運命紀行
二条城の会見
徳川家康と豊臣秀頼の二条城における会見が実現したのは、慶長十六年(1611)三月二十八日のことであった。
家康が駿府から上洛し二条城に入ったのは、三月十七日のことである。四年ぶりの上洛であった。
上洛の目的は、二十七日に行われる後陽成天皇の譲位、並びに四月十一日の後水尾天皇の即位という一連の行事に参列するためであった。
しかし、二条城に入ると、旅の疲れを取るのもそこそこに、織田有楽斎を大坂城に向かわせた。自身の二条城入城を伝えさせ、秀頼の上洛を促せるためであった。
関ヶ原の戦い、家康の征夷大将軍就任、と天下の覇権は豊臣家から徳川家へと移行したことは明らかであったが、今なお大坂城を拠点とする豊臣勢力は無視することのできない存在であった。
徳川政権下にあっては、豊臣家といえども摂津・河内・和泉の六十五万石を安堵された一大名に過ぎず、豊臣恩顧とされる大名たちも関ヶ原の戦いにより滅ぼされるか残された有力大名はことごとく徳川政権下に組み込まれていた。
しかしその一方で、加藤清正、福島正則などを初め、いまだ豊臣家に同情を寄せている武将も少なくなく、西国の有力大名や外様第一の前田利長さえも、一朝ことある時には豹変する可能性を否定することは出来なかった。さらに、大坂や京都町民の秀吉人気はなお高く、公家衆の豊臣に寄せる信頼も捨て置けない状況にあった。
家康としては何としても秀頼の徳川家への臣従を天下に示す必要があった。
この数年、大坂方重臣片桐且元らや織田有楽斎、さらには秀吉未亡人である高台院ねねにも助力を願い、秀頼と対面の場を作るよう画策してきたが、淀殿は頑として受け入れようとはしなかった。
今回の天皇譲位の大儀に上洛した家康はすでに七十歳であり、今回が秀頼に上洛させる最後の機会だという思いが強かった。
この家康の並々ならぬ決意は、清正ら秀吉恩顧とされる大名たちに家康の重臣たちから伝えられていた。それは、この機会に対面が実現しない場合には、豊臣家の存続の危機が訪れる懸念を示すものであった。
豊臣家の存続を強く願う大名たちの懸命の働きかけで、ついに淀殿を動かし秀頼上洛が実現したのである。
三月二十七日未明、秀頼は加藤清正・浅野幸長・織田有楽斎・片桐且元・片桐貞隆・大野治長らをはじめ小姓などおよそ三十人に警護されて、楼船で淀川を遡航した。秀頼が大坂城を出るのは、慶長四年(1599)に伏見城より移って以来実に十二年ぶりのことであった。
淀川の両岸は、清正・幸長の軍勢が弓・鉄砲までそろえた厳重さで警備されていた。福島正則は病気であったとも留守居役を務めたともされているが、実は万が一に備えて京都近くに軍勢を集めていたとも伝えられている。
伏見に到着した時、家康の使いとして九男の義直(後の尾張徳川家初代、この時十歳)、十男の頼宣(後の紀伊徳川家初代、この時九歳)が出迎えており、池田輝政・藤堂高虎らも随行していた。
その地で一泊した後、一行は二条城に向かった。秀頼の乗った輿は左右の扉を開け放って若武者ぶりを洛中の人々に見せ、左右には清正と幸長が付き従っていた。
一行は途中片桐且元の屋敷で装束を整え、午前八時頃に二条城に着いた。
家康と秀頼の対面は、御成の間において家康が北に秀頼が南に着座して始まった。
それぞれの挨拶の後、まず吸い物が出され、盃の交換が行われた。
次には盛大な進物の交換が行われ、その席には高台院ねねも姿を見せ挨拶があり進物の交換を行っている。
その後は饗宴となり、次の間では随行の武将たちにも饗宴が開かれたが、清正はその招きには応じず、秀頼の側を一時も離れようとはしなかった。
宴もたけなわとなった頃、「さぞや母君がお待ちであろう」と清正が出立を促した。
家康も、清正の言葉を咎めることもなく秀頼を玄関まで見送り、義直・頼宣に途中まで見送りさせた。
無事対面を終えた秀頼一行は、豊国神社に参詣し、隣接する方広寺の大仏工事を視察した。
帰路途中には清正の伏見屋敷に立ち寄り、再び船で淀川を下り大坂に帰った。
船中清正は、肩の荷を下ろしたかのように供衆らと酒宴を開いたという。
家康と秀頼の対面が無事終わったことで、それも秀頼が押さえ付けられる形ではなかったことに、大坂城の重臣たちや大坂に親近の情を抱いている大名たちは少なからず安堵の気持ちを抱いた。
