらの因習、風習を踏襲しているところもあるだろう。
が、少なくとも、わたしが生活している地域では、今風である。

で、、、
このような時代であるにもかかわらず、夫は、疲れた体にムチ打ち、這ってでもお葬式に出る、、、しかも、縁など薄い薄い人でも。

わたしに代わりに行ってほしいと頼まれることがある。
わたしは、二つ返事で引き受けるわけではなく、ものすごい葛藤が生じる。
顔も見たことのない、会ったこともない、当然、お付き合いもない、アカの他人の葬式には出たくない。
いくら時間が有り余っていたとしても。
お葬式というものは、亡くなった人を偲ぶなり悼むなり、哀しむなり、なんなりするもの。
全く知らない人なのに、代わりに出席するのは、意味がないと思う。
便利屋か?
わたしにとっては、義理もない。

じつは、わたしは延々と姑にこの役目をやらされていた。
わたしは、家の広報部として、仕事として請け負い行っていた。
見たこともない人の葬式。

仕事なんかでは、そういうことはあるかも知れないが。
仕事関係の人の、配偶者、親、子供。
顔を見たことがなくても。

考え方の相違。
付き合いを大事にする人と、付き合いの質を大事にする人の価値観の相違。
どちらも、人それぞれ。
それを他人に強要されると、深い溝に落ちる。
この人とは、やっていけないと強く感じる。

でも、生きて行く。

素晴らしい人には近寄れない

2019-10-17 | 日々のこと
素晴らしい人格の人は、素晴らしい。
そういう人のブログを読むと、あたかも自分も素晴らしくなったかのような御利益を受けるような気になる。
ありがたや。

では逆は?
憂さ晴らしや、独り言をブツブツ言っているブログを読んだら?
マイナーな気持ちになるかというと、しかし、不思議なことに、人は気の毒な話も好きである。 (災害被災等は除く)
共感というよりは、同情。
一歩半、自分の方が上にいたりする。
崖っぷちから見下ろして安堵する。
並列だとしても、安堵する。
今日がよければ、どうにか切り抜けられる。

少し満たされない思いがある時、素晴らしい人の素晴らしい話に触れても、あ、そう、よかったねー、わたしは、それどころじゃないわ、と、卑屈系に陥ることもある。
素晴らしい話は、余裕がある時、さらに余裕を増幅させ、幸せ度を増すには良いだろう。

わたしは、ヒネクレものなので、「あっそ、よかったねー(で、それがどうした?)」の口かも知れない。
だから(まともな、ちゃんとした)友達がいないのだろう。

友人?の話を聞くと、みなさん、好き好き勝手に話している。
人の話になど耳を傾けるでもなく、自分の話に同調させようとする。
これは、友人か?
ちなみに、夫もそう。
これは、夫婦か?

何十年も大恋愛をし続け連れ添う夫婦もいるのに。
思うに、類は友を呼び、素晴らしい人は素晴らしい人を呼び寄せ、また、自然に寄ってくる。
逆に、わたしのような、素晴らしくない人には、素晴らしい人は寄って来ず、素晴らしくない人とばかり縁がある。
いびつな形で、リンクし合っている。
(中には当然、素晴らしい方もおられます)

なぜか、その理由は自分が一番よく知っている。
わたしは、自分に欠点や弱点があることを熟知し、認め、受け入れているため、人の欠点や弱点も許すことができる。
だから、欠点だらけの人々と接することになる。
(ただし、欠点が長所を下回る場合。
欠点だらけで長所がない人とは、接点を持ちたくない)
それが嫌なら自分磨きをせよ。
ぐうたらだから、しない。
他人を認めていると、気づくと周りはダメ人間だらけ。
(と、これはダンス相手の話になりそうだ)

不思議なことに、周りには、僧侶の得度経験のある人もいて、人間はそれでいい、みたいな、相田みつをみたいなことを仰る。
かっこよく、体裁よく言えば、ありのままを愛する、ということ。
欠点を含めて、認める。

