蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

母と、わたし

2024-04-20 | 老い
母がわたしの年齢の時、母はどんな風だったか。
父が他界した頃だ。 
未亡人になってもなんのその、前と変わらぬパワフルさでガンガン生きていた。
やはり、母とわたしでは、生まれつきのパワーが違うのか。
とりあえず10年はそれまでと変わらず。
だが、10年を過ぎると徐々に老化の波が見えるようになった。
今、小学6年のわたしの初孫(母のひ孫)がハイハイする頃、田舎の実家を訪れた。
孫の年齢から逆算してみると、10年ちょっと前になる。
あの頃から、今思えば、少し認知症の予兆はあった。
ああ、わたしも後10年か、、、。
しんみり、、、。
この時間、大切にしなければ、、、。

今から母に逢いに行く。
まだまだ母は元気なのだ。


①わたしの年齢(70代手前〜。バリバリ元気な今後10年)
→②次の10年(80代〜。少しずつ老化、要支援にスライド)
→③更に次の10年(90代〜。要介護)
→④また更に100歳〜(天寿を全うするまで、要介護)

父も、舅も、姉の舅も80歳になる前に他界した。
この世とのキレイなお別れだ。
男性に比べて女性は長生きする。

母は、元気ではあるが、一人では生きていけない。
ベッドからの移動は、ブランコみたいなマシーン。
更に、今度、お相手してくれるロボットが導入されるとか。
大学と実業界と福祉分野(介護)のコラボで共同開発されるらしい。
今はその実験段階だとかで、利用者としての協力、承認が必要。
借りられるものなら何でも、「人の手」以外も借りる。
人手不足である介護は、特に。

それにしても、母は幸せな人生だったと思う。
まだ元気に生きているのに、「だった」と過去形にしているが。


※写真は、先一昨日の、大規模な公園の藤





元々苦手な人

2024-04-19 | 老い
ご近所にお住まいのBさん。
蝶ブログにも何度もご登場いただいた。
(ご本人の許可は得ず。得る必要も義務もないが)
43年前から関わりがある。
初めてお会いした頃は、わたしは独身。
Bさんは、お店を長く一人で経営され、当時はご主人も存命。
華やかな方であるが、わたしは超苦手。
ご近所なので、嫌でも顔を合わせる。

「単なる苦手」が「超苦手」になり、その状態が長く続いたが、お歳を重ねてちょっと弱気になられ、最近は「普通」になったと思いきや、またまた「苦手」に返り咲いた。

今週のバス停。
いつものように、誉め殺し。
他の人の耳があるので、わたしは声を小さくしていた。
褒め殺しの内容が、聞き捨てならない、過ぎ去りし時代の過去の価値観であったため、わたしは、小さい声ながら、一気にベラベラと異論を唱えた。
すると彼女の顔色が変わった。

「上品なお声で仰るから、聞こえないわ。
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と、仰る。
顔色の変わり方が、かつての姑とソックリ。
自分には理解できない、わけのわからないことを一気にまくし立てられる拒絶感、不快感が襲ってくるのだろう。
認知症初期の症状で、他人から自分に対する行動から受ける印象に、そういう感覚があるそうだ。
Bさんも、片足入っているようだ。
早かれ遅かれ、皆んなそうだけど。

顔色を変えた後、遅れてバス停にやって来たご近所Cさんの顔を見るなり、
「奥さん!お元気?
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と話しかけていた。
わたしは、明らかに、聴き役から外された。

一方的に(怖い顔で)まくしたてるのは、NGであると、再認識した。
聴こえないのではなく、わからないことや聴きたくないことは、脳がシャットアウトする。
初期症状である。
高齢の人には、大きな声で、耳元近くで、ゆっくり、はっきり、短い単語で話さなければならない。
介護職や医療関係の人たちは、皆さんそういうアプローチをされている。
わたしは、家庭外であり、家の外なものだから、つい、普通の人に接するようにしていて、特別な話し方をすることを心がけていなかった。
が、複雑な話やプライベートな話なんかは、皆さんがいるバス停ではとても出来ず、相手の言うことを笑顔で聴いて頷くしかない。
わたしは、ボランティアさんでも専属ヘルパーさんでもなく、ましてや「苦手な人」歴が長い人には、そうすぐに優しく親切にできない。
これからは、高齢であることを念頭において、対応すると良い。
が、元々苦手な人にそこまで頑張るかどうかは定かではない。

やはり、元気な頃にどういう態度で接していたか、好感度はどうだったか、という過去のやりとりは、現在、未来の行動に対して受ける気持ちに影響がある。
家族であろうが、友人であろうが他人であろうが、同じかも知れない。

わたしの場合、元気な頃に、好き勝手してあちこちに敵を作ってしまっていたら、、、それはそれで、元気な頃、自分は満足している。
まだ訪れていない(予兆はあるものの)健全ではない時のことまで心配して憂慮していたら、せっかくの黄金時代が褪せる。
かと言って、人のフリ見て、やはり他人に映る自分も多少意識したほうがいいと自覚した。
この年齢になって、ようやく気づくことがある。

