雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

道長に二人の御子 ・ 望月の宴 ( 44 )

2024-03-13 20:25:03 | 望月の宴 ②

          『 道長に二人の御子 ・ 望月の宴 ( 44 ) 』


大納言殿(道長)には、土御門の上(倫子)も宮の御方(明子)も、共に男君をお生みになられたのである。土御門殿(倫子)の若君を、田鶴君(タヅギミ・のちの頼通)と命名なさった。宮の御方の若君を、院の御前(オマエ・一条天皇生母詮子。道長の同母の姉でもある。)の乳母を迎えて万事お世話なさって、巌君(イワギミ・のちの頼宗)と命名なさった。


ところで、橘三位(キノサンミ)さまがお生みになった御子には、関白殿(道隆)のお子ということで男子(好親)と女子(名前不詳)がいらっしゃいます。さらに、このお方には、山井(ヤマノイ・道頼)殿との間にも女子を儲けられています。この姫君は、道長殿の姫君寛子さまの女房としてお仕えになりましたが、それは少し先のことでございます。
この橘三位さまは、なかなか謎多きお方のように思われます。三条天皇の乳母であられ、正三位、典侍を勤められていますが、ご実家のことなどは明らかでないようでございます。父上は大納言橘好古殿とも噂されてはおります。いずれにしましても、相応の御家の出自であることは確かでございましょう。
ただ、帝の御乳母から、関白殿の思われ人となり、関白殿ご逝去の後とは申せ、ご長男の山井殿との間に子をなされるに至るには、さまざまなことがお有りだったのでございましょう。


さて、宣耀殿(センヨウデン・娍子。三条天皇女御、後に皇后。)の女御は、このところ身重の御体になられた。大将殿(父の済時)は大変なこととしてご安産のご祈祷をなさった。東宮(この時、三条天皇はまだ東宮であった。)の御寵愛をいただいたお陰だとお思いである。
最近では、淑景舎(シゲイシャ・原子。道隆の次女。)がおそばに仕えておいでなので、里邸に退下なさるよい折だとお思いになられた。麗景殿の女御(綏子。兼家三女)は里邸にばかりお籠もりで、あまり良くない噂ばかり立てられている。
東宮はただ今のところ、人知れぬお心の内でとても大切なお方として宣耀殿女御を愛しておいでである。痛々しくお気も使わなければならないお方として淑景舎を思っていらっしゃって、別に麗景殿まではさほど念頭に置いてはおられない。

かくて、小千代君(伊周。道隆の三男)が内大臣におなりになった。御年は二十歳ばかりである。
中宮大夫殿(道長)は、もっての外(道長らを飛び越えての昇進であったことに不満。)のことと嘆かわしく思われ、出仕もなさらないという仕儀になっていった。

土御門の大臣(源雅信。道長室倫子の父。)も、正暦四年七月二十九日にお亡くなりになったので、大納言殿(道長)や君達(キンダチ・公達に同じ。ここでは雅信の若い子息。)が集まって、葬儀の手配などなさっているのが、たいそうおいたわしい。
御年も七十ばかりにおなりなので、世の常ということであるが、殿の上(雅信の室穆子。倫子の生母。)はたいそうなお悲しみであった。
後々の御法事なども出来うる限り盛大に行い日々を過ごされた。大納言殿の上(倫子)はご懐妊中の身で、大臣殿(雅信)は御出産を見届けてと思われながらも、果たせずにお亡くなりになられたのである。

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