雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  戦乱の陰で 

2012-11-21 08:00:50 | 運命紀行
       運命紀行

          戦乱の陰で


慶長五年(1600)九月十五日、両軍合わせて十八万ともいわれる軍勢が美濃国関ヶ原において激突した戦いは、まさに天下分け目の戦いであった。
関ヶ原の戦いである。

御大将徳川家康率いる東軍は総勢十万余ともいわれ、その内訳をみると、家康軍が三万、井伊直政率いる三千六百、松平忠吉率いる三千、本多忠勝率いる五百と家康家臣団が続く。そして、先鋒隊の中心には、福島正則軍六千、浅野幸長軍六千五百、黒田長政軍五千四百、細川忠興軍五千、池田輝政軍四千五百など家康本隊に匹敵する秀吉恩顧とされる武将たちが陣を構えていた。

一方の西軍は総勢八万とも伝えられているが、頼みとした豊臣秀頼は出陣することなく、御大将に祭られた毛利輝元は大坂城留守部隊を務めていた。
関ヶ原に集結したのは、実質的な大将格ともいえる石田三成軍は六千九百、毛利秀元軍一万五千、宇喜多秀家軍一万七千二百、小早川秀秋軍一万五千、長宗我部盛親軍六千六百、小西行長軍四千、吉川広家三千、安国寺恵瓊千八百など西国大名を主力とした布陣であるが、頼みの島津は義久率いる千五百に過ぎなかった。

後世の軍事専門家たちの多くは、この両軍の布陣を見て西軍有利を指摘するという。
しかし、その評価には加えられていない条件があった。一つは小早川秀秋の裏切りであり、もう一つは当時毛利氏を運営していたとみられる、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊の戦いぶりは消極的で、吉川広家の場合は家康に内通していたという説もある。
それらの条件を加味すれば、軍事の専門家でなくとも、西軍の不利は明確に見える。

戦いは、家康旗本の意地を見せようとする井伊直政・松平忠吉軍の抜け駆けにより始まり、先鋒を任せられていた福島正則隊が激しく西軍陣営に攻め込んでいった。
その先制攻撃を受け止めて、逆に押し戻していった軍勢が宇喜多秀家軍であった。八万といわれる西軍勢力にあって、一万七千程は寝返り、二万程は様子見的な戦いぶりという中で、宇喜多秀家の大軍勢は、獅子奮迅の戦いを見せた。
勇猛で知られる福島軍を激しく押し戻し、一時は壊滅状態にまで攻め込んだが、次々と救援に加わる東軍勢に宇喜多軍は次第に分断され、戦力を消耗させられていった。
やがて、小早川秀秋の大軍が寝返り、松尾山の陣営より西軍の背後に襲い掛かると、西軍は一気に崩れていった。
この時、宇喜多秀家は小早川秀秋の裏切りに激怒し、「松尾山に乗り込んで金吾(秀秋)を叩き切ってやる」と叫んだといわれるが、家臣の明石全登に制止されて、やむなく落ち延びていったという。

この激しい戦いは、関ヶ原だけのものではなく、日本全土が東西両軍に分かれて、あるいは旗幟を鮮明にしない勢力をも巻き込んで、血みどろの戦いを繰り広げていた。
多くの将兵が倒れ、狩り出された足軽や人足たちも多くの命を失った。
そして、男たちの激しい戦いの陰では、女たちもまた同じような試練にさらされていたのである。

豪姫もまた、そんな女性の一人であった。


     * * *

豪姫は、天正二年(1574)前田利家の四女として生まれた。母は、賢妻賢母として名高い芳春院まつである。
生まれた場所は尾張国の荒子と伝えられているので、利家も生まれ育った場所と考えられる。
荒子の地は前田家の本拠地で、利家の長兄の利久が家督を継いでいたが、信長の命令で強制的に利家に家督を移されたのである。利久に実子が無く、病弱であったことが理由とされるが、二人の間にいささかの感情的なもつれが発生したらしい。
その家督の変更は、豪姫誕生の五年ほど前のことなので、その頃は利家の本拠地になっていたということになる。

