雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

安和の変 ・ 望月の宴 ( 6 ) 

2024-03-13 20:42:50 | 望月の宴 ①

        『 安和の変 ・ 望月の宴 ( 6 )  』


冷泉帝は、御物の怪に苦しめられることが並々ではございませんでした。
そのため、しかるべき殿上人や殿方が、夜昼怠りなく伺候しておられました。それは、まことに空恐ろしいお勤めでございましたので、
「今日は御譲位なされるのか、明日は御譲位なされるのか」などと、何とも畏れ多い噂をされているとか。
帝と申すものは、一代はおだやかに長く、一代は短くてすぐに御譲位なさるのも、必ずあることなどと取り沙汰されておりましたが、今年は安和二年であり、在位も三年となり、どうなっていくのかと思われるのでございます。

かかるほどに、世間では実にけしからぬ噂が広がっていた。
それは、源氏の左大臣(源高明)が、式部卿宮(為平親王)が立太子出来なかったことを根に持たれ、朝廷を傾けさせようと企んでいるという事件が出来(シュッタイ)して、世間では不穏なうわさで沸き返っている。
「いや、まさかそのようなけしからぬことはあるまい」など、世間の人が申し、思っているうちに、仏や神が見放されたのであろうか、あるいは噂通りに源氏の左大臣に、そのようなけしからぬ御心があったのだろうか、三月二十六日に、この左大臣の邸を検非違使が取り囲み、宣命(センミョウ・天皇の命令を宣べ聞かせること。)を大声で読んだ。「朝廷(ミカド)を傾けようと計画した罪によって、太宰権帥(ダザイノゴンノソチ・大宰府の長官。通常、「帥」は親王の官なので、「権帥」が下国して長官職を務めた。)として左遷する」と。

今は御位も剥奪された身の上の決まりとして、網代車(アジログルマ・粗末な車。)にお乗せして、むりやりにお連れしたので、式部卿宮の御心地は、ご自分に関係ないことが原因であっても、このような事態となればただならぬ御心境であろうに、ましてご自分の事により出来した結果だとお思いになると、どうしようもなく、自分も連れて行け、連れて行けと騒ぎ立てられた。
北の方や女君や男君たちのご悲嘆、言うすべもないほどの邸内の有様は、推察いただけよう。

その昔、菅原の大臣(菅原道真)が流罪になったことを、世の物語としてお聞きになっておられたが、この度の事は、あまりにも意外なことで過酷な目に遭い、途方に迷い、一同泣き騒いでいらっしゃるのはまことに悲しい。
男君たちで元服しているお方も、父と一緒したいとうろたえ騒ぎ立てられたが、まったくそばに寄せ付けようともしない。ただ、ご兄弟の中で末弟で、まだ童で左大臣殿の御懐を離れようとしない君が泣き騒ぐので、その旨を奏上すると、「されば、やむを得ない」とその子だけは許されたが、同じ御車ではなく、馬に乗ってついていく。この君は十一、二歳ばかりでいらっしゃったが、今の世で、悲しく異常な例である。(「この君」というのは、末弟・経房と十一、二歳の俊賢とが入り込んでいるらしい。)

人の死というものはごく普通のことであるが、この事件は、まことにまがまがしく情けなく思われる。
醍醐の帝と申されるは、たいそう賢明であられ、聖帝とさえ申された帝でであり、左大臣はその帝の皇子であり、第一の源氏となられたお方である。
このような出来事は、世にも奇妙で悲しく情けないことだと、世間では取り沙汰されている。

後に安和の変と呼ばれることになるこの出来事は、確かに、理解に苦しむ所の多い事件ではありました。
そもそも、事件を引き起こした原因とされる立太子そのものが、確かに不可解なものでございました。東宮に立たれた守平親王は御年九歳、為平親王は十八歳でありました。お二人は両親を同じくする御兄弟であり、為平親王は御壮健でありご賢明でもあられます。それなのに為平親王が東宮に選ばれなかった理由を求めるとすれば、源氏の左大臣高明殿が義父となられていることに他ならないのでしょう。
左大臣殿は、聖帝として敬われている醍醐天皇を父に持つ賜姓皇族で、冷泉天皇の父村上天皇の異母兄にあたります。今も朝廷における影響力の大きな御方でありますが、為平親王が東宮に立ち、やがて即位なされるとなれば、醍醐源氏の天下となる可能性は、十分に予測されることであり、それを恐れた方々がいることも、確かな事でありましょう。
それに致しましても、左大臣が朝廷を傾けようと計画なさるなどと、世間の人は信じたのでしょうか。

式部卿宮(為平親王)は、法師になられようとも考えられたようですが、幼い御子達がおり、左大臣殿が連行された数日後にはその御邸西宮殿が焼亡するなど、北の方やその母君などのお悲しみを、ただ一人で支えて行かねばならない事を思えば、とても、ご出家は叶うことではございませんでした。
とはいえ、そのお悲しみは深く、お庭の池も遣水も荒れ、あれほど丹精されていた前栽や植木も伸び放題でございました。
さらに、その御心は、さらに荒れ果てて、この世に生きながら、まるで別人のようになられた御身の上は、おいたわしい限りでございます。

そして、源氏の左大臣のたくさんの御子たちの中の末娘である姫君は、まだ五、六歳であられましたが、左大臣の御兄弟である十五の宮(盛明親王)に御娘がいらっしゃらないこともあって養女として迎えられ、姫宮として大切にされご立派に養育されるのでございます。
この姫宮の御名は明子さまと申されますが、後に、我が殿(道長)と結ばれることになるのでございます。

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