江戸との手切れを懸念していた京都や大阪・堺の町衆たちも天下泰平の到来と喜んだという。
しかし、家康の捉え方は違ったようである。京都の庶民の秀頼人気は高く、何よりも秀頼のあまりにも堂々たる若武者ぶりに、将来への懸念がより高まったともいわれている。
懸命に淀殿説得を続け、必死の秀頼護衛を無事果たした清正は、この対面から僅か三か月を待たずして世を去った。
五月二十六日に上方から肥後へ帰る船中で発病したもので、六月二十四日に身罷ったのである。享年五十歳であった。
* * *
加藤清正の誕生は、永禄五年(1562)である。幼名は夜叉丸と名付けられた。
織田信長が世に出る切っ掛けとなった合戦である桶狭間の戦いの二年後の頃であり、同じ秀吉子飼いの大名である福島正則より一年遅れての誕生である。
誕生の地は、尾張国愛知郡中村で、秀吉の生家とはごく近かったらしい。
父は加藤弾正右衛門兵衛清忠、自分勝手に名付けられる時代であったとはいえ何とも勇ましい名前であるが、身分は高くなくとも元は武士であった。身体を壊したため刀鍛冶に転身したが、清正の母は、その転身先の親方の娘である。
その父は清正がまだ幼い頃に病死し、母の手一つで育てられた。
この母は、秀吉の母と従姉妹の関係であったらしく、ほどなく秀吉を頼っているが、おそらく幼年期は、秀吉夫人ねねに可愛がられたことと思われる。
もっとも、その頃の秀吉は木下藤吉郎と名乗っていたが、天正十五年(1577)には長浜城主になっており、その前後に小姓として奉公するようになった。
清正が十五、六歳の頃で、元服し名乗りも夜叉丸から虎之介清正となり、翌年には百二十石(異説ある)の知行を得ているが、初陣した様子はなく、父がいないことや縁戚であることが考慮されたらしい。
その頃秀吉は中国路を転戦しているが、おそらく清正も側近くに仕えていたものと思われるが、目立った働きなどは伝えられていない。
清正の目覚ましい働きが伝えられているのは、織田信長が倒れた後の後継者をめぐる争いの決着をつけた賤ヶ岳の戦いである。後の世まで「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる一人として活躍し、その戦功により三千石を得ている。
その後も、福島正則らと共に秀吉子飼いの侍大将として各地を転戦、九州征伐の後肥後国領主となっていた佐々成政が失政を問われ切腹の処分となった後を受けて、肥後半国十九万五千石を与えられた。
侍大将は一躍二十万石にも及ぶ大名に抜擢されたのである。
この時、残りの肥後半国を与えられたのは小西行長であった。行長は堺商人の出であり、いわゆる文治派として秀吉幕下で頭角を現してきた人物である。
武者働き一筋の清正にとって、それまで行長に対するライバル意識などなくむしろ後方支援を受けることが多かったと考えられる。清正にとってのライバルは福島正則など戦場を駆け巡る槍自慢の男たちであった。
しかし、肥後国を二つに分け与えられたことによって、二人の間に国境をめぐる幾つかの争いが発生したらしい。そして何よりも、文禄元年(1592)に始まる朝鮮侵攻によって二人の仲は厳しく対立することとなり、豊臣政権がもろくも崩れ去る大きな原因を生み出すことになるのである。
加藤清正といえば、「虎退治」と即座に連想されるように、清正を語るには朝鮮の役を理解する必要がある。ただ本稿では、その部分は割愛させていただくが、文禄の役においては、一番隊の大将が小西行長であり、二番隊の大将が加藤清正であった。以下九番隊まで組織されていたが、この二人が先鋒隊を率いて別ルートを突き進んでいったが、この過程により二人の間には修復不能なまでの亀裂が入ってしまったのである。清正は、文治派とされる一派の讒言で秀吉から謹慎処分さえ受けているのである。
ことはそれほど簡単な理由ではなく、どちらかに理があり正義があるといった単純な判断など出来るものではないが、この朝鮮の役により、加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政といった武断派とされる一派と、石田三成・小西行長ら文治派とされる一派との対立を生み出してしまったのである。
