伊勢御息所 (2) ・ 今昔物語 (24-31 )
( (1)より続く )
伊衡が歩み寄り、敷物のそばに坐っていると、簾の内から空薫物(ソラダキモノ・それとなく薫る程度にたきにおわせること)の香りが冷ややかに香ばしく、ほのぼのと漂ってきた。清楚な女房の袖口などが簾に透けて見える。髪形の美しい女房が二、三人ばかり簾から透けて見えた。その簾の様子も由緒ありげで趣きがある。
伊衡は少し気後れしたが、簾の側に寄り、「帝の仰せ事にございます。夕刻、若宮の御着袴(オンハカマギ)の祝いに屏風を作って差し上げることになり、色紙形に書くために歌人たちに歌を詠ませてそれを書かせられましたところ、然々の所の色紙形を見落として、歌人たちに命じられなかったので、その所の色紙形には書かせる歌がございません。そこで、その歌を詠ませるべく躬恒・貫之をお召しになられましたが、それぞれ所用で出かけております。日限が今日となっており、これから別の人に命じることも出来ません。そこで、この歌を今すぐ詠んでいただけないかとの仰せがあり、私を使者に命じられたのです」と、経緯を説明した。
御息所は大変驚いて、「これはまた、仰せ事とは思われません。前もって仰せがあったとしても、躬恒や貫之が詠むようにはとても詠めるものではございません。ましてや、こう突然のこととなれば、困惑してしまいます。思いもよらぬことでございます」という声が、かすかに聞こえてくる。その気配は、気高く魅力的で、奥ゆかしい。
伊衡はこれを聞いて、「世の中には、こんなにすばらしい人もいるのか」と思った。
しばらくして、汗衫(カザミ・童女の正装時の上着)を着た愛らしい童女が、銚子を持って簾の中から膝をすって出て来た。
「どうするのか」と伊衡が思っていると、その簾の下から趣のある扇に杯を乗せて差し出されてきていたのである。愛らしい童女が出て来たのに気を引かれて気が付かなかったのだ。
次に、一人の女房が寄ってきて、蛮絵(バンエ・盤絵とも。円形の紋状の絵模様の称。草花や鳥獣などが多い)が描かれている蒔絵の硯箱の蓋に、清らかな薄様の紙を敷き、その上に数種の果物入れて差し出した。酒を勧めるので、杯を手に取ると、童女が銚子を持って酒を注いだ。
「もう十分です」と言っても、聞こうとせずさらに注ぐ。「自分が酒好きだと知っているのだ」と思うとおかしくなった。そこで、飲み干し、杯を置こうとすると、置かせずに次々と飲ませる。四、五度ばかり飲んで、ようやく杯を置いた。
すると、すぐに続いて、簾の下から杯が差し出された。辞退したが、「そんなお愛想のないことを」と言うので、杯を重ねているうちに酔ってきた。
女房たちが少将(伊衡)を見ると、赤みのさした頬や目元が桜の花の色に映りあって、この上なくすばらしく見える。
大分時間が経った頃、紫の薄様の紙に歌を書いて結び、同じ色の薄様の紙に包んで、女の装束と一緒に簾の中から押し出してきた。赤色の重ねの唐衣、地摺りの裳、濃い紫の袴である。色合いがとても清らかで素晴らしい。
「思いもかけぬ贈り物でございます」と言って、頂戴して立ち上がった。
女房たちは少将が帰るのを見送り、その様子を褒め称えた。門を出て見えなくなるまで見送ったが、歩いて行く後ろ姿はまことに優雅であった。
車の音や先払いの声などが聞こえなくなると、たいそう物寂しく思われ、先ほどまで坐っていた敷物に移り香がしみついていたら、それを取り除けるのが惜しいと思うのであった。
一方、天皇は、「まだ帰って来ないのか、まだなのか」と人を見に行かせたりしていた。
ようやく、殿上の間の入り口の方で先払いの声がして少将が参内し、「行ってまいりました」と申し上げると、天皇は、「早く、早く」と仰る。
道風は筆を湿らせて用意を整えて御前に控えており、然るべき上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人も大勢御前に伺候していた。
そこへ、伊衡少将は賜った装束を頭上にかざし、それを殿上の間の戸の脇に置いて、御息所の文を御前に持ってきて奉った。天皇はこれを開いて御覧になったが、まず、その筆跡のすばらしいこと、道風が書いたものに少しも見劣りがしなかった。
御息所はこのように書いていた。
『 ちりちらず きかまほしきを ふるさとの はなみてかへる ひともあはなむ 』
( 吉野山の桜はもう散ってしまったのか、まだ咲いているのか、聞きたいのだが、花見を終えて帰る人に 会えればいいのだがなあ。)
天皇は御覧になって、大変感嘆なされた。御前に伺候されている人々に、「これを見よ」と言ってお見せになると、一同はそれぞれに情緒豊かに詠じられると、ますます歌の背景が見えて、すばらしく聞こえること限りなかった。その後も、何度も詠じてから、道風が屏風に書き込んだ。
されば、御息所はやはりすばらしい歌人である、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (1)より続く )
