運命紀行
孤高の武将
世に名高い小山評定と呼ばれる軍議が開かれたのは、慶長五年(1600)七月二十四日のことであった。
大坂において石田三成挙兵との情報を得ていた徳川家康は、上杉景勝討伐に向かっていた大軍を止めて、軍議の開催を決めた。
家康は、自分が大坂を離れれば、三成を中心とした反徳川勢力が挙兵する可能性は十分予測していたことであるが、次々と寄せられる情報は、予期していた以上に敵勢力は巨大化していた。毛利、宇喜多、さらには島津までもが徳川討伐軍に加わったらしく、その中心に淀殿に支えられている秀頼が据えられているらしいことは、三成らしい策略であり、上杉征伐に参軍している武将たちの大坂屋敷にも手を廻しているはずである。
上杉討伐軍は、名目上は豊臣家の命令により派遣された軍勢であるが、六万余の大軍の過半は秀吉恩顧の大名たちである。三成が豊臣秀頼を大将とした体制を整えているとすれば、従軍してきている将兵たちが動揺する可能性は高い。有力な武将たちが大坂方に味方することになれば、雪崩を打つようにして上杉討伐軍は徳川討伐軍に変わる懸念さえあった。
家康は、かねてより特に昵懇であり信頼できる黒田長政を中心に有力武将への根回しを行った。三成が挙兵することを考え、豊臣政権下の有力武将で味方になりうる人物を選んで上杉討伐軍を組んだつもりではあったが、いざ江戸・大坂の正面衝突となれば、豊臣への忠誠を優先させる武将が出る懸念は捨てきれなかった。
家康は可能な限りの根回しを行った上で、下野国の小山に各武将を集め三成挙兵の情報を伝えた。
この情報は、上杉討伐に向かっていた軍勢にとっては初めて聞く情報であったが、それほどの驚きはなかった。いずれの大名も、三成の挙兵はある程度予想されることであったからである。
家康は上方からの情報を伝えた後、「どなたも大坂屋敷に妻子を残されている。また秀頼殿の御身も気がかりであろう。こちらに味方をするのも、石田に味方をするのも自由である。立ち退かれる御方に決して手出しはしない」と、大見えを切った。
さすがに各武将の間に動揺が見られたが、すぐさま大音声をあげたのが福島正則であった。
「妻子を押さえられたとて、石田の味方をすることなどあるはずもない」と、徳川方に味方することを宣言し、さらに東西激突に向かう途上にある正則の居城、清州城を家康に提供することまでも告げた。
かねてから家康はもちろん黒田長政らの手配りもあって、ほぼ全員が徳川方につくことを鮮明にした。
この時、大坂への忠誠を尽くすとして退陣したのは、美濃岩村四万石の城主田丸具安ただ一人であったという。
上杉征伐は直ちに中止され、上杉軍の反撃を抑える軍勢を残して大軍は西に向かった。
徳川方はこの軍勢を中心にして関ヶ原の合戦へと突入していくわけであるが、すでに各地での戦闘は始まっていた。大坂方が東上する道筋はもちろん、全国の広い地域で大坂方、徳川方の旗幟を鮮明にし、あるいは両陣営の優劣を慎重にうかがいながら、全大名が戦闘態勢に入っていた。
天下分け目といわれる関ヶ原の合戦は、東西両軍を合わせれば二十万を超える軍勢が激突したわが国史上最大の合戦であるが、戦いの帰趨は一日で決着をみた。
正則は、石田三成との対陣を望んだが果たされないまま、井伊直政、松平忠吉らの抜け駆けにより戦端が開かれた。福島軍は西軍最大の勢力を有してい宇喜多軍と激戦となったが、戦況は劣勢となり五町余りも押し込まれ、壊滅の危機に見舞われた。正則自ら叱咤激励し、ようやく敵軍の進攻を止め、東軍他部隊の支援もあって反撃にかかった。
さらに、小早川秀秋の寝返りにより、西軍はたちまち総崩れとなっていった。
戦後、正則は東軍勝利への貢献第一と家康から激賞されたが、今少し長い時間軸でこの戦いを見ると、小山評定での正則の徳川軍に味方する積極的な発言こそが、この戦いの勝敗の大きな要因であったように思われる。
しかもその発言は、黒田長政に説得されたり、石田三成憎しの思いから発せられた部分が大きいとしても、正則自身としては、すでに天下第一の実力者と目される家康のもとで豊臣家の存続を確立させたいという思いもあった。