老化による変化なら仕方ないが、それまでのお互いの関係性の積み重ねた時間は、事実として消せない不動のものであると感じる。
関わりが長ければ長いほど、状況も変化し、色んな側面を持つ。

※写真は、一昨日、広大な公園の一角で見た、竹とタケノコ。

墓の行方

2024-04-18 | 
ある人、Aさん。
かつてお墓を買ったそうだが、霊園墓地に墓石が建っていないのは10%だとか。
つまり90%は、墓石が建てられている。
墓地だけだが、管理費を年間いくらか(1万円以下)支払うという。
で、Aさんは少し焦っておられる。
購入時には(なぜか)加えて隣続きに2区画も墓地を買い、墓石も建てず、管理費を払い、そして、空き地墓は、肩身が狭い、と。
だが、誰も墓に入る人がいないのは、不幸がなく、幸いなのではなかろうか。
Aさん(70代)の親の墓は、Aさんのお兄さんである長男(たぶん70代後半?)が管理しているが、長男の長男(Aさんの甥=40〜50代?)は遠方地に(実質的には婿入り?)暮らすため、墓管理が困難らしい。
長男の長女(Aさんの姪=40代?)も遠方地暮らし。
今後、誰が親の墓を見て行くのか?と、Aさんは、お兄さんと思案顔。
Aさんは、まだ墓石を建てていない墓地に管理費を毎年払いながら、自分の親の墓の管理が心配のタネ。

そもそもAさんは、長男ではない。
長男であるお兄さんが親の墓を建てた。
親は長男ではなかったため、子供であるAさんの兄が墓を新しく建てた。
長男ではないAさんも自分たちの墓地を別に用意した。
親の墓の維持も不安定なのに、自分(たち)の墓、しかも、墓石も建っていない墓(しかも2区画も)は、子供たちは見てくれるのだろうか?と、もやもや。
「自分があの世に行ったら、この世の動向はわからないのだから、どう確認のしようもありませんよ。
とりあえず、子供たちに、どうして欲しいか、希望、意向を伝えておかれたらどうですか?
実行する、しないは、確認できないですが、仕方ないですね」
と、わたしはAさんに言った。

Aさん夫婦のどちらかが先に亡くなったら、墓は建てるだろうから、残りの一人になった時に墓を永代供養にするかも知れない、と想像した。
墓を買ったAさんのほうが奥さんより先に亡くなるとすると、ひょっとしたらその段階で、新古品となっている墓地を返上して、永代供養にされたとしても、Aさんは知る由もない。
とりあえず、墓地を少しでも使う可能性を強めるためには、Aさんは奥さんより先に亡くなるわけにはいかない。
Aさんも奥さんも、天寿を全うして亡くなる頃は、墓のことは子供任せだろう。
生きていて、意識がしっかりしているうちに、意思を伝えるにしても、あの世間近になると、意識も思考も弱ってくる。
認知症が進み、配偶者が亡くなったことも知らされない状況も皆無なわけではない。
最後は、もつれ込むにしても、墓の維持は、維持する側の子供の考えによる。
今はまだ誰も祀る人のいない、権利だけを確保した墓地の行方が気になるところだ。

※写真は昨日の野田藤(大阪市福島区)






答え合わせ

2024-04-17 | 人生
なぜ自分は若い日々をゴージャスに過ごさなかったのか。
しようと思えば出来たのに。
知らないわけではなかったのに。

東京でのゴージャスな暮らしは、1年で飽きた。
そもそもわたしは、倹約家(「ケチ」とも言う)で、湯水のようにお金を使うのがあまり好きではない。
お金のかかる遊びは、好きではない。
高価なハイブランドの服は、気が引けて買えない。着ると肩が凝る。
また幼少期の田舎暮らしの影響からか、牧歌的雰囲気が好き。
さらに小さい頃から教育成果主義の一貫校に通っていたためか、何かしらの成果を求める。

この要素が合わさって、耽美的は好きだとしても、退廃的は、嫌い。
(どう違うんだ?
わたしの感覚では微妙に違う)
例え部屋はぐちゃぐちゃだとしても、生産性のない生活は好まない。
しかし、美的なものに対して、母の影響はかなり受けている。
母は精力的に働き、室内も室外も庭も、掃除がピカピカに行き届く、頑張る戦中派タイプ。
遊興費にはあまり使わないが、美しいモノや空間には豪快に使う。

