蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ねじれる快感

2019-10-05 | わたし
わたしの、偏見に満ち溢れた、ねじれ曲がった性格を分析する。
ずっとずっと蝶ブログに何回も何回も書いているのに、性懲りもなく、また書く。
きっと快感なんだろう。
うっとり、ねじれる、一種の変わり者。(変態ではありません、たぶん)

つい最近の記事にも書いたが、こんな志向が形作られたのは、小学生の時の学校教育の影響が大きい。
低学年の時は普通にしていたが、2年の時にはいきなりクラスの生徒数が入学時の2倍になり、1クラスが、2クラスになった。
元からいた生徒は幼稚園から上がってきた子。
2年からは(おそらく試験に合格して)編入した子。
季節はずれの転入生も、ちょいちょい来たりした。
わたしは、幼稚園からの部。
(小学校入学時、当時はクジ引き! 平和な時代!)

1年生の担任のH先生は、幼稚園から習っているピアノの先生でもあった。
優しい、ほんわかした細めの素敵な女性。
動物で例えると、キリンさん。
2年、3年は、あんまりやる気のない、サボリ体質で、体育授業は「自由」が多かった、ちょっと苦みばしったI先生。
動物イメージは、テナガザル。
I先生の息子さんは、わたしより一年下と、一年上の学年にいた。
(先生の息子のくせに、二人とも悪ガキだった。
あの先生の子供なら、わからないでもないが)

問題は、この次から。
小学4年〜6年、担任のY先生は3年間、持ち越し。
あまりにも熱血すぎる、このY先生が、わたしの人生を決めたようなもの。

色々、苦境や、恥、ほんの年若い小学生である3年の間に、一生分、たくさんの辛酸を舐めたのであるが、同時に、一生分の教えを独自で学び、悟りを開いた。

人は、背景や縁故や優待や保護に関係なく、自分だけの力が評価される。
頑張れない理由を一切合切、取り除かれ、一斉に同じ条件で、頑張る状況を整えられる。
経済的理由や家庭の事情、身体都合、一切関係なく、全員同じ条件で、頑張らさせられる。
学校の他に、塾に行っているとか、行ってないとかは関係ない。塾に行っても、出来ないものはできない。
親がいくら強烈な家庭教師を雇ってくれたとしても。家庭環境や家庭経済は関係なし。
ある意味、平等である。

闘いのフィールドは、勉強。
国語、算数、理科、社会。4教科オンリー。

運動が出来ようが、歌が上手かろうが、芸術的センスがあろうが、可愛いかろうが、ルックスが良かろうが、金持ちであろうが、大臣の子供であろうが、性格が良かろうが悪かろうが、関係ない。
評価は毎日、教室で行なわれるテストで決まり、それは入学試験ではないので裏口入学のように、大人が操作できない。

自分だけの評価を自分が行ったことに対して受ける。
言い訳無用。
落ちこぼれたら、辞めるとよい。
レースから下りて、別のコースに移る。これは、転校を意味する。
あるいは、その小学校を卒業後、別の違う中学に入学する。

とりあえず、その最初のレースは過酷だった。
勉強が出来ないと、あかんのだ。
出来ない場合は、しっかり劣等感を植え付けられ、劣等生の烙印を胸に刻み敗退していく。
どんな美人や可愛い社長のお嬢様も、優待枠ナシ。出来なければ別のコースへ。
ある意味、気持ちいい。
成績が全て。
自己責任であり、家で幼い兄弟の子守をしなければいけないから、なんて言い訳は通らない。
なぜなら、学校で一斉にやっているから、家庭事情は関係ない。
という環境で、わたしの苦手な勉強をさせられたわけだが、、、

言い訳無用の差別ナシ、贔屓ナシ、実力が全て。
オリンピックみたいだ。
小さい時にそういう個人だけを評価する厳しい環境に置かれると、身に染みて身体で理解する。
自分の評価が否応なしにわかるので、自己評価を過大にも過小にもしなくなる。
で、自分が評価される基準は、親や家庭環境でもなく、お金でも、容姿でも性格でも社会でもない、自分の力そのものだとわかった。