素晴らしい人には欠点は、ないのだろうか?
わたしには、よくわからないが、自分の意見を押し通そうとするケースに、よく出くわす。
実践力だとすると、欠点ではなく、長所なのかも知れないが。

まあ、いろいろな人がいて、いろいろあります。


もったいをつけるわけではないが

2019-10-16 | 日々のこと
昨日の記事は、自分の記事歴代ワースト3に入るぐらい、しょうもないものだった。
そういう自覚があるのに、非公開にしない、厚かましさ、ふてぶてしさ、無神経さは、わたしの開き直りキャラで、鉄のこころを形成している。

と、書きながら、この前書き、どんなものにも使えるなあ、、、と、にんまり。
もうはや二次使用を考えている。
わたしも歳なので、アタマの中味は無限ではなく、有限。枯渇は、すぐそこ。
と言いつつ、毎日、毎日、同じことを「新たに」(と本人は思っている)書いているやも知れぬ。
毎日、「昨日と同じことを書いているかも知れないが、決してコピペではなく、筆に墨をたっぷりつけて、今日も書いている」
と、書いているかも知れない。

というわけで、今日も書きます。

そもそも、昨日、書きたかったことは、あんなしょうもない、出先の出来ゴト憂さ晴らしではなく、もっとナイーブな問題だった。

今朝もまた涙した。
うーむと考えた。
わたしの涙は、少し他の人と違う蛇口を捻ると出るようだ。
絶対に共感、シェアは不可能だと断言できる。
自分でもわかっている、そんなことを書いて、何か楽しいことがあるか?
読む人にとって、何か得るもの、感動するもの、こころが動くものがあるか?
あるわけない。
もしあるとすると、読んだ時間がもったいなくて、無益なことをした後悔、自己嫌悪を提供するだけだ。
と、まあ、延々、またまた序奏、助走。

べつに、もったいをつけているわけではない。
躊躇しているのだ。

・・・

やっぱり、やめる。
書きません。
自分のこころの中で、主観のわたしと、客観のわたし、二人だけの会話にいたします。

若い美人に席を占領された怨みは、しつこい

2019-10-15 | 日々のこと
昨日は、とあることで涙がポロリンとこぼれた。
台風被害が甚大な地域もある中、超自分個人の内情による涙である。
読書感想や映画感想、人の様子を見て、とかではなく、自分の昨日、体験したばかりのことに付随する涙、苦味、苦しみ。
しかも、内容に関しては伏せるつもりだ。
これだけで、99%の人は、ここで読む意義、興味を失ったことだろう。
残り1%の人は、最後の行、まとめのところだけ、律儀に義理堅く、目を通してくださる(わたしにとって)殊勝な方であるに違いない。

それにしても前置きが長い。
わたしの人生そのものだ。
内容はほんのわずか、少し。
包装やら放送やらが、やたら多く、ほとんどを占めている。
と、こういうのも前置きの一部。
無駄なものなのだが、無駄こそ大きな意味、価値を生み出すこともある。

と、話は逸れまくり。

で、超個人的な涙の話を書きたいのだが、電車の座席、目の前に座る、ピンク系メークを施したお若い美女が気になって、気になって。
すこぶる美しく、組まれたおみ足もスラリと超絶美しい。
こんな美しい人の前のシートに、わたしは冴えない女性3人と座っている。
じつは、視界から消え去って欲しいのだが、乗り換え駅、最大候補の駅で彼女は降りなかった。
つまり、多分、終点まで一緒か。げんなり。
こんな美女なのに、わたしに疎まれるなんて、とんでもなく、そんな筋合いもない。
たんに年老いた、さえない「おばさん」と「おばあさん」の間、やや「おばあさん」寄りの、ほぼ登り人生を終えたわたしが、あの美女を羨んで、逆さになっても届かないことに、不快感を覚えている?
わたしが、あの美女と同じ年齢でも同じ感想を抱いているだろう。
つまり、美人コンプレックス。
と、書いていると、彼女は下車した。
あ〜、スッキリした。
これで、本来の書きたいことが書ける。
わたしは、いくつになっても醜いこころを内包して生きているなあ、、、。
人間だもの、まあよい。
直接、彼女に意地悪したわけでもないし。