わたしは高度成長期に生まれ育っているため、母とは少し時代背景は違う。
父はクレバー・スーパー・ミラクル働き者。
父も母も共通点は、前世は馬車馬かと思うぐらいよく働き、お上品な気取った雰囲気が大嫌い、窮屈で息が詰まると見られる。
最大限オーバーに言い過ぎるとすると、(良いように言い過ぎてかえって反発を買うことを恐れずに言うと)全てのスケールは違うが、白洲二郎と正子?
(やっぱり言い過ぎて気分が良くない、、、)
全力で頑張るタイプで、共に、ちんたらこんたら、チャラチャラは嫌い。
これらが合体して、昭和後期の創造物としての、わたしが形成されている。

なので、時代背景もあるだろうけれど、両親には、ぐうたらDNAは無い。
ではあるものの、なぜか、兄とわたしは、ぐうたら。
なんで?
科学では解明できないが、わたしが想像するには、環境、育て方だと思う。
兄=ただ一人の生き残り跡取り男子。
わたし=末子で手を掛けて躾をするのに疲れ放任。
それで、2人が、ぼーっとしている。
その間に挟まった姉は、実にシッカリしている。
両親の教育方針にも姉は反旗を翻し、抗議した。
わたしは、そんなことが過去にあったことも知らなかった。
歳が離れた姉妹ならいざ知らず、姉とは2歳しか離れていないのに。
兄は家事はしなくていい代わり、家父長制の気の毒な犠牲になった。
姉は3人分のシッカリ者の要素を一人で抱えている。

わたしは父系の遺伝を強く望んでいるのだが、どうも母系のような気がする。
悪い予感。
詳細を精密に鑑定したわけではないので、何とも言えないが。

環境のせいもあるとは言え、皆んな、働き者なのに、なぜ、兄とわたしは、(たぶん、生まれつき)ぼーっとしているのだろう。
親の加護がなかったら、今頃どうなっていたことやら。
とりあえずは、税金を納める社会人になったが。
ではあるものの、兄もわたしも(もちろん姉も)、放蕩はせず地道な道を歩んだ。
贅沢は、あまり性に合わないのだろう。
だから、ちょっと経験、試してみただけで、もう結構、もう十分、となると思われる。
深追いしない。
定位置は、ノーマル・スタンダード。
小さな暮らし、プラス、好みに応じてオプションを追加。

若き日々をゴージャスに過ごさなかったことに対しては、なんの後悔もない。 
もともとの性格なので、無理やり、誰かにそそのかされて遊びまくったわけでもなし(わたしが堅物で誰も遊んでくれなかった)、地味路線を歩いた。
ゴージャスな人を見かけると、興味本位で観察している。
自分とは別の違う人種なので、べつに衝突しない。

ツマラナイ超個人的な話を書いた。

※写真は本日、撮りたてほやほや。
堂島川沿い。


自分の昭和

2024-04-16 | 思い出
昭和レトロが人気らしい。
歌謡曲も、昭和歌謡。
令和の10代、20代は、石原裕次郎とかではない。
松田聖子、中森明菜、、、
が、似たような時代?
対象が違うだけか。
オッチャンと若者。
わたしはオッチャンではないが、いやというほど石原裕次郎の歌を誰かが安酒場で歌っているのを、かつて、聴いた。
歌が出来たのは、もっともっと前。
感情移入、全く出来ず。
世代背景は同じなのに、やはりわたしはオッチャンではないからだ。
リアルタイムでビートルズを聴いた第一期ビートルズ世代にしては、わたしは少し若い。

今、思えば、貴重な時期をつまらないことに必死になって潰してしまった。
子育て、家庭を犠牲にしてまで大切なものか?
ノン、否。
「自分育て」と「家庭育て」を同時進行していた。
当時は洗濯機の中に、あれこれ一緒くたにして回していたようなかんじか。
だが、後にならなければわからない。

家に引っ込んでいたら、もっと後悔しただろう。
当時は必死だったが、個人的嗜好に走っただけで、たいした成果はない。
何度も言うようだが、自分の欲求、満足のために、家族を犠牲にした。
(捉えようは様々だが。自分が理想とする良妻賢母ではなかった)
そして、自分のすることなど、たいしたことはなかった、ということがわかったのだから、上出来だ。
ごめん、わたしの家族たち。
「自分育て」の(結果的には)踏み台にした。
女性も時代と共に自立に向かう。

しかし、全身全霊をかけて子育てしていたからといって、自分が納得できず満足してなければ、どうか。
良い結果が得られたらいいが、悪い結果になっていたら、努力はパー。
子供たちに自分の全エネルギーをかけていたなら、成果を当然求める。
自分の理想を子供に押し付ける。
ある意味、広々柵付き放牧状態は、そう悪くはない。
過保護で子供の自主性の芽を摘むよりはマシと思っている。
自己擁護に過ぎないが。