ただ、歴史の流れは、槍一筋に生きてきた男の切なる願いに応えようとはしなかった。
* * *
わが国歴史上最も鮮やかな出世を遂げた人物といえば、やはり豊臣秀吉ではないだろうか。
その彼が、大陸への夢を描くほどの権力を掴みながら、子供の代さえも支え切ることが出来ず滅び去ったのはなぜなのだろうか。それも、関ヶ原の戦いが実質的な権力移動の分岐点であったとすれば、秀吉が没してからわずか二年後のことなのである。
豊臣政権がこれほど脆弱だったのには幾つかの要因が考えられる。その一つに、後継体制がいわゆる外様の有力者が主体になっていたことがあげられる。
例えば、秀吉が死期を悟って作ったとされる五大老の制度を見ても、徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景(後に、上杉景勝)、宇喜多秀家の五人であるが、いずれも戦国時代を戦い抜いてきた武将たちである。強いて言えば、宇喜多秀家は秀吉の養子として育てられていて、実際に関ヶ原の合戦において西軍のために懸命の働きをしたのは宇喜多勢だけなのである。
つまり、秀吉は、各地の有力大名を傘下に取り込むことは出来たが、完全に臣従させ、あるいは子飼いの大老を誕生させられなかったことが豊臣家の致命的な弱点といえる。
福島正則や加藤清正といった武将では力不足と考えたのであろうが、彼らさえも敵に回し、石田三成や淀殿取り巻きの勢力で徳川勢と戦うのは、所詮勝負にならなかったのは当然ともいえる。
秀吉にとって数少ない子飼いの武将の筆頭格といえる福島正則は、永禄四年(1561)尾張国海東郡で生まれた。秀吉より二十四年ほど遅れての誕生である。
父は福島正信(異説もある)とされ、桶屋を営んでいたという。母は秀吉の叔母にあたることから、まだ幼い頃に秀吉の小姓として出仕したらしい。ただ、その頃の秀吉には幼い小姓を側に置く余裕などなかったと考えられ、おそらく秀吉の妻ねねのもとで養育されていたのだろう。
天正六年(1578)に、播磨の三木城攻撃で初陣を果たした。十八歳の頃で、秀吉は四十二歳、すでに織田信長から一軍を任せられる地位に立っていた。
天正十年、織田信長が討たれた後の山崎の戦いでは目覚ましい働きをし、それまでの二百石から五百石に加増されている。
その翌年の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍を果たし敵将を討ち取る殊勲をあげた。この戦いでは、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれることになる秀吉自慢の荒武者たちが大活躍をしたが、戦後の恩賞では、他の六人が三千石を与えられたのに対して正則は五千石が与えられた。突出した働きであったと考えられるが、縁戚であることが考慮された面があるのかもしれない。
天正十三年(1585)に起きた小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康の唯一の対陣であるが、正則も父・正信と共に後備えとして兵三百を率いて出陣している。桶屋であった父も兵卒として動員されているあたり、天下人目前の秀吉といえども、兵員を集めるのは簡単なことではなかったらしい。
正則は秀吉子飼いの荒武者として活躍を続け、天正十五年の九州征伐の後、伊予国今治十一万石の大名に封ぜられ、小田原征伐にも加わっている。
文禄元年(1592)からの文禄の役では渡海し、五番隊の主将として京畿道の攻略にあたり、年末には京畿道竹山の守備を担当している。
この後、一度帰国しているが、文禄三年には再び朝鮮に渡り、軍船に乗り敵水軍と戦うなど奮戦している。
文禄四年には、秀吉の養子となっていた関白豊臣秀次が自刃させられるという痛ましい事件が発生した。
その後の秀次の妻子などに対する非情な処断は、豊臣家の将来を暗示するような事件に思えてならない。
