雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

山が崩れて海となる ・ 今昔物語 ( 10 - 36 )

2024-05-20 08:07:23 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 山が崩れて海となる ・ 今昔物語 ( 10 - 36 ) 』



今は昔、
震旦の[ 欠字。王朝名が入るが不詳。]の御代に、[ 欠字。州名が入るが不詳。]州という所に大きな山がある。その山の頂きに卒塔婆がある。
その山の麓に里があり、その里に一人の媼(オウナ)が住んでいた。年八十歳ばかりである。
その媼は、日に一度、必ずその山に登って頂きにある卒塔婆を拝んでいた。
大きく高い山なので、麓から峰に登るに従って、険しくなり息苦しくて、なお道は遠い。けれども、雨が降ってもめげずに、風が吹いても休むことなく、雷が鳴っても恐れず、冬の寒く凍れる時にも、夏の暑く堪え難い時にも、一日も欠かすことなく必ず登って、この卒塔婆を拝んだ。このようにして長い年月が過ぎた。

人々は、この様子を見て、強いて本来のいわれを知らないままに、単に卒塔婆を拝んでいるのだと思っていたが、夏の極めて暑い頃に、若い男童子たちがこの山の頂に登り、卒塔婆のもとに坐って涼んでいると、あの媼が、腰が曲っているものの、杖にすがって汗を拭いながら、卒塔婆のもとに登ってきて、卒塔婆を回って見ているので、ただ卒塔婆を廻り奉っているのだと思っていたが、あまりに何度も廻るのが奇怪に感じた。この卒塔婆の陰で涼んでいる者たちは、今回だけでなく度々媼を見かけていたが、この様子を見て、「あの媼は、どういうつもりで、苦しいだろうにこのようにしているのだろう。今日やってくれば、この事を訊ねよう」と言い合わせていたが、いつもの事なので、媼はあえぎあえぎ登ってきた。

この若者たちは、媼に訊ねた。「おばあさん、あなたはどういうつもりで、我等のように若い者でも、涼むためにやって来た者でさえ苦しいのに、涼むためにやって来るのかと思っていたが涼もうともしない。また、別にすることもないのに、老いた身で毎日登り下りしているのは、極めて怪しいことだ。どういうわけが教えて下さい」と。
媼は、「最近の若い人は、本当に怪しいと思うのでしょうね。このようにやって来て卒塔婆を見る事は、最近に限ったことではありません。わたしは、物心ついた頃から、ずっと、この七十余年、毎日このように登ってきて見ています」と言った。
男たちは、「だから、そのわけを教えて欲しいと言っているのです」と言った。
媼は、「わたしの父は、百三十歳で死にました。また、その父や祖父は、二百歳余りで死んでいます。その人たちが言い残した事として、『この卒塔婆に血が付いた時には、この山は崩れて深い海になるだろう』と父がわたしに言い残されたので、麓に住む身なので、山が崩れると打ち襲われて死んでしまうので、『もし、血が付いていれば、逃げ去ろう』と思って、このように毎日卒塔婆を見ているのです」と言った。

男たちは、これを聞いて、馬鹿にして嘲り、「恐ろしいことですなあ、崩れるときには教えて下さいよ」などと言って笑っていたが、媼は、自分のことをあざ笑っているとも気付かないで、「分りました。どうして、わたし一人が助かりたくて、お教えしないことがありましょうか」と言って、卒塔婆を廻り見て、下りていった。
その後、この男どもは、「あの媼は今日はもう来ないだろう。明日に、また登ってきて卒塔婆を見ようとするときに、おどして走らせて笑ってやろう」と言い合って、血を出してこの卒塔婆に塗りつけて、男たちは帰って里の者たちに、「あの麓に住んでいる媼が、毎日登って峰の卒塔婆を見ているのが怪しくて、そのわけを聞いたところ、然々と言うので、明日おどして走らせてやろうと思って、卒塔婆に血を塗って下りてきたんだ」と話した。
里の者たちも、それを聞いて、「きっと崩れてしまうだろうよ」などと言って大笑いした。

媼が、次の日に登って見たところ、卒塔婆に濃い血がたくさん付いていた。
媼はこれを見て驚き倒れて、走って山を下って、「里の人たち、急いでこの里から離れて、命を守りなさい。この山は、たちまちのうちに崩れて深い海になろうとしている」と大声で叫んだ。それを何度も繰り返しながら、里中に告げてから、家に帰り、子や孫に家財などを背負わせて、その里を去って行った。
その様子を見て、血を付けた男たちが大笑いし騒ぎ合っていると、何と言った事もないのに、辺り一面がざわめく音がし始めた。「風が吹き出したのか、雷が鳴り出したのか」などと思って怪しんでいるうちに、空が真っ暗になって、奇怪なほどに恐ろしげになった。

そして、この山が揺れ動きだした。「これは、どうしたことか」などと言って、大騒ぎしているうちに、山はどんどん崩れていった。
その時になって、「媼が言っていたことは、本当だったのだ」と気付いて、上手く逃げることが出来た者もいたが、親の行方が分らず、子が逃げた道もなくなってしまった。いわんや、家財や道具などがどうなっているか分らないままに、大声で叫び合っていた。
この媼一人だけは、子や孫を引き連れて、家財道具なども一つとして失うことなく、山が崩れ始める前に逃げ去っていて、他の里で静かに住んでいた。媼の話をあざ笑っていた者たちは、逃げ切れることが出来ず、皆死んでしまった。

されば、年老いた人の言う事は、重んずべきである。
こうして、この山は皆崩れてしまって海になったのである。不思議な事だ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


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