『 いいなぁ 八冠と師匠 』
偉業を成し遂げた藤井八冠と 師匠の杉本昌隆八段の
会見の様子を テレビで見た
類い希なる英才が よくぞ この師匠と出会ったものだと
つくづく感じさせられる 温かいものだった
国内のニュースも 海外のニュースも
気が重く 辛いニュースが多すぎる中で
お二人の会話は こちらまで嬉しくなってしまう
お相伴させていただき ありがとうございます
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『 山たちはなれ 』
あしひきの 山たちはなれ ゆく雲の
宿りさだめぬ 世にこそありけれ
作者 小野滋陰
( 巻第十 物名 NO.430 )
あしひきの やまたちはなれ ゆくくもの
やどりさだめぬ よにこそありけれ
* 歌意は、「 山の峰から離れて 飛んでいく雲のように 今夜の宿さえ決まっていないような そんな人生だなあ 」といった、この世の無常といったものを詠んだ歌でしょう。
但し、この歌は、(巻第十 物名)として採録されていて、前書きには「たちばな」とあります。つまり、「たちばな」を歌の中に詠み込むのが目的(やま『たちはな』れ)ですから、技巧が目立ち過ぎるように思いますが、当時は一つの手法として評価されていたようです。
* 作者の小野滋陰(オノノシゲカゲ)は、平安時代前期の貴族です。生年、両親などは未詳です。
888 年 2 月に大蔵少丞に就いたというのが、残されている記録の最初のようです。この役職は、財務や出納を担当する役所の三等官に当たります。大丞・少丞の二つのクラスがあったようですが、役所によって呼び名が代わり、判官もやはり三等官です。
888 年 10 月に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。
おそらく、これまでは文官として勤めてきたのでしょう。その功績による待望の叙爵だったのでしょうが、有力な一族とは考えられず、すでにそこそこの年齢、全くの推定ですが四十歳前後に達していたのではないでしょうか。
* その後、地方官に転出し、891 年に周防守、893 年に信濃介を勤め、同年 4 月に京に戻り、掃部頭(カモンノカミ)に就いています。宮中行事の施設設置や清掃を担当する部署の長です。
そして、896 年に逝去しています。行年も伝えられていませんが、五十歳前後だったのではないでしょうか。
* 小野氏は、第五代孝昭天皇にまで遡る名門氏族です。小野妹子や、古今和歌集の時代の小野篁や小野小町も同族とされています。
しかし、小野小町には、多くの出生地が伝えられているように、この時代には、幾つかの氏族として別系統とされていたようです。始祖が社家系統であったり、地方の豪族として栄えた一族などで、同系統でありながら早い段階で分派したもの、まったく別系統のものもあったのでしょう。
ただ、残念ながら、滋陰がどの一族に属するのか知ることが出来ませんでした。
* 結局、作者の生き生きとした姿を伺うことは出来ませんでしたが、才能を買われて朝廷に仕え、エリートたちの桁外れの繁栄を横目に見ながらも、コツコツと努力を重ね、遂には貴族、国司にまで昇った成功者だったのかも知れない、そう思いたいのです。
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