『 僧正遍昭伝記 (2) ・ 今昔物語 ( 19 - 1 ) 』
( ( 1 ) より続く )
さて、ある年の十月頃のこと、宗貞入道が笠置寺(京都府相良郡。修験道の道場として知られていた。)という所に詣でて、ただ一人で拝殿の片隅に蓑を敷いて勤行していたが、参拝にやってくる人が見えた。
主と見える女と、女房らしい女が一人、侍(サムライ・いわゆる武士とは違い、上級の下男といった感じの身分。)と思われる男が一人、下仕えの男女あわせて二、三人ばかりが見えた。そして、座っている所から二間ばかり離れて、彼らは座った。
入道は暗い所に座っているので、人がいることに気がつかずに、忍んで仏に申す事などが、おおよそ聞き取れる。注意して聞いてみると、この女人が仏に申していることは、「世の中から姿を消してしまった人の消息を教えてください」と泣き出しそうな悲しげに申している。さらに耳をそば立ててよく聞くと、どうやら自分の妻であった人の声だと分かった。
どうやら、「私を探し出すために、このように祈願しているのだ」と思うと、哀れで悲しい限りであった。「『私はここにいる』と言ってやりたい」と思ったが、「ここで知らせては、何にもならない。仏は、『このような仲は別れよ(男女や夫婦の恩愛の絆を断て、という仏の教え。)』と返す返すお教えになっているではないか」と思って、じっと耐え忍んでいると、やがて明け方となり、この一行は帰るべく拝殿を出て行こうとするのを見ると、その中の男は、自分の乳母の子で、帯刀という者であった。そして、別れたとき七、八歳であった自分の男の子を背に負っている。女は、四、五歳ほどだった自分の女の子を抱いていた。
その一行は、拝殿から出て、霧が降る中に隠れて行ってしまったが、「よほど道心堅固な人でなければ、心が動かされるであろう」と思われる。
このようにして修行を続けているうちに、入道の験力(ゲンリキ)が非常に強くなっていった。病に悩む人のもとに、念珠や独鈷(ドクコ・金剛杵。仏具の一つ。)などを遣わすと、物の怪が現れて、霊験が顕著なことなどがあった。
ところで、恐れ奉っていた春宮が即位して文徳天皇と申し上げていたが、ご病気の末に崩御なさった。その後には、その皇子が清和天皇として即位されて世を治められていたが、その天皇が病気になられた。
そこで、多くの優れた僧たちを召されて、様々なご祈祷が行われたが、露ほどの験(シルシ)も現れない。すると、ある人が奏上された。「比叡山の横川に、慈覚大師の弟子として、頭少将宗貞法師が熱心に仏道を修行して、霊験あらたかでございます。彼を召して、ご祈祷させては如何でしょうか」と。
天皇はこれをぉ聞きになると、「速やかに召すべし」と度々宣旨を下されたので、入道は参内し、御前において加持申し上げたところ、たちまちその霊験が現れて、御病が治癒なさったので、天皇は法眼(ホウゲン・僧侶の位の一つ。僧正に次ぐ僧都の位に該当する。)の位を授けられた。
その後も怠ることなく修行を続けているうちに、陽成天皇の御代となり、またも霊験を示すことがあって、僧正を授けられた。
その後は、花山(元慶寺のこと。花山寺とも。後年、花山天皇が出家した寺として著名。)という所に住んだ。名を遍昭(ヘンジョウ)といった。
長年、その花山に住み、封戸(フコ・官位、勲功などに応じて給与された民戸。)を賜り、輦車(テグルマ・乗車して内裏に出入りすることを許可されること。)の宣旨を蒙ったが、遂に、寛平二年 ( 890 ) という年の正月十九日に入滅した。年は七十二であった。(入滅日、年令は諸説ある。)
花山の僧正というのはこの人のことである。
されば、出家というものはみな機縁があるものである。
長年深草天皇(仁明天皇)の寵臣として仕え、そのため文徳天皇に恐れを感じたことから、たちまち道心を起こして出家したが、この事に出家の機縁があったと知るべきである、
となむ語り伝へたるとや。
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