自分の実力そのものが自分への評価。
劣等感に苛まれたとしても、事実は事実として受け止めなければならない。

やがて社会に出て、学校の勉強だけではないことを知る。
知識や計算だけでは、出来ないことがある。
勉強以外の知恵が必要になる。
勉強だけ出来る、青い秀才は、潰れるか、乗り越え成長するか、だ。
土の下に培われた「考えること・思考能力」、まだ、社会には出なくても、脳を必死で使って出来る「基礎」から花が咲くこともある。

が、評価基準はあくまでも自分の実力。
そこに、運やら出会いやらあるんだろう。
やがて、学力以外の価値基準があることがわかり、わたしはとても嬉しかった。
元々、学力でドロップアウトしても、まだいろんな分野が残っていて、敗者復活戦に忙しい。

とりあえずは、丸裸の自分が評価され、逃げも隠れもできないことを10才〜12才で知ったのは、悪い経験でもないと思っている。

わたしは不得意そのものの学力以外に色々、くっつけることを知った。
あの手、この手と加えなければ、とてもやっていけない。
例えば、、、マル秘だから今回は書かない。
といっても、わたしのことなど誰も興味ないだろうけれど。

勉強が出来なければ、出来る人にやってもらうと良い。
ツールを使って、演算したり、調べたりすると良い。
なにも必死になって、弱いアタマの自分がしなくても良い。
優秀なAIに託そう。
それをどう使うかが、大事、キーポイントになる。
無いアタマを使って、日々、考えるわけだ。

自分の考え方プロセス
自己を知る→目的を考える、知る→目標を定める→逆算して、すべきことを考える→自分に合った人生を送る

以上。
長いだけの、お疲れ様ブログ内容となった。
ああ、疲れた、、、
読む人はもっと疲れる。ごめん〜なさい。

毎日が探偵ごっこ

2019-10-04 | 日々のこと
昨夜の涼しい気温エアコン事件、今朝、娘たちにラインでグチった。
朝から、しょうもないことを出勤時間前にグダグダ、ラインされる娘たちには、たいへん申し訳なく思う。
長女のコメントが超絶面白かった。

「エアコンスイッチをひとつ残らず撤去し、実力行使せよ」だとか、「テレビチャンネルを気候変動会議やグレタさんの演説だけしか見れないように設定しろ」だとか、、、。
そんな強硬措置を取れば戦争勃発間違いなし。
コトを穏便に対処したいわたしとしては、ブログやラインで愚痴るぐらいで、まあよいかと。

ちなみに知人の家族も昨夜の涼しい最中、エアコンだったらしい。
やっぱり人それぞれ。どう対処するか、のようだ。
人は人。気にしないことか。
水と油は、同じ場所にいなければ良いのだ。
アフリカ育ちとシベリア育ちの国際結婚の人はどうしているのだろう。


で、、、話の続き、、、だが、
家庭内戦争はもうとっくに始まっていて、今日や昨日の歴史ではない。
最近は、相手に対するクレームの突きつけ方が陰険になってきている。
つい最近では、暗い未明時間、閉められてはいるが、内側から鍵をしていない大窓の鍵部分に、「窓には鍵をかけて下さい」と大きく書いた張り紙をぶら下げた。
隙間なく閉まっていると、出掛ける時にセキュリティモニターで外出セットしても、鍵がかっているかどうかまでチェックできない。
少しでも扉や窓が数ミリでも開いていると、取り付けられている器械のセキュリティ機能が作動して察知することができるが。

認知症の家族を抱える人は、苦労されている。
母親が出て行ってしまうため、中から開けられない鍵にしていると、先日、中学の同級生が言っていた。

先が思いやられる。
が、自分だって似たようなもの。
二人だけの世帯は、外に見えない危険をはらむ。
第三者が時折訪れないと、どんなへんなことになっているか、わからない。

わたしが、洗面所にある、次女の化粧品や小物などを置いているコーナーの上から、好きなブランド柄のタオルをカラーコーディネートして3枚かけているのだが、今朝、見ると、3枚がぐちゃぐちゃになって、はがされている。
猫?ネズミ?はたまた?(ペットは飼わない主義)
次女は、先週土曜日に来たが、帰った後、変化は見られなかった。
只今、次女に確認中。

