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志織に対する思いをさらに一歩進めるためには、どうしても彼女を連れ出さなければならないと牧村は考えていた。
牧村は、この頃の志織に対して抱いていた感情がどういうものであったのか、ずっと後になってから考えたことがある。志織のことを誰よりも大切な人と考えていたことは確かであり、この頃には、仕事上の重要性などとは関係なく、志織が牧村の生活の中の重要な地位を占めていた。
もっと端的にいえば、志織を深く愛してしまっていたし、彼女のためにはどんな犠牲でも払えると思っていた。
志織と過ごす時間は、何にも替え難い大切な時間となっていて、牧村の一週間は、桜木家を訪れるためにだけあるような感覚さえ持っていた。この時間がずっと続いてほしいと痛切に願うとともに、そのようなことがあり得ないことも承知していた。それだけに、行動を起こさなくてはならないという思いに追われてもいた。
しかし、本当に二人は恋をしているのだろうか。
牧村の行動を制御するものの一つに、こんな思いが常にあった。
牧村が志織に恋心を抱いていることに疑う余地など全くないし、志織が、自分に対して好意を抱いてくれていることにも確かな手ごたえがあった。しかしそれが、自分が抱いているような切ない恋心なのかと考えると、自信がなかった。二人の間にある心の繋がりは、確かで強いものだと思いながらも、それが本当に恋愛感情といえるものなのかどうか、自信がなかった。
この頃の牧村にとって何よりも大切で解決しなければならない課題は、志織のあの何とも寂しげな笑顔を彼女の中から消し去ることであった。同時に、そのことに対して自分が無力であることが歯がゆく、切なかった。
客観的に見ればともかく、牧村自身は、愛とか恋とかという感情を遥かに超えて、志織にあの寂しげな笑顔をさせてはならないという思いの方が強かった。
それにしても、あの頃の自分は、志織を外に連れ出すことに、何故あれほど焦っていたのだろうか・・・。牧村は生涯にわたって思い返すことになる。
**
志織を外に誘い出すことは、いざ実行するとなると、牧村が考えていたことよりも遥かに難しいことであった。
どこかへ旅行するとか、演劇を身に行くとかといった計画ではないのである。何も大げさに考えるほどのことでもなく、特別な障害や反対など予想していなかった。
最初は、旅行とまではいかなくとも、軽いピクニックのようなものであるとか、観劇とか美術館とかを考えていたことは確かである。しかし、それとなく打診した恵子さんの反応や志織自身の言葉から、それは第二次、第三次の計画として、とりあえずは、すぐ近くの公園まで行くことであり、それも一時間程の外出なのだ。
強い日差しにあたることが志織の身体に良くないことは牧村も承知していた。
しかし、日差しだけの問題であれば、雨や曇りの日を選べばよいし、夕方の時間帯を選べば解決できることである。現に、毎週のように近くの商店街までは買い物に出かけているのだから、近くの児童公園まで行くのと負担は変わらない筈である。
それでもなお外出の機会を得られなかったのは、何よりも志織自身が牧村との外出に消極的であったからである。
桜木家の周辺は古くからの高級住宅地でり、人通りは少なく、下町ほどに世間の目を気にすることはないと牧村は考えていたが、志織の立場に立てばそうでもないのかもしれなかった。見知らぬ若い男と連れ立って歩く姿を近隣の人に見られることはまずいことなのだろうと、牧村は志織の心情を推し量っていた。
そして、その推量が、自分の志織に対する想いと、志織が自分に対して抱いている気持ちとの差だとも受け取っていた。
志織を連れ出すのにさらに大きな障害は、恵子さんの存在であった。恵子さんがはっきりと反対していたからである。
恵子さんは十年以上前から桜木家に住み込んでいて、家事の殆どを取り仕切っていたし、ある部分では志織の母親代わりのようなところもあり、少なくとも恵子さんにはその意識が強く表れることがあった。志織や、何よりも桜木社長の信頼が厚く、単なるお手伝いさんという存在ではなかった。それに、牧村たち二人にとっても心強い味方でもあった。
味方という言い方は、まるで敵でもいるような言い方だが、決してそういうわけではなかった。しかし、牧村の心の中には、やましいようなものがあることも否定できなかった。