しかし、待てよ。
これはたんに、わたしが美人コンプレックスだったから、かわいそうなターゲットは彼女だったわけだが、もし違うコンプレックスだったら?
標的は違うジャンルだったかも知れないし、ひょっとすると自分が標的にならないとは限らない。

彼女のように何もしていないのに、わたしという、さえない女性に嫌悪されるのは、あまりにも一方的に、わたしの分が悪すぎる。
よおく考えてみると、最初に電車に乗った時、4人掛けシートのど真ん中に堂々と座っていた彼女に、イラっときたのかも知れない。
どっちかに、寄りなさいよ。
そんなことは到底言えず、さえないおばさんが3人座っていた、向かいのシートに、「すみません」と言って席をあけてもらい、滑り込んだ。
さえないおばさんは、4人になった。(どうでもいい話だが)

その、さえないおばさんシートグループから、彼女を見ていたわけである。
足を組んで、一歩たりとも譲る姿勢のない彼女。
(おばさんにも、そういう人はいるが)
そもそも、最初に伏線的なものがあったと推測する。

若いうちは、何も知らない。
苦労も痛みも経験、薄。
自分もそうだったように。
しかも、あんなに美人なら、向かうところ敵なしだろう。
鼻が人生のうちで一番高いだろう。
美人という優待枠を享受できる範囲で自分が収まればよいが、欲を出すと、今から試練が待ち受けていることだろう。

と、美人については、羨ましい、が。
妬ましいと感じると同時に試練も課される。
挫けず今を享受してちょうだい、きっと今が一番ピーク。
さらにピークがあるとすると、4人席の真ん中をぶん取らずに、少し詰めて4人目が座れるような配慮が出来る頃だろう。
一生、来ないかも知れない。


と、これは、最初に書きたかったことではないが、まあ途中で変更。
席をぶん取る、足を組んだ美女にブチ切れただけか。
また気が向けば、書きたかったことを書きます。

母の胎内は、宇宙だ

2019-10-12 | 無題
大野一雄。
前衛武闘家、じゃなかった、舞踏家。
久しぶりに某ジャズブログで見た名前。

一昨々日、観た映画、「ジョーカー」で主人公が見せる、ゆっくりした踊り?のようなものを見て、大野一雄氏を連想した。

わたしが大野氏にお目にかかったのは、大阪、難波のちょっと奥にある、閑静な場所。
当然ながらご存命の時だから、ずいぶん前。
わたしは予備知識はほんの少し。というか、ほとんどナシ。
へんな、おじいさんが、わけのわからないことを言っている、というイメージだった。
蝶ブログにも一度、書いているが、何を書いたか忘れるぐらい前。

母の胎内、子宮は、宇宙だ、みたいなことを仰っていたかなあ、、、と。


わたしの姪は、幼児の頃、すごく言語表現能力が長けていて、母の胎内にいた時の印象や感覚をペラペラ話していたらしい。
彼女にとっては、ほんのちょっと前のことなので、覚えているようだ。
普通、小さい幼児は、話しても片言、赤ちゃん言葉。
脳内で感じたことを言葉には出来ない。
第一、脳自体が、未発達だと思われる。
まだ2歳ぐらいで脳が発達していたこと、それを言葉にできる言語能力、ふたつの奇跡が重なると、母親の胎内描写がリアルにできることになる。
そのまま成長していたら、すごい大天才になるのだが、悲しいかな、普通に成長して、たぶん、そんなことを話していたことも自分自身が忘れている、片鱗も感じられない、ごくごく普通の中学生になっている。

ひょっとして大野氏も、姪のように脳で感じていたのかも知れない。
感覚、記憶が残る。
そういう人は少なからずいるが、1歳や2歳で去年、一昨年の、最近の出来事として話せる人は稀だろう。