この時正則は日本に帰っていて、秀次に切腹の命令を伝える使者に命じられている。
一連の騒動の後、正則は尾張の清州二十四万石を与えられた。大幅な加増であるが、清州は重要拠点であり秀吉の信任のほどがうかがえる。
文禄の役に続く慶長の役には正則は渡海していないが、秀吉は慶長四年にはさらに大規模の朝鮮侵攻を計画していて、その軍勢の大将には、石田三成、増田長盛とともに抜擢されていた。結局この計画は、秀吉の死去により実現されなかったが、秀吉が正則を武将として高く評価していたことが分かる。
ただ、これら一連の朝鮮侵攻は、結局得るものはなく、多くの人命・物資を失い、多くの大名に不満を持たせてしまった。そして何よりも、その戦略や賞罰に関連して、武断派と文治派とされる両者の溝を修復し難いものにしてしまったのである。
秀吉死去から関ヶ原の合戦までに要した時間は、僅かに二年一か月である。
この僅かな時間の間に家康は着々と地盤を固め、正則自身も養子の正之に家康の養女である満天姫との婚姻を実現している。
この婚姻は秀吉の遺命に背くものであるが、家康は強引に秀吉恩顧の武将を手中に取り込もうとしていたし、正則には家康と昵懇になることが豊臣家を守ることになるという思惑があった。
しかし、豊臣恩顧とされる大名たちの武断派と文治派との亀裂は深刻さを増すばかりで、関ヶ原の合戦において豊臣政権は弱体化してしまった。
関ヶ原合戦の後、正則は安芸広島と備後鞆の四十九万八千石を領有する大大名として遇せら、加藤清正や黒田長政なども大封を与えられたが、徳川体制は堅固さを増していった。
家康が豊臣秀頼に対面を求めたのは、豊臣が徳川の臣下となったことを天下に示すためであるが、淀殿を中心とした豊臣政権はこれに抵抗を続けていた。
しかし、豊臣家を存続させるためには、徳川政権下で生き延びる術を見出すべきだと秀吉恩顧の武将たちの多くは考えていた。
そして、何とか淀殿を説得し、二人の二条城での対面は実現した。対面には、加藤清正、浅野幸長、大野治長ら三十余名に警護され淀川をさかのぼったが、淀川の両岸には清正、幸長らの軍勢が警護を固めていた。
正則は、この対面の場には病気を理由に出ていないが、京都の近くに一万の軍勢で万が一に備えていたと伝えられている。
しかし、この対面は、豊臣家存続の切り札とはならなかった。
家康は、この対面で秀頼の見事な若武者ぶりに驚き、豊臣存続を危険と判断したという伝聞もある。
さらに、この会見後まもなく、加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政といった、親豊臣とみられる武将が次々と世を去っていった。いずれも病死とされているが、長政の六十五歳はともかくも、清正五十歳、幸長三十八歳、輝政五十歳という年齢を考えると、作為的なものを感じられないこともない。
正則は、一人残されてしまった心境ではなかったか。
前田、黒田、毛利、島津など、かつては秀吉政権下にあった有力大名は、徳川体制下に積極的に加わろうとしていた。
豊臣家が滅亡する大坂の陣では、秀頼から加勢を求められるも拒絶するが、家康からは江戸留守居を命じられている。なお羽柴の姓を有していた正則は、油断できない人物と見られていたのである。
家康死後間もない元和五年、広島城の修復をめぐって詰問を受け改易とされる。広島五十万石を没収され、信濃と越後に四万五千石が与えられ、それも家督を譲っていた嫡男忠勝の早世により二万五千石を返却している。
そして、寛永元年(1624)七月、信濃高井野に残されている二万石の地で没した。享年六十四歳。
病死として幕府に届けられたが、幕府の使者が到達する前に火葬されたため、死因に疑義も持たれている。さらに、この葬儀を咎められ、最後の二万石も没収となり、三代目を継いでいた正利は三千石の旗本とされ、それも、嫡子が無く御家断絶となる。
戦国時代後半を描いたドラマなどには、福島正則はよく登場する。