とは言え、やってない架空のことを想像しても、実際にはやってないのだから意味がない。
やってきたことだけが残る。
あの時の選択では正しかったのだ、と思う他はない。

自分としては、親には感謝。
それだけだ。
甘いわたしは、「求め過ぎるな、足(たる)を知れ」とは言われたが。
それにしても、昭和の高度成長期はすごいパワフル。
その時代に育ったことはラッキーだった。
各、個人によって様々なケース、違いはあるにせよ。
あ、ついでに夫の親には感謝。
「ついで」で申し訳ないが。
さらについでに、夫にも感謝。
どこに最も感謝かと言うと、今まで健康にいてくれ、休むことなく働き続けてくれて。
あとは、DVも借金もギャンブルも不貞もせず、たいしたトラブルも事故もなく、平穏無事に今日まで来た。
故障しなかった身体とメンタルに、感謝。
今後は歳を取って行くので、生き物の常として、衰えることは必至。
努力も最低限、抗うのも最低限にして、受け入れながら生きていく。

※写真は、八尾市の江戸〜明治の旧家。
土間の雰囲気が、田舎での幼い頃の記憶とオーバーラップする。

コガネムシではなく小金持ち

2024-04-15 | 読む人々には興味ない話
わたしは小金持ち風ティストが苦手だ。
小金持ちそのものが苦手なわけではなく、小金持ち「風」「ティスト」が苦手。
これは、あくまでもティストであり、実際の財産、不動産や預貯金の有無は関係ない。
自分が勝手に脳内でイメージするもの。

マダムサロンに漂う雰囲気?
マダムサロンも、一種のロビー活動のような感じで、夫の仕事や出世に一役買うのなら、あるいは、コミュニケーションで仕事人間関係の潤滑油になるなら、と気配り、尽力すると思う。
「プロ野球・妻の会」「歌舞伎役者を夫に持つ妻たち→梨園」みたいな世界はさておき。
なぜ、さておき、かと言うと、自分には無縁なので関心がないから。

もっと実業界だの、法曹界だの、経済界だの、教育界だの、政界だの、、、そう世界なら身近なのか?
ノン、否。全く別世界ではあるが、興味はある。
なぜなら、「◯◯の妻」ではなく、本人の世界。
それはそれとして。
たんなる、知らない世界への好奇心。

本人が、例えば、政治家になった三原じゅん子に関心があるかというと、べつにない。
政界での活躍より、最近では高級車盗難被害遭遇のほうが実際の動きとしては印象に残る。
といっても、LINEニュースで見ただけで、わたしとは何の関わりもないが。
車庫は、都内の自宅に続くスペースのようなかんじだったので、国会議員さんは、やはり高収入のようだ。事業、多角経営とか?
これは、小金持ち?
まあそれはよいとして。

あくまでも、〇〇風、というイメージ、ティストの問題。
生き方にも関わってくる。
高級品を身につけ、高級品に囲まれた暮らしをしているのが、わたしが描く(狭義の)金持ちイメージ。
では、小金持ちとは?
金持ちのスケールを少し小さくしたかんじ?
ノン、否。

わたしが勝手にイメージ付ける小金持ちとは、、、金持ち自慢。
誇らしげに外に向かってアピールする、その鼻につくニオイが、苦手なのである。
自慢しなくても、垣間見えてしまうのはまあ仕方ないにしても、、、
ただ、わたしが苦手なだけだが。

それと、特権を振りかざす人。
このニオイには頭痛がする。
1日も早く失脚することを願ってしまう。
自分では気づかないだろうけれど、長年、積み重なると、強烈なニオイを放っている。
なんであんなに横柄な、嫌な感じになるのだろう。
家族も距離を取り、誰一人として近寄らないのではなかろうか。
特権を目当てに群がる人々も、特権を失い失墜したら、誰も着いてこないだろう。
特権に溺れた悲しき副作用。結末。
こういう人は、おそらく一生、治らないと思う。
人生には、プラスとマイナスがあるようだ。

小金持ちは、妬まれる。
妬まれないように仲間うちでワイワイしていればよいものを、チラと仲間以外の人にも見せたくなると思われる。
自慢気。
だが、性格が悪いと思われるのは避けたいため、平等精神を心掛けている、、、のが、見え見えの人がいる。
単に、わたしが捻じ曲がり、ヒネクレ者なだけであるが。
やはり、テリトリー内で活動するほうが摩擦が少ない。無難。
価値観を共有できることが多いから。
定年後、どこどこに勤めていた元〇〇、という肩書から離れられない人もいるようだが、わたしのイメージでは一昔前の定年族のように思える。
今の定年族は、リタイアする前からリタイア後の準備をしているため、職を離れても自由を謳歌する無職またはアルバイト、または第二の就職に、軟着陸しているように感じる。
(働かなくては年金では生活できない高齢ワーカーはまた別の話として)

例えば、、、偏見イメージではあるが、、、
小金持は、ホノルルマラソンに参加する。
近所を走るだけでは物足りない。
これは素晴らしい。
登山をする。汗をかく。
ブランド品をジャラジャラ身に付けない。
お金や肩書でないところで、汗を流す。
小金持を意識させない。
だが、高品質、高価格の、快適性、品質重視の普段着を着る。
ユニ◯ロの人もいるが、ハイレベルな品質に自分自身のためにこだわり、ユニ◯ロでない人もいる。