まあそういうわけで、、、母親の胎内は宇宙らしい。
わたしは、いつも母親を見て思うが、この人物からわたしが生まれてきたって、ほんとうだろうか?と。
この人にも若い頃はあったようだ。
夫(わたしの父親、故人)もいた。
幼い頃は、野山を駆け巡る健康少女。
祖父(わたしの曾祖父)に、目の前に広がる自然素材を材料にした、華道を教えてもらい育った感性には、敬服している。
(そのDNAは受け継がなかったのは、残念だ)
が、それぞれの人生プロセスと、現在の母、過去が繋がらない。
まして、母親の胎内にわたしがいて、おんぎゃあとこの世に生み出してくれた、その事実は、客観的な証拠からしか推測できない。(へその緒とか)
つまり、母親の胎内なんぞ微塵も記憶にない。

ゆらゆら揺れるブランコみたいなかんじかなあ、、、
(発想がお粗末すぎて笑える)

と、まあ、(いきなり話は飛ぶが)
大野氏と、ジョーカーの主人公には、踊りを介してオーバーラップするものがあった。
「ジョーカー」は、R15で、アメリカでは上映された影響を若い世代が受けて、暴動につながらないかと警察もピリピリしていたらしい。
ある人の解説によると、道化師を深層的に掘り下げると、「体制批判して、お咎めを受けて逃げ回る」意味もあるそうだ。
なんだか、難しいが、当局から追われて逃げ回る犯罪者が、英雄になって祭り上げられると、よろしくないとか。
主演俳優は、44歳で、若くない肉体が鍛えあげられていたが、痛々しいトゲの刺さりそうな肉体だった。
ガリガリの大野氏にも通じるものがある。

ちなみに、
まとまらない、結論に導けないものを「雑感」とするのが、楽で楽で、しかたない。

ということで、今回のタイトルは?




習い事、雑感

2019-10-11 | 子育て
習い事。
わたしは、子供の時は、ピアノ、習字、珠算、バレエ、中学から英語塾。
大人になってからは、あれこれ。(恥ずかしいから割愛)

さて、わたしの子供。
幼児から公文(国語・算数・英語)、体操教室、英会話、ピアノ、サッカー。
長男だけ、お受験予備校(幼児向け)。

さてさて、孫。
水泳オンリー。

結論。
わたしは、子供たちを大のピアノ嫌いにしてしまった。
音楽(ピアノ)方面に進んだ、わたしの同級生は、さらにもっと子供をピアノ拒絶症にした。
(ピアニストになった人もいるけれど)
気合いを入れすぎるとマイナス効果をもたらす、典型。

で、わたしが進んだ道は、習い事とリンクするのは、年齢を重ねたリタイア後。
若い頃は、無縁コース。

子供たちの進んだ道は、習い事とは無縁コース。

さて、孫は、、、?
まだ経過観察中。
水泳方面に進まないことだけは、断言できる。

しかし、、、
親が納得すれは、多少、子供を犠牲にしてもいいんじゃないかと思う。
わたしは、親のエゴの犠牲にはならなかった。(野放し、放牧とも言えなくもない)
子供はエゴ犠牲に少しした。
でも、あまり恨まれていない様子。
理由はだいたいわかる。
わたしは、ユルイから。あんまり厳しくない。
(と言いつつ、家でのピアノ練習は、わたしは機嫌が悪く、最悪の魔の時間だった)

怒ったことは、ほとんどない、柔和でダメな母親。
なぜ怒らなかったか?
これまた理由はよく知っている。
子供なんていう生き物は、聞き分けない悪魔なので、そんなものだとあきらめている。
電車の中でおとなしくなんか、するわけがない。
お店で走り回らないわけがない。
だから、成長するまで待っていた。
連れて行かずに自宅待機。
家では好きなようにして、制限なし。
脳みそが、動物から人間になるまで、ひたすら待っていた。
わけのわからない動物に、ヒステリックに怒るのは、エネルギーの無駄。