なにかしたあとは、元どおりにしておいてくれないと、気持ちが落ち着かない。
猫やネズミなら、仕方ないが。
しかも、猫やネズミは、窓を開けないから、まあマシかなあと。

リビングにある、日記や書類等が入っている棚も、探した跡があり乱れていて、次女に聞いたら、年金手帳を探したらしい。
これは、年金手帳を取りに帰って来ると言っていたから、納得。
納得できたら、こころは全然ざわつかない。
乱れている理由がわからない時に、不安になる。
それに、次女には無条件でオッケー。
人物差別。

毎日が探偵ごっこ。
スリリングな日々である。





今夜も哲学者

2019-10-03 | 日々のこと
気が狂いそうだ。
でも、そう簡単に狂わないのはよく知っている。
イーっとなる。

性格の違いではなく、性質の違い。
室温の好みの差があまりにも歴然。
秋の夜、寒いぐらいで窓を閉めようかと思うほどなのだが、夫は暑いと言ってエアコンをつける。
しかも室内に、三方ある、どの扉も開けっ放し。
扇風機でもいいんじゃないの?
大音量テレビに、わたしは耳栓。

アタマの中では離婚劇。
完全にキレている。
しかし、離婚しない。
このストレスと一生付き合う。
人生はそういうもの。
ハッピーばかりのパステルカラーの御花畑なんぞ、あの世にも、この世にも、存在しない。

シマラナイ雑感

2019-10-02 | 日々のこと
実母。
わたしの顔を見ると、にこっとする。
兄、わたしの顔を見て、にこやかな顔をする。
しばらくすると、元通りの無表情に近い顔になる。
まあ、いいんじゃないか、と思う。
わたしの人生、別に悪くなかったかな、と。

これだけ書けば、まるでわたしは独身シニアのようだ。
が、オットも子供も孫もいる。
だが、実生活と離れた場所で、わたしのルーツ近くの人々の、わたしを見る目が暖かいと、なんかそういう十分満足な気持ちになる。
このままわたしが終わっても、十分しあわせなんじゃないかと。

そういう人間に限って、今の生活を大事に守りたい意識が強くて、少しでも不安要素が出ると、途端にこころが乱れる。
例えば、次女が先日、電車内で財布を無くした。
とか、ゲリラ豪雨があった、とか。

ほんの小さな不安がどんどん大きくなって、、、という展開を迎える前に、財布は警察に届けられ、ゲリラ豪雨は今しばらく鳴りを潜めている。(「鳴りを潜める」は、こんな使い方をするのかどうかは、さておいて)


話は戻るが、、、
実母は、口を開くなり、
「あんた、ちゃんと旦那さんの面倒見てる?
適当な手抜きのものを食べさせてるんやないの?」
旦那さんに尽くしてるか?だの、なんだのかんだの、うるさい。
アタマは天国に行っていても、わたしの日常生活を心配する。
嘘でも、「ちゃんとやってるよ!」と言って安心させてあげたら良いのだが、へんな嘘がつけず、堂々と「やっているよ!」と胸が張れない。
「うーん、まあ、そこそこそれなりに、、、」とお茶を濁し、質問に対してマジメな対応?をしている。

いつもわたしの顔を見ると、お説教が始まる。
それは、母の調子が良いということにしておこう。

入院していたりする脳内記憶が乱れている人も、夕方になると夕食の支度をしなければ、、、と、ウロウロするらしい。
女性は、いつもご飯の心配。
それに比べると、母は自分が夕食を作る心配をするのではなく、わたしが夕食を作る心配をしている。
まことにしあわせな結構なことである。
自分はいいんかい!?と、ツッコミを入れたくなるが。


ある知人、最近、昔のことが強く思い出されるそうだ。
もうすぐお迎えか?と笑っているが、若い頃のこと、人々、日々。
若い時以来、一度も会っていないのに、なんのきっかけもないのに、自然に詳細に思い出すという。
そういう時期ってあるのだろう。
わたしには、蝶ブログがあるから、話し相手には不自由しないけれど、一般的には皆さん、そういう想いがある時、どうしているのかな。