そして、秀吉が没するとともにその対立は深刻さを増し、軍事的に圧倒的に優勢である武断派は徳川家康と親密さを増して行き、関ヶ原の合戦へと雪崩をうつように時代を動かせたのである。
清正は豊臣政権下の武断派の代表的人物とされる。実際身の丈六尺三寸(190cm余)の堂々たる体躯に長烏帽子形兜というとんがり帽子のような兜を付けて戦場を疾駆する様は、あたりを圧するに十分なものであったという。
その一方で、藤堂高虎と並ぶ築城の名人として知られ、熊本城はもちろん、肥前名護屋城・江戸城・尾張名古屋城などの築城にあたってはその才能を発揮している。また内政においても、関ヶ原の戦いの後に与えられた肥後五十二万石においては、治水や農地改革において大きな業績を示しており、その功績は今に語り継がれている。
こんな逸話が残されている。
徳川幕府の命令により尾張名古屋城の普請にあたっていた時のことである。
福島正則が、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は、「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と言ったという。
清正も正則も、幼い頃から秀吉夫妻に可愛がられた子飼いの猛将であり秀吉と縁戚関係にあったとも伝えられている。二人とも豊臣家に対する忠節の気持ちは極めて厚く、戦場の働きばかりでなく、内政面でも非凡であったことは間違いない。
ただ、政治向きのことに関しては共に得てではなく、そのことが豊臣家にとって惜しまれる。
この逸話からも分かるように、清正は、豊臣への忠義心と共に、家康の実力の大きさを熟知していて、それだけに徳川体制下での豊臣の生き残りを必死に画策していたのである。
清正は、会見二か月後の五月二十六日、領国肥後に向かう船中で発病した。そして、ようやく辿り着いた熊本城において、六月二十四日にその壮大な生涯を閉じた。享年五十歳。
思い残すことは多く、その死因についても様々な憶測がある。
しかし、もしかすると、ほどなく起こる豊臣家の滅亡を見なくて済んだのは、天の配慮だったのかもしれない。
( 完 )
二条城の会見
徳川家康と豊臣秀頼の二条城における会見が実現したのは、慶長十六年(1611)三月二十八日のことであった。
家康が駿府から上洛し二条城に入ったのは、三月十七日のことである。四年ぶりの上洛であった。
上洛の目的は、二十七日に行われる後陽成天皇の譲位、並びに四月十一日の後水尾天皇の即位という一連の行事に参列するためであった。
しかし、二条城に入ると、旅の疲れを取るのもそこそこに、織田有楽斎を大坂城に向かわせた。自身の二条城入城を伝えさせ、秀頼の上洛を促せるためであった。
関ヶ原の戦い、家康の征夷大将軍就任、と天下の覇権は豊臣家から徳川家へと移行したことは明らかであったが、今なお大坂城を拠点とする豊臣勢力は無視することのできない存在であった。
徳川政権下にあっては、豊臣家といえども摂津・河内・和泉の六十五万石を安堵された一大名に過ぎず、豊臣恩顧とされる大名たちも関ヶ原の戦いにより滅ぼされるか残された有力大名はことごとく徳川政権下に組み込まれていた。
しかしその一方で、加藤清正、福島正則などを初め、いまだ豊臣家に同情を寄せている武将も少なくなく、西国の有力大名や外様第一の前田利長さえも、一朝ことある時には豹変する可能性を否定することは出来なかった。さらに、大坂や京都町民の秀吉人気はなお高く、公家衆の豊臣に寄せる信頼も捨て置けない状況にあった。
家康としては何としても秀頼の徳川家への臣従を天下に示す必要があった。
この数年、大坂方重臣片桐且元らや織田有楽斎、さらには秀吉未亡人である高台院ねねにも助力を願い、秀頼と対面の場を作るよう画策してきたが、淀殿は頑として受け入れようとはしなかった。
今回の天皇譲位の大儀に上洛した家康はすでに七十歳であり、今回が秀頼に上洛させる最後の機会だという思いが強かった。
この家康の並々ならぬ決意は、清正ら秀吉恩顧とされる大名たちに家康の重臣たちから伝えられていた。それは、この機会に対面が実現しない場合には、豊臣家の存続の危機が訪れる懸念を示すものであった。
豊臣家の存続を強く願う大名たちの懸命の働きかけで、ついに淀殿を動かし秀頼上洛が実現したのである。