わたしが勝手に抱く小金持イメージを、決して否定しているわけではない。
良いイメージもある。
個人的な好みであって、カレーが好きな人も苦手な人もいる。
ただ、ああ、あの人のことかな、と顔が思い浮かぶ人は、一人や二人、いると思う。

別にどうってことのない、〆のない話になってしまった。

蛇足であるが、
人は、ゴシップや噂話、その場にいない人の悪口が好きである。
そんなことに全く関心がない仙人もいる。
仙人たちが集まって井戸端会議する図を想像すると面白い。
話題はなんだろう?
収拾がつかなくなりそうだ。
やはり仙人は千人集まって、世界平和を願う世界会議あたりを想像するが、決して不幸を生み出す新興宗教会議であってほしくない。


※写真は、ぼんやり小さくわかりにくいが、大阪城の上空を飛ぶ飛行機。
どんどん何機も次から次へと飛んでいる。



平成の、昭和ロマンを令和に見る

2024-04-14 | 時事&世の中
NHK TV番組が18年ぶりに蘇った。
新プロジェクトX。
一昨日、前回の再放送(深夜)と、昨夜、今回分放送(19:30〜20:15   45分)を見た。
第1回は、「東京スカイツリー」編。(23:45〜1:08   1時間23分)。
これは痺れた。じーんと痺れた。
まさに昭和の男たちだと思った。
感動した。胸が熱くなった。
時代は昭和ではなく、平成だったが。

とび職、超絶スゴイ。
設計、超絶スゴイ。
総監督、超絶スゴイ。
チーム一丸となって全力で挑む。
緊張、達成感たるや、スゴイ。
闘魂の男たち。

あれで、家に帰って皿洗いや育児、今日の報告連絡相談をやっていたとしたら、どんな感じなのか???
全神経を集中させる大事な仕事中は別居のほうがいいかも?
「じゃあ、アナタ、育児は? 介護は?」
と妻に詰め寄られたとすると、、、
あら、どうしましょ。
仕事で心身共に毎秒毎秒、燃焼しきって、家に帰ると、またもや別の仕事が待っている。
気配りもして、気が休まる時がない。
では、家庭を持てないということか。
しかし、家庭を持っても持たなくても、親はいる。
プライベートな私生活や環境と仕事は、別次元の話である。
ではあるものの、仕事に打ち込める環境は、ある意味、恵まれているのか。

とは言え、わたしは、やはり昭和人間だとつくづく自覚する。
熱い男たちの仕事に心底、敬意を抱く。
が、仕事を離れて家庭での役割を考えてみた時、自分でもよく解決できないモヤモヤがある。
子供の自立を妨げてしまうような過保護な親に通じる気持ちがまだある。
それは、、、仕事を、雑念に囚われず一生懸命して欲しいがために、家庭での役割をおろそかにしてもいいという甘い過保護傾向がある。
だがしかし、仕事を終えた後は、気持ちや役割を切り替え、家庭人になる器用さも求められている。
必要不可欠である。

オトコは黙って◯◯ビール。
キミ作る人、ボク食べる人。
というコマーシャルは隔世の感。
今ではハラスメントになる。

が、わたしは昔のロマンは消えない。
生まれ育った時代の背景の影響だろう。
それと、わたし自身が男性と対等に能力的にやっていけないこと、また、女性とも対等に能力的にやっていけないことに原因がある。
これは、なぜかというと、先日、占ってもらった、「わたし」自身の中身にすっぽり当てはまる。
自分の持って生まれたキャラクターの特徴である。
蝶ブログを貫く、自分評である「サボり=省エネ」。
占いでは、「最低限の努力しかしない」と出ていた。
ぴったり、そのもの。
どこで、見てたの? 隠しカメラ?
「既存の既得権益を手放さない」らしい。
しかし、ほとんどの人はそうなのではないだろうか。
一握りの立身出世する人や、とてつもなく不幸な人を除いて、現状維持を望むのでは。
ある意味、占いはやはり誰にでも当たると感じる。
深層心理を探るには、生まれ育った時代背景は要ポイントとなる。
わたしは、豊かになりつつある高度成長期の日本で生まれ育ったわけで、同じ時期、同世代の人々とは共通点があるはず。
だが、この占いは日本に限定してないから、アフリカや中国なら、同時代を過ごしたとしてもそれぞれの国は同じ背景状況ではない。
どうなんだろう?