友達や家族に話す?
1人でブツブツ言ってたら、コワイ人になる?
昔のことを突然、なんの関係もないのに思い出すのには、何か意味があるように思う。
無意識のうちに何か、、、

今日はその方向ではこれ以上、追求する気がないが、いずれまた、そんな気になれば。

今日のブログ、〆られない。
電車の行きと帰りに書くと、分断されて集中力がなくなって、まとめが出来ない。
というより、今日はリアル社会で大いに楽しんだリア充なので、後半、帰りの電車内ではすでにエネルギーが放電されている。
「〆がない〆」と、いたします。
たんなる独り言になってしまった。
あ、いつもだ。

太宰治を勝手に弄うな!

2019-10-01 | 映画
何にも書きたいことがない。
なら、寝れば?
あるいは、他のブログでも読めば?
でも、何か書きたい。
あ、そうそう、、、見つかった!

映画、「人間失格 太宰治と3人の女たち」を観た。
思い入れが強い太宰治なので、R15などに指定されるあたり、なんだか嫌。
観る気がなかったが、日時の関係上、観た。
気に入らない映画、ワースト3に入った。
観なければよかった。
眠くなるとかで、居眠りしてたほうが、ずっと快適だった。
眠気も起きず、まんじりともせず端から端まで、スミからスミまで、きっちり観た。

監督は蜷川実花。
ひょっとして、あの有名な蜷川さんの娘さん?
舞台ならこう演出するだろうという表現がたくさん出て来た。
(後から調べると、彼女は、どうやら写真家らしい)
映画だから、どうかなー、というわたしの覚めた感想。
主役、小栗旬。良くない。
別の俳優だったらどうだろう、と考えた。
松田優作の長男(松田龍平)とか。
松坂桃李は、パスかな、と。
柄本明の長男(柄本佑)はどうかな?と。
関ジャニ∞を昨日、脱退したばかりの錦戸亮なんかも良いかも。
イケメン俳優は、薄っぺらく感じるからイマイチ。
37〜8歳の役だから、若すぎると、どうも、、、。
あまり笑顔を見せない俳優が良いかなと。

完全にイメージ訴求型。内容はリアリティ、ゼロ。
セリフは臭すぎて、とても感情移入できない。
同性として、全く感動も同意も賛同も同感も出来ない。
ただただ、気持ち悪い、やりすぎ感あふれる舞台装置が、人間より目立った。
色を使いすぎ。色のコントラストを狙っていると思うが、狙い過ぎ、やり過ぎ。
コンセプトカラーとか、決めているのだろうけれど、映画にはどうも良くない。
やはり「写真」の世界観。

太宰治が、妻、愛人、恋人とのsexシーンがあれこれあるが、女性が描いたとは思えない、女性にとっては、気持ちよくもなんともない、男性中心の、女性へのサービス精神が全くない行為描写だった。
監督も女性なら、あんなの、女性には快感でもなんでもない、男性本位の行為だとわかると思うが。
あきません、あれは。
とてもとても、ダメです。

3人の女性がそれぞれに住む家も、非現実的で、狙い過ぎ、弄い過ぎ。
わざとらしくて、あれじゃあ、カフェか、中華料理店、ヌーベルシノアというかんじ。
映画や舞台、テレビドラマのセットそのもの。
(三谷幸喜の映画作品にもあったが)
ああいった手法もあるものの、いかにも作り物のボテボテした小道具に、わたしは好感が持てない。

作家の苦悩なんて、全然描けていない。
私は太宰治の大ファンだったので、思い入れが大きい。
太宰治を勝手に弄ってもらっては、不快である。
ということで、久々に観た、最もダメな映画だった。
自分には、こんなにブレない不動の意見や感性があるのだという、そんな考えの存在に驚いた。

いろんな色のペンキで、ペタペタ塗りたくるのは結構だが、ナイーブな太宰治を無神経に扱って欲しくない。
女優たちは、良い顔をしていたが、いかんせん、ストーリーが良くない。
事実に基づいたフィクションではあるが、違う!あんなのではない!
ワザとああいう路線で描いた感性は、わたしと蜷川実花監督とでは、全く違うことが、よくわかった。
ウトウトする暇もなく、2時間も座って、腰が疲れた。