しかし、主役になることはあまりなく、「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」という人物評価が定着しているかに思われる。事実、残忍であったとか、酒での失敗が多かったとかといった逸話も多い。
しかしこれらは、徳川家の資料や、宣教師の著書などからの影響が大きいと思われる。残忍な行いがあったことは確かであろうが、当時の武将であれば、信長であれ、秀吉であれ、家康であれ、目をそむけたくなるような残虐行為を行っている。正則だけではないのである。
伝えられて逸話の中には、広島藩などの内政に優れていたこと、清州などでは宣教師に感謝されていることなどもある。酒の上の失敗でも、有名な黒田節にある日の本一の槍を飲み取った武者は母里太兵衛であるが、飲み取られたのは正則なのである。むしろ、微笑ましいほどである。
こんな逸話も残されている。
改易を伝える使者が江戸愛宕山下の福島邸を訪れた時のことである。その伝達をおだやかに聞いた正則は、「しばし待たれよ」と席を外した。其の後二刻(約四時間)ほども正則は出てこなかったが、使者は辛抱強く待った。
ようやく姿を現した正則は、長袴を着て、刀も帯びずに、幼い娘二人の手を引いていた。そして、静かに坐るとはらはらと涙を流し、
「徳川家にはただならぬ忠義を尽くしてきたつもりであったが、かかる仰せを承ることになろうとは思いもよらなかった。今は、妻子を一々に刺し殺し、貴殿と刺し違えようと思い定めたが、刀を抜き娘を引き寄せて見たが、千度百度に及ぶといえども、いずこへ刃を立つべしとも思われず、この上は致し方なし、とにもかくにも、仰せに従うことに致した」
と、告げたという。
福島正則家が三代で断絶となってから四十四年後の天和元年(1681)、すでに五代将軍綱吉の時代になっていたが、京都に住んでいた忠勝の孫、正則の曾孫にあたる正勝が将軍家に召し出されて、二千石の旗本として復活している。
正則の勇将ぶりは、まだ忘れ去られてはいなかったのである。
( 完 )
孤高の武将
世に名高い小山評定と呼ばれる軍議が開かれたのは、慶長五年(1600)七月二十四日のことであった。
大坂において石田三成挙兵との情報を得ていた徳川家康は、上杉景勝討伐に向かっていた大軍を止めて、軍議の開催を決めた。
家康は、自分が大坂を離れれば、三成を中心とした反徳川勢力が挙兵する可能性は十分予測していたことであるが、次々と寄せられる情報は、予期していた以上に敵勢力は巨大化していた。毛利、宇喜多、さらには島津までもが徳川討伐軍に加わったらしく、その中心に淀殿に支えられている秀頼が据えられているらしいことは、三成らしい策略であり、上杉征伐に参軍している武将たちの大坂屋敷にも手を廻しているはずである。
上杉討伐軍は、名目上は豊臣家の命令により派遣された軍勢であるが、六万余の大軍の過半は秀吉恩顧の大名たちである。三成が豊臣秀頼を大将とした体制を整えているとすれば、従軍してきている将兵たちが動揺する可能性は高い。有力な武将たちが大坂方に味方することになれば、雪崩を打つようにして上杉討伐軍は徳川討伐軍に変わる懸念さえあった。
家康は、かねてより特に昵懇であり信頼できる黒田長政を中心に有力武将への根回しを行った。三成が挙兵することを考え、豊臣政権下の有力武将で味方になりうる人物を選んで上杉討伐軍を組んだつもりではあったが、いざ江戸・大坂の正面衝突となれば、豊臣への忠誠を優先させる武将が出る懸念は捨てきれなかった。
家康は可能な限りの根回しを行った上で、下野国の小山に各武将を集め三成挙兵の情報を伝えた。
この情報は、上杉討伐に向かっていた軍勢にとっては初めて聞く情報であったが、それほどの驚きはなかった。いずれの大名も、三成の挙兵はある程度予想されることであったからである。
家康は上方からの情報を伝えた後、「どなたも大坂屋敷に妻子を残されている。また秀頼殿の御身も気がかりであろう。こちらに味方をするのも、石田に味方をするのも自由である。立ち退かれる御方に決して手出しはしない」と、大見えを切った。