それはそれとして。
昭和の男たちの仕事(実際は平成)にロマンを感じ痺れたわけだが、次回、次々回、次々々回と、番組の回を重ねる毎に、ネタ探しが大変になりそうだ。
高度成長期やバブル前なら山のようにあるサクセス・ストーリーも、日本が右肩下がりに落ちてきた近年では、勝ちストーリーは数も規模も限られてきそうだ。

いずれにしても、仕事を成り立たせるのは、究極は一人一人の個人の力。
それをどう汲み上げ、組み立てていくのか。
大きな仕事は、膨大なコンテンツで成っている。
大組織で働いた経験がある人と無い人があり、双方の思いは複雑だ。

それにしても、新プロジェクトXの第2回目は、第1回目と対比するのに、違いが明白で面白かった。
身体を張る仕事と頭脳戦との、違いがハッキリわかる。
どちらも人がする仕事。
核となるのは人。
仕事って、神聖な域があると感じた。

親の仕事を身近に見て感じて育ってきたわたしは、
「パパいってらっしゃい」から「パパおかえりなさい」の、仕事の内容を知らない、関係するのは給与と休暇だけ、という家族は、気楽でよいと感じた。
良いことも悪いことも知らない。
だが、職業によってはそうは行かない。

子供が社会を知るのは家庭環境の影響が大きい。
親がどんな仕事をしているのか、よく知らない子供もいるだろうし、成長するに従って知ることになる。
親の、家庭での顔しか知らない子供。
広い意味で、「親の背中を見て育つ」とはよく言ったものだ。


一生、癒えない傷

2024-04-13 | わたし
「フラッシュバック」というタイトルの蝶ブログ過去記事。
どなたかが引っ張り出して読まれたようだが、その記事を読んだ。
またまた、フラッシュバックした。

一度や二度ではない、フラッシュバックの引き金は、、、
突然、やってくる。

夫は、高校卒業後、親元を離れ賃貸住宅に単身で住んでいた。
そう書くと、自立した人のように聞こえるが、とんでもない。
大学の学費、住居、生活費、全て親持ち。
さらに近隣の市に住む叔母の家に、(自宅に家電一式、洗濯機も親に買い揃えてもらっているのに)洗濯物を持っていき、そして食卓を囲んでご馳走になっていた。
実家からは下着だの衣類やその他が、どんどん送られていた。
夫は、叔母家での大好きなメニューがある。
それを普段の今の生活で、キッカケがあると嬉々として夫は話す。
その瞬間に、わたしの脳内は瞬間的に爆発する。血管がブチギレる。
洗濯をしてもらい、ごはんをご馳走になり、生まれた時から知っている叔母一家、楽しい明るい暖かい家庭で好意と愛情に包まれ過ごす。
無邪気に素直に、何の憂もなく明るく育つ。
美しい光景。
(わたし以外は)全員が良い人々で幸せな時間。

親(姑)は子(息子)に、過保護、過保護、過保護、過保護、過保護。
食事が出来たら右手にお箸だけ持たせ、食事が終わったら箸を鉛筆に持ち替えさせる。
教育ママ。
ボクちゃんはお勉強だけしていたらイイのよ。
(社会人になってからは、
アナタはお仕事だけしてたらイイのよ。
→家庭は妻の尽力による癒しの場の提供)

その幸せ溢れるシーンで、なぜ、わたしの血管がキレる?
一種の条件反射。癒えることがない病気。こころの傷。
おそらく、目が開いたのだろう。
自我の目。
目覚めても、どうすることもできない不幸が待っているだけなら、目覚めないほうがいい。
目覚める時期、タイミングにもよるが。

世の中には、不条理なことや矛盾がいっぱいごろごろある。
時代が違うと価値観も違う。
今頃なんだかんだ言っても始まらない。
なぜかいつも不機嫌な妻たちを見て、理由はわからないものの、触らぬ神に祟りなし、と、腫れ物、危険物注意の精神で夫たちは接する。
不機嫌、突然の激怒は、積もりに積もった鬱憤なので、どうすることもできない。
長い年月の間に、形や大きさ、形状が変化している。巨大な妖怪になっている。
今更、解けない、溶けない。
出口を失い抱え続けた弱者の怨み。
原発の汚染物質のようなもの。
地中、深く、埋めるしかない。

その一方で、、、自分だってそうだ。
同類。
人のことは言えない。
見方を変えると弱者ではない。
なのに、わたしは消えることのない不満を抱え続けているのに、なぜ相手は何も感じていないのか。
原因を解明できないが、妻が不機嫌な理由は自分(夫)にあるような気がするため、出来るだけ神経に触らないようにしているかも知れない。

2050年には独居老人が激増するらしい。
結婚しない、子供がいない。
人生ライフスタイルは個人の自由。
(老夫婦で死別もあるが)
結婚に求めるものが、複雑になっている。
結婚しないのも、よくわかる。
折れ合うことをしないと無理だ。
理解できない、納得できないものをそのまま抱えて進めない。
ではあるものの、生活は妥協なしには成り立たない。
自分を押し殺してまで結婚したくないのは一理ある、、、が。