豪姫の誕生は利家が三十七歳(三十八歳とも)の頃で、織田信長が最も激しい戦闘を繰り広げていた頃である。
浅井・朝倉との戦いから石山本願寺との戦いへと続き、長島一向一揆とも残虐な戦いに明け暮れていた。もっともこの頃は、利家は信長の側近くで警護や連絡将校の役目についていたらしく、得意の槍を奮う機会は少なかったらしい。
やがて、柴田勝家の与力に加えられ、越前一向一揆との凄惨な戦いの先頭に立った。豪姫の誕生はその最中の頃らしく、誕生の時は荒子から遠く離れていたものと思われる。
そして、越前鎮圧後、その功により翌年に、佐々成政、不破光治とともに府中三万石が与えられた。一人当たり三万三千石という大名となったのである。

この頃豊臣秀吉はといえば、浅井・朝倉との戦いの後、浅井氏の旧領北近江三郡を与えられ、長浜城主となっていた。天正元年(1573)のことで、名前を木下藤吉郎から羽柴秀吉に改めたのもこの頃のことである。
秀吉の年齢は利家より一歳上(同年とも)で、信長のもとに出仕間もない頃から親交があっらしい。
二人が粗末な足軽長屋で隣りあって住んでいたと伝えるものもあるが、秀吉はともかく、利家は最初からの知行持ちであり足軽長屋に住んでいたというのは信じがたい。
ただ、二人の妻となった、後の高台院ねねと芳春院まつが若い頃から親交があり、終生親しかったことは事実と思われる。

豪姫は、幼くして秀吉の養女となった。
生まれて間もない頃らしく、誕生前から生まれてきた子が女の子なら貰い受けたいと、秀吉夫妻から強い申し出あったともいわれる。
幼いうちに養女として秀吉夫妻のもとへ移ったのだとすれば、荒子か府中か長浜のいずれかで譲り渡しが行われたのであろうが、その後は長浜城で育てられたと考えられる。
いずれにしても、豪姫は子供のいなかった秀吉夫妻に溺愛されたようである。秀吉は、身分が上がっていくと共に大勢の猶子や養子養女を得ているが、その多くは政略や権勢確保を目的としたものであるが、少なくとも豪姫に限っては実の娘として可愛がっていたようである。
豪姫も秀吉やねねの期待を裏切らない女性に育っていったらしく、利家やまつの美貌や才覚を引き継いでいたらしい。
「もし豪が男であったなら、関白にしたものを」と秀吉は心境をねねに綴っている。

天正十六年(1588)、豪姫十五歳の時、宇喜多秀家と結婚した。
秀家はこの時すでに備前岡山の城主であったが、早くに父に死に分かれ秀吉の養子として可愛がられていた。年齢が秀家が二歳上ということを考えれば、二人はかなり前から知りあっていたと考えられる。
秀家は岡山五十七万石と秀吉の後見を受けて、秀吉政権下で重要な役割を担っていく。
文禄の役では、小西行長、加藤清正、福島正則といったそうそうたる武将ら渡海軍の総大将を務め、秀吉最晩年には五大老の一人に選ばれている。

しかし、歴史には一方的な上昇はありえず、慶長三年(1598) に稀代の英雄秀吉が没し、翌年には豪姫の実父利家も世を去った。
時代は関ヶ原の戦いへと流れていった。

関ヶ原において西軍総崩れとなる中、宇喜多秀家は僅かな側近と共に戦場を脱出した。
いったん崩れかけた軍勢は、大軍であればある程立て直すことなど不可能で、混乱状態に陥っていった。
記録によれば、西軍の戦死者は五千ともいわれ、東軍の戦死者も三千にのぼるとされる。僅か一日足らずの戦いにおいてこれだけの戦死者を出したことになり、負傷者はさらに多いのであろうが、逆に言えば、相当の敗残兵が西に向かい、山中に逃れていったということになる。さらに、それを上回る東軍の追討軍が後を追い、混乱はしばらく続く。