志織との親密さが増すにつけ、牧村の気持ちの中には、桜木社長に対するある種の罪悪感のようなものも膨らんでいた。別に悪いことをしているわけではないし、自分の会社に対しても怠慢といわれればそうかもしれないが、桜木家との取引は、週に一日や二日かかりきりになっても十分なほどの利益を与えてくれていた。
しかし、牧村の桜木社長に対する負い目のようなものは、どうしても否定することが出来なかった。それは、たいていの男性が、どんなにまじめな交際だとしても女性の父親に対して抱く感情ともいえるが、牧村の場合は、志織との恋は禁断の恋だという意識が常に働いていた。
このことは志織にもいえることであった。二人の間柄が、いわゆる男女の交際のような状態でないことは互いが認識していたし、客観的に見てもそうであったと思われる。同時に、二人の関係が、単なる担当の営業社員と重要取引先の令嬢というには、あまりにも異質なものに発展していたことも事実であろう。
二人には、互いの恋愛感情を確認し合うことは出来なかったが、ともに相手の感性を認め合い、絵本を媒体としたものだとしても、互いの心の奥深くまで見せあい労わりあっていたことも事実である。
二人のこの微妙な関係が誰からもとがめられることなく続けられている要因の一つは、恵子さんの存在であった。二人の関係を桜木社長がどの程度承知しているのか分からないが、少なくとも恵子さんから悪意の報告がされていないことだけは確かであった。
それどころか、恵子さんは二人が親しくなることに何かと便宜を払ってくれていた。牧村に対しても好意的で、訪問が遅れた時などは大変心配をしてくれたし、出来るだけ頻繁に訪問してほしいとまで言ってくれていた。業務と関係のない牧村の長居に苦言を呈するようなことは一度もなく、おそらく桜木社長の目から二人を守ってくれていると思われた。
その恵子さんが志織を連れ出すことに反対していることは、相当の難問だといえた。
牧村が志織を連れて行きたいと考えている場所は、桜木家から二百メートルばかりの距離にある児童公園であった。そこは大きな池を中心とした古くからの広い公園の一角にあり、児童公園そのものは比較的新しいもので、定番の遊具が設置されているだけのありふれたものだが、広い公園の樹木や池の一部を遠望できる位置にあった。
「無理をしてはいけません」
牧村が、その児童公園のことと、志織を連れ出す時に注意しなくてならないことを尋ねた時、恵子さんは悲しそうに首を横に振り、了解しようとはしなかった。
その否定は、恵子さんの志織に対する過保護のように感じられたが、それ以上強引に話を進めるわけにもいかなかった。それに、その時は志織も傍にいたが、恵子さんの意見に反対することもなく静かに聞いているだけであった。その表情は、あの寂しげな笑顔ではなく、今にも泣きだしそうな顔であった。
牧村は、計画を中断させるしかなかった。
二人の間にこのような葛藤があるにはあったが、そのこととは関係なく、二人で過ごす時間が充実したものであることに変わりはなかった。絵本などの物語を中心とした二人だけの時間は、まるで現実世界から抜け出した空間で過ごすような感覚さえあった。
しかし、牧村の心の中で芽生え始めた思いは、志織を連れ出すことを中断させたことでより大きく膨らんでいった。二人で過ごす夢の中のような時間に何の不満もなかったが、夢の中ではないものを求める気持ちがますます強くなっていった。現実社会の中で、しっかりとこの手に抱きしめたいという思いが膨らんでいた。
その実現のために何より大切な志織の心は、自分の願いを受け入れてくれるものだと確信しつつあった。
それでいて、牧村が次の一歩を踏み出せない原因は、二人の年齢差を志織が意識していると思われることと、桜木家のあまりにも大き過ぎる資産であった。牧村は、職業柄どんな大きな財産や金額にも驚くことなどなかったが、個人の立場に立ってみれば、志織の背景にある資産はあまりにも大き過ぎた。
時が過ぎて、当時を思い返す時になって、自分の行動に足かせのようなものとなっていたものが、本当に年齢差や資産の差であったのか自問することになるが、その時の牧村にはいずれもが大き過ぎる障害であった。