さすがに各武将の間に動揺が見られたが、すぐさま大音声をあげたのが福島正則であった。
「妻子を押さえられたとて、石田の味方をすることなどあるはずもない」と、徳川方に味方することを宣言し、さらに東西激突に向かう途上にある正則の居城、清州城を家康に提供することまでも告げた。
かねてから家康はもちろん黒田長政らの手配りもあって、ほぼ全員が徳川方につくことを鮮明にした。
この時、大坂への忠誠を尽くすとして退陣したのは、美濃岩村四万石の城主田丸具安ただ一人であったという。
上杉征伐は直ちに中止され、上杉軍の反撃を抑える軍勢を残して大軍は西に向かった。
徳川方はこの軍勢を中心にして関ヶ原の合戦へと突入していくわけであるが、すでに各地での戦闘は始まっていた。大坂方が東上する道筋はもちろん、全国の広い地域で大坂方、徳川方の旗幟を鮮明にし、あるいは両陣営の優劣を慎重にうかがいながら、全大名が戦闘態勢に入っていた。
天下分け目といわれる関ヶ原の合戦は、東西両軍を合わせれば二十万を超える軍勢が激突したわが国史上最大の合戦であるが、戦いの帰趨は一日で決着をみた。
正則は、石田三成との対陣を望んだが果たされないまま、井伊直政、松平忠吉らの抜け駆けにより戦端が開かれた。福島軍は西軍最大の勢力を有してい宇喜多軍と激戦となったが、戦況は劣勢となり五町余りも押し込まれ、壊滅の危機に見舞われた。正則自ら叱咤激励し、ようやく敵軍の進攻を止め、東軍他部隊の支援もあって反撃にかかった。
さらに、小早川秀秋の寝返りにより、西軍はたちまち総崩れとなっていった。
戦後、正則は東軍勝利への貢献第一と家康から激賞されたが、今少し長い時間軸でこの戦いを見ると、小山評定での正則の徳川軍に味方する積極的な発言こそが、この戦いの勝敗の大きな要因であったように思われる。
しかもその発言は、黒田長政に説得されたり、石田三成憎しの思いから発せられた部分が大きいとしても、正則自身としては、すでに天下第一の実力者と目される家康のもとで豊臣家の存続を確立させたいという思いもあった。
ただ、歴史の流れは、槍一筋に生きてきた男の切なる願いに応えようとはしなかった。
* * *
わが国歴史上最も鮮やかな出世を遂げた人物といえば、やはり豊臣秀吉ではないだろうか。
その彼が、大陸への夢を描くほどの権力を掴みながら、子供の代さえも支え切ることが出来ず滅び去ったのはなぜなのだろうか。それも、関ヶ原の戦いが実質的な権力移動の分岐点であったとすれば、秀吉が没してからわずか二年後のことなのである。
豊臣政権がこれほど脆弱だったのには幾つかの要因が考えられる。その一つに、後継体制がいわゆる外様の有力者が主体になっていたことがあげられる。
例えば、秀吉が死期を悟って作ったとされる五大老の制度を見ても、徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景(後に、上杉景勝)、宇喜多秀家の五人であるが、いずれも戦国時代を戦い抜いてきた武将たちである。強いて言えば、宇喜多秀家は秀吉の養子として育てられていて、実際に関ヶ原の合戦において西軍のために懸命の働きをしたのは宇喜多勢だけなのである。
つまり、秀吉は、各地の有力大名を傘下に取り込むことは出来たが、完全に臣従させ、あるいは子飼いの大老を誕生させられなかったことが豊臣家の致命的な弱点といえる。
福島正則や加藤清正といった武将では力不足と考えたのであろうが、彼らさえも敵に回し、石田三成や淀殿取り巻きの勢力で徳川勢と戦うのは、所詮勝負にならなかったのは当然ともいえる。
秀吉にとって数少ない子飼いの武将の筆頭格といえる福島正則は、永禄四年(1561)尾張国海東郡で生まれた。秀吉より二十四年ほど遅れての誕生である。
父は福島正信(異説もある)とされ、桶屋を営んでいたという。母は秀吉の叔母にあたることから、まだ幼い頃に秀吉の小姓として出仕したらしい。ただ、その頃の秀吉には幼い小姓を側に置く余裕などなかったと考えられ、おそらく秀吉の妻ねねのもとで養育されていたのだろう。