秀家は僅かの家臣と共に伊吹山中に逃れた。その期間は相当長い間だったと考えられるが、その後の状況、特に京都や大坂の状況を探っていたのであろう。厳しい逃避行であったと考えられるが、あるいは何らかの支援も受けていたのかもしれない。
やがて、薩摩の島津義弘らを頼って潜伏を続けた。伊吹山から遥々と薩摩への逃避行は、変装しての決死行であったともいわれるが、国内の大半が徳川傘下となりつつあり、残党狩りの厳しい中の移動は簡単なはずがない。おそらく、手引したり密かに支援してくれる勢力があったと考えられる。
薩摩潜伏中には、琉球へ逃れるといったことも考えられたらしいが、徳川体制が固まると共に、薩摩での滞在が困難となり、島津義弘の子供である忠恒によって家康のもとに身柄を引き渡された。慶長八年(1603)の頃である。ただ、その間に薩摩や豪姫の兄前田利長らから助命の嘆願がなされていた。
その願いが聞き入れられたらしく、駿河国久能山に幽閉された後、八丈島に流罪となった。

秀家が八丈島に送られたのは慶長十一年(1606)のことで、三十五歳の頃である。秀隆・秀継の二人の男の子も一緒であった。
秀家らの流人生活は延々と続くことになるが、前田家や宇喜多旧臣花房正成らの支援を受けて厳しいながらも生き延びることが出来たのである。前田家の宇喜多氏への支援は明治維新までも続くことになるが、当初は秘密裏の支援であったが、後には隔年七十俵の支援が公認されていたという。
元和二年(1616)、家康が死去した後で、秀家らの赦免が認められたが、秀家は八丈島に残ることを望んだという伝承もある。
秀家が八丈島で波乱の生涯を終えたのは、明暦元年(1655)十一月のことである。徳川将軍は四代家綱になっており、関ヶ原で戦った武将たちは、敵も味方もすでにこの世の人ではなかった。
もし、戦いの勝利者を最後まで生き延びた者と仮定するならば、宇喜多秀家こそ関ヶ原の戦いの真の勝利者といえるのかもしれない。

さて、秀家の妻豪姫であるが、関ヶ原で西軍の大敗が明らかになった頃は、おそらく、大坂の宇喜多屋敷に居たと考えられる。
敗戦の報とともに大混乱になったと考えられるが、東軍勢力の攻撃までには時間の余裕はあった。豪姫が宇喜多家に嫁ぐ際に付けられていた中村次郎兵衛(後に刑部)らに護られて娘の佐保姫らと共に前田屋敷に逃れ、さらに兄である金沢の前田利長の庇護を受けることが出来た。

その後は、城下に移り住み、再婚することなく、秀家の身を案じ遥か八丈島へ支援を続けたという。
また、その頃、キリシタン大名として名高い高山右近は前田家の客将として迎えられていて、金沢には多数のキリシタン信者が誕生していて、豪姫もマリアという洗礼名を得ていたという話もある。
そして、もう一つ、豪姫は金沢に戻ってから女子を生んでいる。秀家の子供とされていて、どうやら秀家が薩摩に逃れる前には何度かの逢瀬があったらしいのである。切ない話である。

豪姫は四人の子供を儲けている。
長男と次男は夫秀家と共に八丈島に流されたが、この地で血脈を伝えている。
長女佐保姫(理松院)は、前田家家臣山崎長郷に嫁ぎ、長郷没後には同じく前田家家臣の富田重家に再嫁している。
次女冨利姫(先勝院)は、利長の養女として、伏見宮貞清親王に嫁いでいる。
豪姫は前田家という大きな傘に護られながら、娘たちを育て、遥かな地の夫を想いつつ密やか生活を送った。そして、寛永十一年(1634)、金沢城鶴の丸で、その生涯を終えた。享年六十一歳である。
葬儀は、前田・宇喜多・前田と豪姫を護り続けてきた中村刑部ら多くの人々の手によって、宇喜多氏の菩提寺である金沢の浄土宗大連寺で行われた。

時は流れて、平成七年(1995)五月、この大連寺において豪姫の三百六十回忌法要が営まれた。そして、豪姫と秀家が加賀と八丈島に生き別れてから四百年を経て、二人の分骨を頂き記念碑が建立され、祀られているという・・・。

                                       ( 完 )
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