水に砂を入れて、かき混ぜると、最初は濁るが、しばらくすると砂は沈殿して、水は澄んでくる。
見つめる鍋は煮えないという。
見つめすぎは、よくない。
かといって、ほったらかしは、焦げる。

なんでも、頃合いタイミングは、難しい。


引きこもり日記

2019-10-10 | 日々のこと
わたしは、他の人に理解されないと、自分だけの居場所に逃げ帰る。
とても居心地が良くて、ひとりで傷口を舐める。
わかる、わかるわ、わたしもそうよ、と大勢で舐め合うのは、性(しょう)に合わない。
ひとりで、自然治癒するのを待つ。
よほどのことでもないと、西洋医学のお世話にはならない。
だがしかし、こころの病気には滅法強いが、身体の病気には、まるで弱腰。
というのは、わたしは健康優良児で病気知らずなので病気の免疫が無く、向かい方、対処の仕方を知らない。
闘病経験がないので、必要以上に臆病になる。

ほんのちょっと、どこかが痒いとか、痛い、だとか、デキモノがポツンと出来ただけで、オロオロ。
ある意味、病気のデパート、総合商社の人が羨ましい。

趣味SNSでも、最近はお蔵入り日記が増えてきた。
内向的ではあるが、攻撃的ではないわたしの性質は、まさに引きこもり体質。
不満のない、明るいご機嫌な非社交家。
不思議な存在である。(自分で言ってます)


それはそうと、
ごくごく近所に、洋裁教室の看板があるのを見つけた。
透明感のある、閑静な住宅街に構えるオシャレなスタジオという印象を受けた。
あら?と思っていたら、昨日、案内がポスティングされていた。
引きこもりのわたしには、けっこう持って来いっぽいイメージ。

実はわたし、、、(と、もったいをつけているが、まるで、意味がない)
独身の時に、お茶、お花、洋裁、和裁、料理を習っていた。
大笑いされそうな、恥の履歴書でもある。
程遠い実力、能力、実技、技量、精神。
でっち上げでないところが、恐ろしい。

一番笑っているのは、わたし自身である。
「じつは、わたし、前職は宇宙飛行士だったんです」というぐらい、実態と、かけ離れている。
まあよい。
過去は過去。

現在、引きこもりのわたしは、興味を持った。
お茶や和裁、料理なら興味なかっただろう。
お花や、手作りソーイングなら、ぴっとセンサーに引っかかる。
家でひとりでこもっているより、近所の人とおしゃべりしながら手を動かす、という、そんな路線はべつに望んでいない。
遠い近未来の自分の行き先・道しるべ的に、そういうのもアリかなあと、ほのぼの想像する。
今から手を打とう、行動に移そう、、、という気は、残念ながらない。
何年か十年か二十年先にはあり得る、かも?という、緩やかなほんのり、のんびりとしたライン。
穏やかな予想。

自分が骨を埋めるのは、今、住んでいるこの地だ、と感じた。
いわゆる、住めば都。
もっと先になればまた、柔軟性を持ち、この地以外のあらゆる場所は頑なに否定する、なんてことはないだろう。
先祖代々住み続けた地でもなんでもない。
気持ちはとても軽やかだ。

もっともっと歳が行くと、駅からバス圏内はアウトで、駅近マンションに引っ越すかも知れない。(たぶん、しない)
今は想像できないが。
そんな時が来たら、老人ホームに入るだろう。
その前段階時期には、自宅にヘルパーさんに通ってもらう。
家を建てる時に、将来、寝たり起きたり、一階で全て便利に生活出来ることを意識し、想定して設計した。
病院に入院より、老人ホームがいい。
自宅が良いのはわかるが、それは理想、希望。
だから、毎日、自宅で暮らせる幸せをじんわり噛み締めている。
いつまでも未来永劫、永遠にこの状態は続かないことを重々承知しているから。

ブログ更新するのも、わたしの幸せ作りに一役買ってくれている。
どこに住もうが、行こうが、スマホさえあれば、遊び相手(具体的関わりがほとんどないところが妙味)には不自由しない。

週末にはまた大型台風が来るらしい。
それまでの静けさを満喫したい。

帰路、雑感

2019-10-09 | 日々のこと
さて、あと少しで電車、降りる駅。
今日は、ちょっと飲んだ。
何を書く?