天正六年(1578)に、播磨の三木城攻撃で初陣を果たした。十八歳の頃で、秀吉は四十二歳、すでに織田信長から一軍を任せられる地位に立っていた。
天正十年、織田信長が討たれた後の山崎の戦いでは目覚ましい働きをし、それまでの二百石から五百石に加増されている。
その翌年の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍を果たし敵将を討ち取る殊勲をあげた。この戦いでは、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれることになる秀吉自慢の荒武者たちが大活躍をしたが、戦後の恩賞では、他の六人が三千石を与えられたのに対して正則は五千石が与えられた。突出した働きであったと考えられるが、縁戚であることが考慮された面があるのかもしれない。
天正十三年(1585)に起きた小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康の唯一の対陣であるが、正則も父・正信と共に後備えとして兵三百を率いて出陣している。桶屋であった父も兵卒として動員されているあたり、天下人目前の秀吉といえども、兵員を集めるのは簡単なことではなかったらしい。
正則は秀吉子飼いの荒武者として活躍を続け、天正十五年の九州征伐の後、伊予国今治十一万石の大名に封ぜられ、小田原征伐にも加わっている。
文禄元年(1592)からの文禄の役では渡海し、五番隊の主将として京畿道の攻略にあたり、年末には京畿道竹山の守備を担当している。
この後、一度帰国しているが、文禄三年には再び朝鮮に渡り、軍船に乗り敵水軍と戦うなど奮戦している。
文禄四年には、秀吉の養子となっていた関白豊臣秀次が自刃させられるという痛ましい事件が発生した。
その後の秀次の妻子などに対する非情な処断は、豊臣家の将来を暗示するような事件に思えてならない。
この時正則は日本に帰っていて、秀次に切腹の命令を伝える使者に命じられている。
一連の騒動の後、正則は尾張の清州二十四万石を与えられた。大幅な加増であるが、清州は重要拠点であり秀吉の信任のほどがうかがえる。
文禄の役に続く慶長の役には正則は渡海していないが、秀吉は慶長四年にはさらに大規模の朝鮮侵攻を計画していて、その軍勢の大将には、石田三成、増田長盛とともに抜擢されていた。結局この計画は、秀吉の死去により実現されなかったが、秀吉が正則を武将として高く評価していたことが分かる。
ただ、これら一連の朝鮮侵攻は、結局得るものはなく、多くの人命・物資を失い、多くの大名に不満を持たせてしまった。そして何よりも、その戦略や賞罰に関連して、武断派と文治派とされる両者の溝を修復し難いものにしてしまったのである。
秀吉死去から関ヶ原の合戦までに要した時間は、僅かに二年一か月である。
この僅かな時間の間に家康は着々と地盤を固め、正則自身も養子の正之に家康の養女である満天姫との婚姻を実現している。
この婚姻は秀吉の遺命に背くものであるが、家康は強引に秀吉恩顧の武将を手中に取り込もうとしていたし、正則には家康と昵懇になることが豊臣家を守ることになるという思惑があった。
しかし、豊臣恩顧とされる大名たちの武断派と文治派との亀裂は深刻さを増すばかりで、関ヶ原の合戦において豊臣政権は弱体化してしまった。
関ヶ原合戦の後、正則は安芸広島と備後鞆の四十九万八千石を領有する大大名として遇せら、加藤清正や黒田長政なども大封を与えられたが、徳川体制は堅固さを増していった。
家康が豊臣秀頼に対面を求めたのは、豊臣が徳川の臣下となったことを天下に示すためであるが、淀殿を中心とした豊臣政権はこれに抵抗を続けていた。
しかし、豊臣家を存続させるためには、徳川政権下で生き延びる術を見出すべきだと秀吉恩顧の武将たちの多くは考えていた。