志織に対する思いをさらに一歩進めるためには、どうしても彼女を連れ出さなければならないと牧村は考えていた。
牧村は、この頃の志織に対して抱いていた感情がどういうものであったのか、ずっと後になってから考えたことがある。志織のことを誰よりも大切な人と考えていたことは確かであり、この頃には、仕事上の重要性などとは関係なく、志織が牧村の生活の中の重要な地位を占めていた。
もっと端的にいえば、志織を深く愛してしまっていたし、彼女のためにはどんな犠牲でも払えると思っていた。
志織と過ごす時間は、何にも替え難い大切な時間となっていて、牧村の一週間は、桜木家を訪れるためにだけあるような感覚さえ持っていた。この時間がずっと続いてほしいと痛切に願うとともに、そのようなことがあり得ないことも承知していた。それだけに、行動を起こさなくてはならないという思いに追われてもいた。
しかし、本当に二人は恋をしているのだろうか。
牧村の行動を制御するものの一つに、こんな思いが常にあった。
牧村が志織に恋心を抱いていることに疑う余地など全くないし、志織が、自分に対して好意を抱いてくれていることにも確かな手ごたえがあった。しかしそれが、自分が抱いているような切ない恋心なのかと考えると、自信がなかった。二人の間にある心の繋がりは、確かで強いものだと思いながらも、それが本当に恋愛感情といえるものなのかどうか、自信がなかった。
この頃の牧村にとって何よりも大切で解決しなければならない課題は、志織のあの何とも寂しげな笑顔を彼女の中から消し去ることであった。同時に、そのことに対して自分が無力であることが歯がゆく、切なかった。
客観的に見ればともかく、牧村自身は、愛とか恋とかという感情を遥かに超えて、志織にあの寂しげな笑顔をさせてはならないという思いの方が強かった。
それにしても、あの頃の自分は、志織を外に連れ出すことに、何故あれほど焦っていたのだろうか・・・。牧村は生涯にわたって思い返すことになる。
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志織を外に誘い出すことは、いざ実行するとなると、牧村が考えていたことよりも遥かに難しいことであった。
どこかへ旅行するとか、演劇を身に行くとかといった計画ではないのである。何も大げさに考えるほどのことでもなく、特別な障害や反対など予想していなかった。
最初は、旅行とまではいかなくとも、軽いピクニックのようなものであるとか、観劇とか美術館とかを考えていたことは確かである。しかし、それとなく打診した恵子さんの反応や志織自身の言葉から、それは第二次、第三次の計画として、とりあえずは、すぐ近くの公園まで行くことであり、それも一時間程の外出なのだ。
強い日差しにあたることが志織の身体に良くないことは牧村も承知していた。
しかし、日差しだけの問題であれば、雨や曇りの日を選べばよいし、夕方の時間帯を選べば解決できることである。現に、毎週のように近くの商店街までは買い物に出かけているのだから、近くの児童公園まで行くのと負担は変わらない筈である。
それでもなお外出の機会を得られなかったのは、何よりも志織自身が牧村との外出に消極的であったからである。
桜木家の周辺は古くからの高級住宅地でり、人通りは少なく、下町ほどに世間の目を気にすることはないと牧村は考えていたが、志織の立場に立てばそうでもないのかもしれなかった。見知らぬ若い男と連れ立って歩く姿を近隣の人に見られることはまずいことなのだろうと、牧村は志織の心情を推し量っていた。
そして、その推量が、自分の志織に対する想いと、志織が自分に対して抱いている気持ちとの差だとも受け取っていた。
志織を連れ出すのにさらに大きな障害は、恵子さんの存在であった。恵子さんがはっきりと反対していたからである。
恵子さんは十年以上前から桜木家に住み込んでいて、家事の殆どを取り仕切っていたし、ある部分では志織の母親代わりのようなところもあり、少なくとも恵子さんにはその意識が強く表れることがあった。志織や、何よりも桜木社長の信頼が厚く、単なるお手伝いさんという存在ではなかった。それに、牧村たち二人にとっても心強い味方でもあった。
味方という言い方は、まるで敵でもいるような言い方だが、決してそういうわけではなかった。しかし、牧村の心の中には、やましいようなものがあることも否定できなかった。