伊衡が歩み寄り、敷物のそばに坐っていると、簾の内から空薫物(ソラダキモノ・それとなく薫る程度にたきにおわせること)の香りが冷ややかに香ばしく、ほのぼのと漂ってきた。清楚な女房の袖口などが簾に透けて見える。髪形の美しい女房が二、三人ばかり簾から透けて見えた。その簾の様子も由緒ありげで趣きがある。
伊衡は少し気後れしたが、簾の側に寄り、「帝の仰せ事にございます。夕刻、若宮の御着袴(オンハカマギ)の祝いに屏風を作って差し上げることになり、色紙形に書くために歌人たちに歌を詠ませてそれを書かせられましたところ、然々の所の色紙形を見落として、歌人たちに命じられなかったので、その所の色紙形には書かせる歌がございません。そこで、その歌を詠ませるべく躬恒・貫之をお召しになられましたが、それぞれ所用で出かけております。日限が今日となっており、これから別の人に命じることも出来ません。そこで、この歌を今すぐ詠んでいただけないかとの仰せがあり、私を使者に命じられたのです」と、経緯を説明した。
御息所は大変驚いて、「これはまた、仰せ事とは思われません。前もって仰せがあったとしても、躬恒や貫之が詠むようにはとても詠めるものではございません。ましてや、こう突然のこととなれば、困惑してしまいます。思いもよらぬことでございます」という声が、かすかに聞こえてくる。その気配は、気高く魅力的で、奥ゆかしい。
伊衡はこれを聞いて、「世の中には、こんなにすばらしい人もいるのか」と思った。
しばらくして、汗衫(カザミ・童女の正装時の上着)を着た愛らしい童女が、銚子を持って簾の中から膝をすって出て来た。
「どうするのか」と伊衡が思っていると、その簾の下から趣のある扇に杯を乗せて差し出されてきていたのである。愛らしい童女が出て来たのに気を引かれて気が付かなかったのだ。
次に、一人の女房が寄ってきて、蛮絵(バンエ・盤絵とも。円形の紋状の絵模様の称。草花や鳥獣などが多い)が描かれている蒔絵の硯箱の蓋に、清らかな薄様の紙を敷き、その上に数種の果物入れて差し出した。酒を勧めるので、杯を手に取ると、童女が銚子を持って酒を注いだ。
「もう十分です」と言っても、聞こうとせずさらに注ぐ。「自分が酒好きだと知っているのだ」と思うとおかしくなった。そこで、飲み干し、杯を置こうとすると、置かせずに次々と飲ませる。四、五度ばかり飲んで、ようやく杯を置いた。
すると、すぐに続いて、簾の下から杯が差し出された。辞退したが、「そんなお愛想のないことを」と言うので、杯を重ねているうちに酔ってきた。
女房たちが少将(伊衡)を見ると、赤みのさした頬や目元が桜の花の色に映りあって、この上なくすばらしく見える。
大分時間が経った頃、紫の薄様の紙に歌を書いて結び、同じ色の薄様の紙に包んで、女の装束と一緒に簾の中から押し出してきた。赤色の重ねの唐衣、地摺りの裳、濃い紫の袴である。色合いがとても清らかで素晴らしい。
「思いもかけぬ贈り物でございます」と言って、頂戴して立ち上がった。
女房たちは少将が帰るのを見送り、その様子を褒め称えた。門を出て見えなくなるまで見送ったが、歩いて行く後ろ姿はまことに優雅であった。
車の音や先払いの声などが聞こえなくなると、たいそう物寂しく思われ、先ほどまで坐っていた敷物に移り香がしみついていたら、それを取り除けるのが惜しいと思うのであった。
一方、天皇は、「まだ帰って来ないのか、まだなのか」と人を見に行かせたりしていた。
ようやく、殿上の間の入り口の方で先払いの声がして少将が参内し、「行ってまいりました」と申し上げると、天皇は、「早く、早く」と仰る。
道風は筆を湿らせて用意を整えて御前に控えており、然るべき上達部(カンダチメ・上級貴族)や殿上人も大勢御前に伺候していた。
そこへ、伊衡少将は賜った装束を頭上にかざし、それを殿上の間の戸の脇に置いて、御息所の文を御前に持ってきて奉った。天皇はこれを開いて御覧になったが、まず、その筆跡のすばらしいこと、道風が書いたものに少しも見劣りがしなかった。
御息所はこのように書いていた。
『 ちりちらず きかまほしきを ふるさとの はなみてかへる ひともあはなむ 』
( 吉野山の桜はもう散ってしまったのか、まだ咲いているのか、聞きたいのだが、花見を終えて帰る人に 会えればいいのだがなあ。)
天皇は御覧になって、大変感嘆なされた。御前に伺候されている人々に、「これを見よ」と言ってお見せになると、一同はそれぞれに情緒豊かに詠じられると、ますます歌の背景が見えて、すばらしく聞こえること限りなかった。その後も、何度も詠じてから、道風が屏風に書き込んだ。
されば、御息所はやはりすばらしい歌人である、
となむ語り伝へたるとや。
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