身体に何も大きなトラブルが発生しなければ、2050年に、わたしはまだ生きているかも知れない。
たぶん、独居。
いや、ひょっとして、、、老人ホームの別階で別居?
あるいは、同じ墓の中で眠っている。


占いに、ドッキリ

2024-04-12 | 日々のこと
某アメリカ大統領も夢中になった占いがある。
生年月日だけで、その人物を占う単純明快なもの。
ただし、本当の生年月日で調べるので、誤魔化し、偽りは意味がない。
で、早速、占ってもらった。

先ずは、知り合いに戸籍謄本やパスポートに記載されている通りの嘘偽りのない、自分の大事な基本となる個人情報を知らせなければならない。
今まで、歳をサバよんでいたり、実年齢より若く自己申告(年齢詐称)していたり、わざと誤解を招くような発言で、勝手に想像したそっちが悪いとばかりに嘘年齢を匂わせていたら、関係の修復を見直すところから始めなければならない。
信頼が揺らぐ事態を招きかねない。

この知人Aに、自分の実年齢を知られたくない、教えたくない、と思うなら、占いは実施されない。
偽りの生年月日なら、正確に占われない。
そこで、今まで嘘は言ってはいないものの、はっきりピンポイントで年齢を明かしていなかったので、まるで、皺の一本一本を検証されるかのような、手術台に乗る決意が必要だ。
たかが、年齢。されど、年齢。
乙女は、婆になっても、婆乙女。

それで、この知人Aの人柄、人格、性格、行動、実績をわたしのアタマの中のミキサーにかけ、いや、ジューサーにかけ、搾り出たエッセンスを帝国データバンク、あるいは、生化学検査に出し、検査報告を1秒待つ。(比喩表現が続きます)
検体が不足、不明瞭のため、正しい検査結果が得られなかったが、すぐに返事をしないと、わたしの検査待ち時間に対して不審がられる。
(知人AとはLINEのやり取りだったので)
この知人Aを信用して、実際の生年月日を勇気を出して(大袈裟)、伝えた。

「調べる間、しばらく待って」と(LINEで)言われたので、待った。
どれぐらいの時間が経っただろう。
検査結果が送られてきた。
長々と文章が入力されていたが、占いからのコピペだろうか。
1文字脱字があったので、そのままコピペでもないのか、あるいは、元々間違っているのか。
はたまた和訳した時のコピペミスか。

どんなツールで占っているのか、占いの元は何かと、聞けなかった。
聞いたら、誰でも自由に占えるから、知人Aの特権がなくなる。有り難みがなくなる。
飲み屋や、何らかのグループ、お付き合いしはじめの頃などで、重宝するツール(占い)になりそだ。
「手相」見のようなもの。
その人の、実年齢がわかり、相手も占ってもらえて喜び、人柄や内面もわかり、一石二鳥、三鳥、四鳥。

と、かなり長い前置き。
本日のブログ記事、99%は、書ききった感がある。

さて。
わたし自身の占い。
めちゃくちゃ当たっていて、占いの信者になりそうだ。
が。
8つ中7つは的中していたが、1つは、真逆で的外れ。
それで、妄信の道に歯止めがかかった。
当たってない部分をあえて入れていたとすると、相当な心理操作テクニシャン。
わたしは、心理学に興味があるため、よくその分野では見識(といっても我流、寄せ集め)を深めている。
なので、かなりの説得力、科学的根拠がないと信じない。
今回の占いは、世界中のわたしと同じ日に生まれた人(といっても同日生まれでも、時間の幅は24時間ある)、全員同じかと言えばそんなことはない。
世の中には、占いを信じるタイプと疑うタイプがいる。
たまたま信じないタイプの人が、たまたま占ってもらったとすると、同じ生年月日の人の絶対数から、かなり数が減っていると推測する。
しかも、占いを見る人の傾向は多分、特徴があると思われる。
その特徴を、占いの中に盛り込めば、占いはかなりの確率で当たる(はず)。
どうだろうか?
というか、誰にでも当てはまる深層心理などが盛り込まれ、あまりにも自分を言い当てている、と感動しながら受け入れスタンス満々で読んでいくと、どれもこれも当たっているような気になるのかも。
喜んで熱くなって受け入れ、どんどん信じるのかも。

その当たり外れは、さておき。
占ってくれた知人と、今夜LINEで話す。
多分、みっちり話し込むことになるだろう。
どんなもので占ったのか、占いツールは絶対に教えてくれないと思う。
ダメモトで聞いてみようか。
だが、世の中にはそういう類の占いは、よくあるのだ。
娘は占いが好きで、よく占いのURLを送ってくる。
わたしは、もう仕事(ビジネス)は引退しているので、ビジネス絡みの内容には無関心。
なので、将来が延々と今後続く人なら道は長いが、もう終盤近くなると、占う中身がない。

ではあるものの、、、
よく当たっていて、ビックリだった。
が、反面、自分でも自覚している欠点を述べられると、カチンと来る。
あなた、神様なの?
なんでそんな高いところから見下ろして、人のあれこれを説明するの?
カンジワルイ、、、と、占いの内容に反感を持っている。