志織との親密さが増すにつけ、牧村の気持ちの中には、桜木社長に対するある種の罪悪感のようなものも膨らんでいた。別に悪いことをしているわけではないし、自分の会社に対しても怠慢といわれればそうかもしれないが、桜木家との取引は、週に一日や二日かかりきりになっても十分なほどの利益を与えてくれていた。
しかし、牧村の桜木社長に対する負い目のようなものは、どうしても否定することが出来なかった。それは、たいていの男性が、どんなにまじめな交際だとしても女性の父親に対して抱く感情ともいえるが、牧村の場合は、志織との恋は禁断の恋だという意識が常に働いていた。
このことは志織にもいえることであった。二人の間柄が、いわゆる男女の交際のような状態でないことは互いが認識していたし、客観的に見てもそうであったと思われる。同時に、二人の関係が、単なる担当の営業社員と重要取引先の令嬢というには、あまりにも異質なものに発展していたことも事実であろう。
二人には、互いの恋愛感情を確認し合うことは出来なかったが、ともに相手の感性を認め合い、絵本を媒体としたものだとしても、互いの心の奥深くまで見せあい労わりあっていたことも事実である。
二人のこの微妙な関係が誰からもとがめられることなく続けられている要因の一つは、恵子さんの存在であった。二人の関係を桜木社長がどの程度承知しているのか分からないが、少なくとも恵子さんから悪意の報告がされていないことだけは確かであった。
それどころか、恵子さんは二人が親しくなることに何かと便宜を払ってくれていた。牧村に対しても好意的で、訪問が遅れた時などは大変心配をしてくれたし、出来るだけ頻繁に訪問してほしいとまで言ってくれていた。業務と関係のない牧村の長居に苦言を呈するようなことは一度もなく、おそらく桜木社長の目から二人を守ってくれていると思われた。
その恵子さんが志織を連れ出すことに反対していることは、相当の難問だといえた。
牧村が志織を連れて行きたいと考えている場所は、桜木家から二百メートルばかりの距離にある児童公園であった。そこは大きな池を中心とした古くからの広い公園の一角にあり、児童公園そのものは比較的新しいもので、定番の遊具が設置されているだけのありふれたものだが、広い公園の樹木や池の一部を遠望できる位置にあった。
「無理をしてはいけません」
牧村が、その児童公園のことと、志織を連れ出す時に注意しなくてならないことを尋ねた時、恵子さんは悲しそうに首を横に振り、了解しようとはしなかった。
その否定は、恵子さんの志織に対する過保護のように感じられたが、それ以上強引に話を進めるわけにもいかなかった。それに、その時は志織も傍にいたが、恵子さんの意見に反対することもなく静かに聞いているだけであった。その表情は、あの寂しげな笑顔ではなく、今にも泣きだしそうな顔であった。
牧村は、計画を中断させるしかなかった。
二人の間にこのような葛藤があるにはあったが、そのこととは関係なく、二人で過ごす時間が充実したものであることに変わりはなかった。絵本などの物語を中心とした二人だけの時間は、まるで現実世界から抜け出した空間で過ごすような感覚さえあった。
しかし、牧村の心の中で芽生え始めた思いは、志織を連れ出すことを中断させたことでより大きく膨らんでいった。二人で過ごす夢の中のような時間に何の不満もなかったが、夢の中ではないものを求める気持ちがますます強くなっていった。現実社会の中で、しっかりとこの手に抱きしめたいという思いが膨らんでいた。
その実現のために何より大切な志織の心は、自分の願いを受け入れてくれるものだと確信しつつあった。
それでいて、牧村が次の一歩を踏み出せない原因は、二人の年齢差を志織が意識していると思われることと、桜木家のあまりにも大き過ぎる資産であった。牧村は、職業柄どんな大きな財産や金額にも驚くことなどなかったが、個人の立場に立ってみれば、志織の背景にある資産はあまりにも大き過ぎた。
時が過ぎて、当時を思い返す時になって、自分の行動に足かせのようなものとなっていたものが、本当に年齢差や資産の差であったのか自問することになるが、その時の牧村にはいずれもが大き過ぎる障害であった。
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