三月二十七日未明、秀頼は加藤清正・浅野幸長・織田有楽斎・片桐且元・片桐貞隆・大野治長らをはじめ小姓などおよそ三十人に警護されて、楼船で淀川を遡航した。秀頼が大坂城を出るのは、慶長四年(1599)に伏見城より移って以来実に十二年ぶりのことであった。
淀川の両岸は、清正・幸長の軍勢が弓・鉄砲までそろえた厳重さで警備されていた。福島正則は病気であったとも留守居役を務めたともされているが、実は万が一に備えて京都近くに軍勢を集めていたとも伝えられている。
伏見に到着した時、家康の使いとして九男の義直(後の尾張徳川家初代、この時十歳)、十男の頼宣(後の紀伊徳川家初代、この時九歳)が出迎えており、池田輝政・藤堂高虎らも随行していた。
その地で一泊した後、一行は二条城に向かった。秀頼の乗った輿は左右の扉を開け放って若武者ぶりを洛中の人々に見せ、左右には清正と幸長が付き従っていた。
一行は途中片桐且元の屋敷で装束を整え、午前八時頃に二条城に着いた。
家康と秀頼の対面は、御成の間において家康が北に秀頼が南に着座して始まった。
それぞれの挨拶の後、まず吸い物が出され、盃の交換が行われた。
次には盛大な進物の交換が行われ、その席には高台院ねねも姿を見せ挨拶があり進物の交換を行っている。
その後は饗宴となり、次の間では随行の武将たちにも饗宴が開かれたが、清正はその招きには応じず、秀頼の側を一時も離れようとはしなかった。
宴もたけなわとなった頃、「さぞや母君がお待ちであろう」と清正が出立を促した。
家康も、清正の言葉を咎めることもなく秀頼を玄関まで見送り、義直・頼宣に途中まで見送りさせた。
無事対面を終えた秀頼一行は、豊国神社に参詣し、隣接する方広寺の大仏工事を視察した。
帰路途中には清正の伏見屋敷に立ち寄り、再び船で淀川を下り大坂に帰った。
船中清正は、肩の荷を下ろしたかのように供衆らと酒宴を開いたという。
家康と秀頼の対面が無事終わったことで、それも秀頼が押さえ付けられる形ではなかったことに、大坂城の重臣たちや大坂に親近の情を抱いている大名たちは少なからず安堵の気持ちを抱いた。
江戸との手切れを懸念していた京都や大阪・堺の町衆たちも天下泰平の到来と喜んだという。
しかし、家康の捉え方は違ったようである。京都の庶民の秀頼人気は高く、何よりも秀頼のあまりにも堂々たる若武者ぶりに、将来への懸念がより高まったともいわれている。
懸命に淀殿説得を続け、必死の秀頼護衛を無事果たした清正は、この対面から僅か三か月を待たずして世を去った。
五月二十六日に上方から肥後へ帰る船中で発病したもので、六月二十四日に身罷ったのである。享年五十歳であった。
* * *
加藤清正の誕生は、永禄五年(1562)である。幼名は夜叉丸と名付けられた。
織田信長が世に出る切っ掛けとなった合戦である桶狭間の戦いの二年後の頃であり、同じ秀吉子飼いの大名である福島正則より一年遅れての誕生である。
誕生の地は、尾張国愛知郡中村で、秀吉の生家とはごく近かったらしい。
父は加藤弾正右衛門兵衛清忠、自分勝手に名付けられる時代であったとはいえ何とも勇ましい名前であるが、身分は高くなくとも元は武士であった。身体を壊したため刀鍛冶に転身したが、清正の母は、その転身先の親方の娘である。
その父は清正がまだ幼い頃に病死し、母の手一つで育てられた。
この母は、秀吉の母と従姉妹の関係であったらしく、ほどなく秀吉を頼っているが、おそらく幼年期は、秀吉夫人ねねに可愛がられたことと思われる。
もっとも、その頃の秀吉は木下藤吉郎と名乗っていたが、天正十五年(1577)には長浜城主になっており、その前後に小姓として奉公するようになった。
清正が十五、六歳の頃で、元服し名乗りも夜叉丸から虎之介清正となり、翌年には百二十石(異説ある)の知行を得ているが、初陣した様子はなく、父がいないことや縁戚であることが考慮されたらしい。
その頃秀吉は中国路を転戦しているが、おそらく清正も側近くに仕えていたものと思われるが、目立った働きなどは伝えられていない。
清正の目覚ましい働きが伝えられているのは、織田信長が倒れた後の後継者をめぐる争いの決着をつけた賤ヶ岳の戦いである。後の世まで「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる一人として活躍し、その戦功により三千石を得ている。