当たっても反感、当たらなくても反感。
じゃあ、どうしろと?
長所だけ、良いところだけ指摘してくれたら気分が良い。機嫌が良い。
それでは、占いの意味がない。


知性と思考力

2024-04-11 | 無題
「忖度」抜きで書く。
元々少ないブログ閲覧数なので、あまり気にしない。
というか、それがかえって好きなことが書けてよい。(→「負け惜しみ」を美化、昇華)

益々、人は遠ざかることを承知で書く。
(何度も念押し、しつこい、うるさい)

さて。
自分へのお清めの塩を撒いたところで、スタート。

長く知っている、ある人Aさん。
知的好奇心は、ほぼゼロ。
(動物本能的好奇心は旺盛)
深い思考力は、皆無。
単純、単細胞。
決して悪い人ではない。
世の中には、ズル賢い悪人は山のようにいる。
かくいうAさんも、時にはズル賢く立ち回り、損を最小限に食い止めることもある。
ある意味、防衛本能である。
が、根は正直な人物。

知的好奇心が無いのは、決して悪いことではない。
知的な面での話題を出さなければよいだけ。
小学生の孫と接しているかんじか。
ただ、小学生はまだ未完成で伸び代があり、将来、未来がある。
人によってはそのまま、あまり変わらず成人するかも知れないが。

知性や思考力があるからといって、なんの役にも立たないことがある。
科学者や研究者、政治家、などなど世の中の役に立ったり、実践に活かすなら効果があるが、ただ、頭の中だけで思っているだけでは、思っていないのと同じ。
逆に、リーダーが流れを悪い方向に導く場合もある。

知性や思考力はないが、その代わりに情熱がある、という人もいる。
優しくて、人情家で、力持ちである。
人が良い。
悪知恵などを働かせるかも知れないような知識や思考力は、いっそ無い方が潔癖でいられる。

ちなみに、この度の静岡県知事の職業差別発言で、知事は自らの職を辞することになった。
職業に高度や低度なんて、ねえ、、、。
シンクタンク、県庁職員がプライドを持って職務に取り組むのは結構なことである、、、にしても。
人材が全員シンクタンク系ばかりでは、作業をする人をどう動かすのか。
誰も作業しなくなったら、どうするのか。
リスペクトし合う協働の精神がなければ、うまくいかない。

先日、公民館のトイレ掃除の男性が、トイレ掃除現場で仕事仲間に、思いっきり仕事の愚痴、不満を言っていた。
わかるけれど、、、あんなに不満を募らせて仕事をしていたら、やる気はもちろん、充実感、達成感もないだろう。
好きでやっているのではないのは、わかるが。
愚痴の矛先は、行政のお偉方に向けられていた。
市役所や県庁の方々、、、間に挟まれて大変だろうけれど。


普通、人と人が、あまり深く知らない距離感なら、頭の中身はそうわからない。
明け透けに話したり、出したりしても、それが全てなのか、または真実なのか、誇張表現なのか、等身大のお人柄なのかどうかは、長い目で見ないとわからないことがある。
長い目で見ても、わからないこともある。
が、次第にわかってくる。

友好関係を結ぶにしても、大きく分けると、知的で、思考力の高い人と、そうでない人がいる。
だが、生き延びるには運が左右するので、知性や思考力はあまり関係ないこともある。

知的好奇心がない人は、何かを見ても接しても、あまり本人の印象に残らない。
すーっと表面を見るだけ。
別にそれが悪いわけではないが。

旅行やニュースも、海外には全く興味を示さない。
飛行機が怖い、とかではなく、自分に直接関係がないから関心を示さない。
もし、行けない絶対的な事情があるなら、行きたいという欲求や感情が芽生える前に無意識に押し潰すのだろうか。
関心を示したところで、どうなるわけでもないが、関心が積もり積もると行動に現れる。
一生、関心が薄い人もいて、家族も似たような感じなので、何の摩擦も起こらない。
目覚めるのが良いとは限らない。

人は人。
それが悪いとも良いとも、わたしは言っていない。
そういう人がいる、というだけだ。
同じような人同士が暮らしているので、問題はない。
本を読んだり、情報を得たり、考えたりしないので、こころは例え退屈であったとしても、本人は退屈の理由がわからない。
理由がわかったからといって、解決できるとは限らない。
物知りだからといって、行動しなければ、どうなるものでもない。

思っていても口に出さないだけの人もいるだろうし、行動に移さない人もいる。
ただ、志というものは、「持つ」と「持たない」、「ある」と「ない」では違ってくる。
周りにどんな大人がいるかによって、影響を受ける。
周りにどんな老人がいるかによっても、大きく影響を受けると思う。

※写真は、昨日の大阪市内、桜之宮公園、大川沿い