そして、何とか淀殿を説得し、二人の二条城での対面は実現した。対面には、加藤清正、浅野幸長、大野治長ら三十余名に警護され淀川をさかのぼったが、淀川の両岸には清正、幸長らの軍勢が警護を固めていた。
正則は、この対面の場には病気を理由に出ていないが、京都の近くに一万の軍勢で万が一に備えていたと伝えられている。
しかし、この対面は、豊臣家存続の切り札とはならなかった。
家康は、この対面で秀頼の見事な若武者ぶりに驚き、豊臣存続を危険と判断したという伝聞もある。
さらに、この会見後まもなく、加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政といった、親豊臣とみられる武将が次々と世を去っていった。いずれも病死とされているが、長政の六十五歳はともかくも、清正五十歳、幸長三十八歳、輝政五十歳という年齢を考えると、作為的なものを感じられないこともない。
正則は、一人残されてしまった心境ではなかったか。
前田、黒田、毛利、島津など、かつては秀吉政権下にあった有力大名は、徳川体制下に積極的に加わろうとしていた。
豊臣家が滅亡する大坂の陣では、秀頼から加勢を求められるも拒絶するが、家康からは江戸留守居を命じられている。なお羽柴の姓を有していた正則は、油断できない人物と見られていたのである。
家康死後間もない元和五年、広島城の修復をめぐって詰問を受け改易とされる。広島五十万石を没収され、信濃と越後に四万五千石が与えられ、それも家督を譲っていた嫡男忠勝の早世により二万五千石を返却している。
そして、寛永元年(1624)七月、信濃高井野に残されている二万石の地で没した。享年六十四歳。
病死として幕府に届けられたが、幕府の使者が到達する前に火葬されたため、死因に疑義も持たれている。さらに、この葬儀を咎められ、最後の二万石も没収となり、三代目を継いでいた正利は三千石の旗本とされ、それも、嫡子が無く御家断絶となる。
戦国時代後半を描いたドラマなどには、福島正則はよく登場する。
しかし、主役になることはあまりなく、「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」という人物評価が定着しているかに思われる。事実、残忍であったとか、酒での失敗が多かったとかといった逸話も多い。
しかしこれらは、徳川家の資料や、宣教師の著書などからの影響が大きいと思われる。残忍な行いがあったことは確かであろうが、当時の武将であれば、信長であれ、秀吉であれ、家康であれ、目をそむけたくなるような残虐行為を行っている。正則だけではないのである。
伝えられて逸話の中には、広島藩などの内政に優れていたこと、清州などでは宣教師に感謝されていることなどもある。酒の上の失敗でも、有名な黒田節にある日の本一の槍を飲み取った武者は母里太兵衛であるが、飲み取られたのは正則なのである。むしろ、微笑ましいほどである。
こんな逸話も残されている。
改易を伝える使者が江戸愛宕山下の福島邸を訪れた時のことである。その伝達をおだやかに聞いた正則は、「しばし待たれよ」と席を外した。其の後二刻(約四時間)ほども正則は出てこなかったが、使者は辛抱強く待った。
ようやく姿を現した正則は、長袴を着て、刀も帯びずに、幼い娘二人の手を引いていた。そして、静かに坐るとはらはらと涙を流し、
「徳川家にはただならぬ忠義を尽くしてきたつもりであったが、かかる仰せを承ることになろうとは思いもよらなかった。今は、妻子を一々に刺し殺し、貴殿と刺し違えようと思い定めたが、刀を抜き娘を引き寄せて見たが、千度百度に及ぶといえども、いずこへ刃を立つべしとも思われず、この上は致し方なし、とにもかくにも、仰せに従うことに致した」
と、告げたという。
福島正則家が三代で断絶となってから四十四年後の天和元年(1681)、すでに五代将軍綱吉の時代になっていたが、京都に住んでいた忠勝の孫、正則の曾孫にあたる正勝が将軍家に召し出されて、二千石の旗本として復活している。
正則の勇将ぶりは、まだ忘れ去られてはいなかったのである。
( 完 )