その後も、福島正則らと共に秀吉子飼いの侍大将として各地を転戦、九州征伐の後肥後国領主となっていた佐々成政が失政を問われ切腹の処分となった後を受けて、肥後半国十九万五千石を与えられた。
侍大将は一躍二十万石にも及ぶ大名に抜擢されたのである。
この時、残りの肥後半国を与えられたのは小西行長であった。行長は堺商人の出であり、いわゆる文治派として秀吉幕下で頭角を現してきた人物である。
武者働き一筋の清正にとって、それまで行長に対するライバル意識などなくむしろ後方支援を受けることが多かったと考えられる。清正にとってのライバルは福島正則など戦場を駆け巡る槍自慢の男たちであった。
しかし、肥後国を二つに分け与えられたことによって、二人の間に国境をめぐる幾つかの争いが発生したらしい。そして何よりも、文禄元年(1592)に始まる朝鮮侵攻によって二人の仲は厳しく対立することとなり、豊臣政権がもろくも崩れ去る大きな原因を生み出すことになるのである。
加藤清正といえば、「虎退治」と即座に連想されるように、清正を語るには朝鮮の役を理解する必要がある。ただ本稿では、その部分は割愛させていただくが、文禄の役においては、一番隊の大将が小西行長であり、二番隊の大将が加藤清正であった。以下九番隊まで組織されていたが、この二人が先鋒隊を率いて別ルートを突き進んでいったが、この過程により二人の間には修復不能なまでの亀裂が入ってしまったのである。清正は、文治派とされる一派の讒言で秀吉から謹慎処分さえ受けているのである。
ことはそれほど簡単な理由ではなく、どちらかに理があり正義があるといった単純な判断など出来るものではないが、この朝鮮の役により、加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政といった武断派とされる一派と、石田三成・小西行長ら文治派とされる一派との対立を生み出してしまったのである。
そして、秀吉が没するとともにその対立は深刻さを増し、軍事的に圧倒的に優勢である武断派は徳川家康と親密さを増して行き、関ヶ原の合戦へと雪崩をうつように時代を動かせたのである。
清正は豊臣政権下の武断派の代表的人物とされる。実際身の丈六尺三寸(190cm余)の堂々たる体躯に長烏帽子形兜というとんがり帽子のような兜を付けて戦場を疾駆する様は、あたりを圧するに十分なものであったという。
その一方で、藤堂高虎と並ぶ築城の名人として知られ、熊本城はもちろん、肥前名護屋城・江戸城・尾張名古屋城などの築城にあたってはその才能を発揮している。また内政においても、関ヶ原の戦いの後に与えられた肥後五十二万石においては、治水や農地改革において大きな業績を示しており、その功績は今に語り継がれている。
こんな逸話が残されている。
徳川幕府の命令により尾張名古屋城の普請にあたっていた時のことである。
福島正則が、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は、「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と言ったという。
清正も正則も、幼い頃から秀吉夫妻に可愛がられた子飼いの猛将であり秀吉と縁戚関係にあったとも伝えられている。二人とも豊臣家に対する忠節の気持ちは極めて厚く、戦場の働きばかりでなく、内政面でも非凡であったことは間違いない。
ただ、政治向きのことに関しては共に得てではなく、そのことが豊臣家にとって惜しまれる。
この逸話からも分かるように、清正は、豊臣への忠義心と共に、家康の実力の大きさを熟知していて、それだけに徳川体制下での豊臣の生き残りを必死に画策していたのである。
清正は、会見二か月後の五月二十六日、領国肥後に向かう船中で発病した。そして、ようやく辿り着いた熊本城において、六月二十四日にその壮大な生涯を閉じた。享年五十歳。
思い残すことは多く、その死因についても様々な憶測がある。
しかし、もしかすると、ほどなく起こる豊臣家の滅亡を見なくて済んだのは、天の配慮だったのかもしれない。
( 完 )