わたしは、少数派、マイノリティ。
考え方が一般的ではないらしい。
趣味SNSで、皆さんの反応を見て、今更ながらわかった。
わたし、変わり者のようだ。
だから、あまり、わたしの考えや書くことには理解していただけないようだ。
やっぱりな、と思う。
そんなものだ。

今日は、力が足りない。
時間も足りない。
わたしのことを理解して欲しいと思わない。
理解されていないと、イラっと来るけど、理解してもらおうという努力より先に諦めが来る。
だから、自業自得なんです。
今日、観た映画、「ジョーカー」の主人公のようには思わないが。
わたしは、幸せなので、イラっと来ても、瞬間だけ。尾を引かない。
すぐ元通りの定位置へ。
しあわせゾーンが、わたしの居場所。


ちなみに、全く話は変わるが、
今朝、生栗を茹でた。
大量にあるので、娘一家を総動員しても、全部食べられるかなあと、といささか不安。
実は、茹でる工程でミスっている。
なので、冷凍も出来ないし、栗ご飯にも出来ない。
ひたすらスプーンですくって食べるのみ。
失敗は成功の元になるのか、疑問。

わたし、低学歴女子なのに、家事も下手。

ところで昨夜、観たNHKテレビ番組、スガシカオがテーマ曲を歌う、「プロフェッショナル 仕事の流儀」シリーズ。
今回は、家政婦。
といいつつ、食のプロだった。
面白かった、感動した。
詳細は、時間切れ。
興味のある番組を観ることができると、こころが充実する。

若いママ友たちとの接点はゼロ

2019-10-08 | 日々のこと
孫の通う保育所のお迎えや、行事によく顔を出すと、園児に顔を覚えられることがある。

「○○ちゃんの、おばあちゃん!」
と(保育所以外でも)、ちびっ子に名指しで呼んでくれるのだが、こちらはわからず、にんまり笑うだけ。
呼んでくれた子の名前を呼び返すとカッコイイのだが、はて、だれ? 知らん顔、、、なんてことは、ザラ。

ちびっ子は脳細胞が毎日爆発増殖中で、こちらは、毎日過激なスピードで消滅中。
致し方ない。

保育所で出会う、若いママには苦手ママだと感じる余裕も機会もなく。
挨拶のみ。
ライバル意識ゼロ。(当たり前か)
園児のおばあちゃんにもライバル意識ゼロ。
立派な服装の立派夫婦おじいちゃん、おばあちゃん夫妻にも、ライバル心ゼロ。
我が家から徒歩2分の保育所は、至近バス停より近い。
なので、服装は甚だしく手抜き。
だが、一応、こちらが知らない園児も含めて、先生や保護者からの見られる目も多少なりとも意識する。

あまりにも、フライパン片手に、エプロンで手を拭き拭き、出て行くのもどうかと。
かといって、連れて帰る前後の時間は、家事、育児。
立派な身なりに整えても、お洋服お披露目劇場は2分間でおしまい。
なので、実用性と見かけをバランスよく混ぜ、ファッション性などカケラもない、単なる手抜きの服装。

他のママたちは、勤務先から直行しているので、通勤着。
みなさん、当然ながら若々しい。
日頃の保育所関係のあれこれは、娘や娘婿がやってくれるので、実務はわたしはノータッチ。
服装のみならず、顔を合わせる以外に接点は全くないわけで、非常に快適である。
なので、好きも嫌いもない。

だからどうした、という、オチのない話で、ごめんねー、です。
他のブロガーさんの保育所記事に、ちょっと触発されて書いてみた。